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ある新聞記者の歩み 4 1面トップに大見出し踊る

経済部時代(2) 1面トップを飾るスクープに

◆興奮しながら記事執筆 地婦連事務局長は不買運動宣言

Q.すぐに記事を書かれたのですか?

「これはもう一面トップいただきだ!と、はやる気持ちで夕方会社に帰り、編集局入り口の経済部別室に籠りキャップの図師さんと興奮しながら一面の本記は図師さん、僕が経済面の2面で会議の様子を書き分けました。
 それが「松下、消費者運動に反撃」というような大見出しで1面トップと経済面の大記事になりました。確か早版からではなく、特ダネなので13版から掲載されたように思います。ただし、今見ると、販売店主を装って潜入したので、写真がありません。今ならスマホで撮ることもできるでしょうから、時代を感じさせます。」

「原稿を書き上げてデスクに出稿、図師さんが「とりあえずいいよ、適当なところで電話してくれ」という事で、当時付き合っていた大学のサークル仲間と約束していた映画を見に新宿の「アートシアター」に行きました。切りのいいところで経済部に映画館の中の公衆電話、通称赤電話に十円玉を入れながら連絡したら、「1面トップだからたいへんなことになっている、地婦連事務局長の田中里子の談話を取れ」と言われました。田中さんとは二重価格問題で何回か電話で話したことがあるので、連絡を取り浦和での松下の大会の話をしました。田中さんは藤尾専務の発言、特に「消費者運動には負けない」という発言に怒り心頭で「消費者運動をバカにしている。年末に向けて、松下製品不買運動を展開する」と松下を批判しました。」

19701015毎日スクープ松下強気な販売作戦

「これらのいきさつについては、ノンフィクション作家の立石泰則さんが『復習する神話 松下幸之助の昭和史』(1988年、文藝春秋刊、1992年、文春文庫)という本にも詳しく書いています。」

 不運なことには、この会場には新聞記者が二名取材のために潜入していたのだ。もちろん、そのことを松下側は知るよしもなかった。
 翌十月十五日の朝刊で、毎日新聞は一面トップに「カラーテレビ 松下、強気な販売作戦 値段引下げ応じぬ」という大見出しで藤尾発言をすっぱぬいたのである。この藤尾発言は、当然のごとく消費者団体を刺激し、その態度を硬化させた。消費者運動のイニシアティブをとっていた地婦連では、ただちに事務局長の田中里子がコメントを発表した。
 「まったく消費者をバカにした話だ。松下がこのような態度を打ち出したのは、私たちの消費者運動に対する挑戦だと思う。・・・私どもは松下の系列店を狙い撃ちにボイコットするなど、強力な対抗策を全国六百万の会員に訴えていくつもりだ」

◆松下、とうとう白旗 新聞の役割を実感

 「そういうボイコット運動のきっかけを作ったのが、このスクープ記事だったということです。ほかの松下のことを取り上げた本にも、毎日新聞とは必ずしも書いてないですが、新聞記者が潜入して記事を書いたというのが載っています。
 それに加えて米国への輸出価格が日本の販売価格の半額だという事も伝わり、年末のボーナス商戦に向けてボイコット運動が続くわけです。毎日新聞のすっぱ抜きの記事は、その流れの火に油を注いだものだったと思います。マスコミはみんな消費者運動側の味方でした。」

「年末だったか年初だったかに松下と地婦連の公開討論があって、松下側は白旗をあげるんです。それによって二重価格というのは解消して、販売店の自由価格という形に落ち着きました。その背景には、正価販売をするメーカーのチェーン店、その一方安売りをするダイエーなど大手ス-パーと量販店が出てきたということがあって、消費者の不満が高まったということがあります。家電製品のマーケットでの価格決定権を握る松下の覇権に対する不満が高まり、消費者運動が燎原の火のごとく広まって、最終的に松下が白旗を掲げたという顛末です。今もメーカーは商品に値段をつけてないですね。「希望小売価格」という遠慮がちな価格を出してはいることはあります。そのそもそものきっかけはあのときの不買運動だったということになります。記事は日本の消費者運動に役立ったということになるような気がします。」

「あのとき思ったのは、新聞というのはすごい役割を果たすのだなということです。当時としては消費者は、メーカーにタテ突くには新聞への投書くらいしかなかったわけです。おしゃもじデモというようなことはありましたが、それも新聞が報じなければ知られないのですから。」

◆松下が広告をストップ

「松下電器は、当然、毎日新聞に恨み骨髄です。広告局を通じて圧力をかけてきたようです。結局、松下はかなりの期間、毎日への広告出稿をストップしたようです。社内で広告局から編集局に苦情が来たと思います。それを受けた経済部のデスクは、我々に一切伝えませんでした。当時のデスクはエライと思いました。絶対に出先の取材記者を萎縮させてはいけないという思いがあったんではないでしょうか。後年、広告局に行って商業新聞として、いかに松下の広告の存在が収入源として大きかったことを知り、当時の経済部の幹部は前線の記者を守ってくれたんだと、本当に毎日新聞記者でよかったと、しみじみ思いました。」

「でも当時、こちらはそんなこと知らないで「特ダネ記者の佐々木だ!」みたいなデカイ顔しては浜松町の松下東京支社広報室に通っていたからいい気なもんだと思います。相手もさるもので、本当はハラワタが煮えくり返る思いをしていたと思います。でも広告をストップしたなんて一言も言いませんでした。ただ東京広報部長のSさんが「あの大会の情報を流したのは埼玉の○○さんですね」とこちらは知っているぞ、とチラリと漏らしたことはありました。」

◆20年後に、当時の松下社長と対面

「それが翌年3月位に収まります。松下が二重価格解消宣言を出したのです。消費者運動が勝利した記念碑的出来事だったと思います。それによって、毎日への広告出稿の停止も解かれて、ある日突然、3月頃だったと思いますが、創業者松下幸之助と毎日新聞大阪本社の経済部長との対談が1ページの紙面を取って掲載されました。紙面を見てビックリしました。恐らく手打ちだったと思います。対談記事を見て、なるほどそういうことだったのか、とわかりました。」

「1992年ころ事件から約20数年後、広告局にいた際、東京のホテルで開かれたパナソニックの正月パーティーだったか、90才前後の杖を突き、ソファーに腰をおろした松下正治名誉会長にお目にかかったことがあります。その時、名誉会長に挨拶をして「埼玉・浦和のナショナル店会総会に潜入して一面トップの記事を書いた毎日新聞の佐々木です。今は広告局にいてお世話になっております」と自己紹介しました。「君かあの時の記者は。あの時は本当に大変だった。そうか君だったのか」と元伯爵家出身で、創業者松下幸之助の娘婿の赤ら顔の松下名誉会長と握手を交わしました。
 しかしやがて3C(カー、クーラー、カラーテレビ)マーケットは飽和状態になり、東芝、日立、シャープ、三菱電機、三洋電機など他の家電メーカーがやせ細っていきました。松下電器はあの時の教訓をもとに消費者向けの姿勢をとるようになり、2008年パナソニックに名称変更し、日本のマーケットで絶対的なポジションをキープして、世界の「パナソニック」となりました。松下にとって、消費者運動に対処した体験は、今日の「パナソニック」隆盛の根幹になっているのではないかと思います。」

◆ニクソンショックで固定相場制終焉

「その当時の経済情勢を考えると、僕が経済部に上がったのは昭和45年(1970年)5月、翌年の1971年8月15日に、ニクソンのドルと金との交換停止が発表がありました。いわゆるドル・ショックです。第二次ニクソンショックとも言います。第一次は同年7月15日にニクソン大統領の訪中発表です。
 その時、お盆休みの真っ最中でしたが経済部員全員に非常招集がかかりました。僕はたぶん、長野県大町市の山間にある山荘(これは僕のオヤジが持っていたです)に行っていたと思うんですが、そこから東京までかけつけました。だけど、経済部の連中にとっては、このニクソンショックがどういう意味なのかほとんどわからなかったんじゃないかな。少なくとも水戸支局から上がりたての僕にはその意味がピンときませんでした。そもそも1ドル=360円、その米ドルは米国の金保有に担保されているんだ、という固定相場制のもとに日本経済は戦後が成立していたんですから。戦後26年間その体制が続いていた。外国為替相場なんていうのは経済記者の頭になかったように思います。いまから考えるとウソみたいなですが、そんなこと考える必要がなかった。」
「日本経済が成長軌道に乗り、家電製品を中心とした日本製品が米国や世界を席巻し始めて、日本の為替相場の不公平さを指弾するようになって来たんですね。ボクシングでいえばフライ級のつもりが、いつの間にかヘビー級になっていたようなものです。なにしろ1962年、当時の池田首相が訪仏した時、誇り高きフランスのド・ゴール大統領に手土産にトランジスタ・ラジオをプレゼントした際、同大統領から“トランジスタのセールスマン”と揶揄された、と伝えられました。文化より、経済優先で官民挙げて日本電化製品を売らざるを得ない状況でした。今でもその屈辱感を記憶しています。」
「71年12月のスミソニアン合意で、1ドルが従来の360円から308円になりました。財研(大蔵省記者クラブ)や日銀記者クラブ(日本銀行担当)なんか、新しい相場がいくらになるかって大騒ぎして、夜討ち・朝駆けの特ダネ合戦で大変だったと思います。こっちはまあ為替がドル300円、200円になると輸出はどうなるかという反響を取ったり、工場の海外進出を考えなくてはという反響原稿を書く程度で、いわば蚊帳の外でした。そうして73年2月に変動相場制に移行しました。でも“円高不況論”というのがあって、経済界からは、中小企業を中心に「明日にもつぶれる」という声が強かったですね。しかし結果として、日本経済はグローバル化の荒波にさらされることになったわけです。」

◆グローバル化と消費社会到来の潮流のただ中に

「その前に資本の自由化がありました。昭和42年(1967年)だったかな。日本も海外に出て行くのは自由だし、海外から日本に来るのも自由になりました。これはグローバル経済の発端だったと言えます。だから、そういうバックグラウンドがあってのできごとだったわけです。当時のデスクの中尾光昭さん(退職後、名古屋商科大学教授)がエール出版というところから『円切り上げ待望論-インフレを防ぐキメ手はこれだ』(1970年刊)というのを出してベストセラーになったのですが、その頃は、円高っていう言葉がピンと来なくて、1ドル360円が370円になるのが円高なんじゃないかとつい思ってしまうくらいに、みんなが知らなかったという実態だったと思います。一般向けにやさしく書いてあるんですが、一生懸命読んで勉強しました。だけど何しろ「円高」と「円安」の「高」と「安」がそれまでの常識と逆転しているわけで、なかなか当方の“灰色の脳細胞”にはスンナリ入らなかったことを憶えています。そんな時に経済記者をやっていたというのは、今考えれば、国際的な波に洗われはじめた瞬間にめぐりあっていたということになりそうです。」
「こういう時期に僕は、松下電器を筆頭とする家電の二重価格問題なんていう国内の問題に当たっていたわけです。当時ベストセラーになった東大教授の林周二さんの『流通革命―製品・経路および消費者』(1962年刊)という中公新書の本があります。この本は、大型量販店が進出してきて、直売というのが増えてきて、日本の消費の体制ないしマーケットが変わるということを初めて分析した本だったように思います。本が出たのはだいぶ前ですが、メーカーの販売部門、流通業界などではバイブルのように読まれていました。そういう中で二重価格問題というのが起きてきたわけですが、まさにこの本が予言した通りの状況になってきたんですね。
 僕なんか大所高所からの論はあまり得意でなく頭に入らず、目の前の問題を追ってかけずりまわっていました。あとから考えると、家電メーカーは国内でのもうけを、為替のメリットを生かしながら外国でのシェアを取るために使うため必死だったと思います。そういう時代の潮流の中に真っただ中にいたと言えます。」

(続く)