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ある新聞記者の歩み 25 支局の若手の一人は未来の社長!

元毎日新聞記者佐々木宏人さんからの聞き書き第25回です。前回は、佐々木さんが甲府支局長時代に面倒を見た若手3人組のうち、現在、社会部専門編集委員として終活などをテーマに活躍している滝野隆浩さんに焦点を当てました。今回は、松木健さんをメインに取り上げます。松木さんは、今年(2022年)、毎日新聞社の社長に就任されました。新聞記者たるもの、まさか、新人時代から社長をめざしていたなんてことはないと思いますが、どんな新人だったのでしょう。なお、佐々木さんが支局長時代を振り返るときに忘れられないベテラン記者がいました。惜しくもガンで40歳の若さで亡くなったその山田正治さんのことを合わせてお話いただきます。(聞き手:校條諭、メディア研究者)
 

全社員に語りかける新社長松木健さん

◇特ダネ連発の“魔法使い”


Q.まず、ずばりお聞きしたいんですが、松木健さんが支局にいた頃、佐々木さんから見て、社長になるという何か兆候というのか予感というのか、ありましたか?興味本位ですが(笑)・・・。
 
まったくないなあ(笑)。クールだけど新聞記者大好き人間だったように思えたな。当時の現場の新聞記者なんて、経営陣に入るのが夢!なんて思っている奴なんていないんじゃないでしょうか。その辺が最低でも“部長・重役”を目指す、普通の“昭和のサラリーマン世界”と違うところだったと思いますよ。だって朝支局に顔を出して、すぐ自分の担当の警察や市役所、県庁の記者クラブに直行、事件、事故、市政、県政の原稿などを書いて夕方支局に上がるか、電話で草稿するか。その後、夜回りか、支局の仲間、クラブの他社の記者仲間、取材先の人と飲みに行く。イヤな(笑)支局長の顔なんて見なくて済むからね(笑)。
 
だいたいが現役の記者生活が楽しくてしょうがない、いずれ本社に上がって社会部、経済部、政治部など大舞台で取材をして、一面トップの特ダネを取りたいというのが、ほとんどじゃないかな。そうして、最後は署名入りのコラムを持ったり、社説を書いたり、朝刊一面下のコラム「余録」、朝日新聞なら「天声人語」にあたるような文章を書けるような、生涯一記者で終わりたい―という感じが普通だったんじゃないかな。
 
その頃の普通の会社人間のサラリーマンみたいに上司にペコペコしたり、社内で人間関係に気をつかわなくてもいい、ジャーナリスト―大袈裟に言えば“言論の自由”を守る独立事業主みたいな気分で、記者を志望する学生が当時は多かったように思いますよ。経営の状況、部数の動向など関心を持つ奴はほとんどいなかったなあ。ぼくも含めて滝野君、松木君、隈元君なんてみんなそうだったと思う。だってそのころしょっちゅう「週刊新潮」を筆頭に週刊誌に「落ち目の毎日新聞!」なんて書かれていたけど、ぜんぜん気にしなかったもんなあ(笑)。社長になる兆候って、どういうのがあるのかなあ?

Q.たとえば放っておいてもリーダーシップを発揮しちゃうとか、あるいはものごとを率先して整理して人に語るとか、あるいは数字に強いとか・・・。
 
あっ、数字には強かった感じがするなあ。あと説明能力、今でいうならプレゼンテーション能力はすぐれていたと思う。滝野君や隈元君たちは、取材対象にほれ込むようなところがあったように感じますが、松木君はそこはクールだったような気がします。ところが、松木君の1年入社年次が下の隈元君にメールで問い合わせて見たんですが、意外にホットだったんだな、これが。
 
>>>>>「支局2年生の頃です。県警キャップは松木さん、私は甲府署詰めでした。ある日の早朝、松木さんからの電話で起こされました。
   「山日(地元紙の山梨日日新聞)を見たか?」
何か抜かれたかと思い、慌てて開きました。社会面には特に気になる記事はありませんでした。
   「何か……」
   「1面だよ、1面!」
富士吉田の恩賜林組合をめぐるサンズイ(汚職事件)の一報でした。
怒濤の日々の始まりでした。松木さんもすでに端緒をつかんでいました。初報こそやられたものの、その後抜き返し、毎日は圧勝でした。すべて県警キャップの松木さんの力技でした。同じ会社とはいえ、「どこから……?」と先輩に聞くのは、私たちの世界ではタブーです。次から次へと特ダネを放つその時の松木さんはそれこそ『魔法使い』に見えました。」<<<
 
この事件はぼくも覚えていて、当時、県内の自治体の中でも、やり手の市長と言われた通称“マンダン”こと、渡辺万男富士吉田市長が贈賄で逮捕されたんです。1987(昭和62)年2月のことでした。利権の巣となっていた富士吉田恩賜林組合の組合長になるため周辺自治体の役職者数人に1人百万円を贈った―という事件。(注:恩賜林とは、明治末期に皇室から下賜された御料林のこと。自衛隊の北富士演習場など、富士山麓の広大な森林を管理する。演習場だけで組合に年間15億円の国・県から交付金が支給されている。)

クマちゃん(隈元君)によると二人は連日、車で一時間はかかる富士吉田市に通い、松木君は逮捕された渡辺市長周辺、警察・検察のトップに食い込んで特ダネをものにしたようです。「当時、当局のトップ層、事件当事者には直接当たらない(取材しない)という慣習のようなものがありました。松木さんはその壁をやすやすと越えたところを取材していたわけです。」とクマちゃんは言っています。
 
デジタル化が進んで新聞業界が斜陽化していますが、松木君は社長になって、その壁を乗り越えるガッツがあると思うんだよね。
 

◇若手トリオ、下宿でフォーク合唱

 
Q.そういう事件の時、支局長は県警本部長などに取材にいったりしないんですか?
 
それをやる支局長もいたと思うけど、僕は一切しませんでした。もちろん時々、知事や県警本部長に挨拶は行きましたよ。でも取材するのは一線の記者を信頼していないことになるし、支局長が“特ダネ”取ってもしょうがないですね(笑)。支局は新人記者が特ダネを取る勉強をするところですからね。それよりも冬の2月、甲府から富士吉田市まで凍結した山越えの道路もあるところで、交通事故の心配と、ガソリン代などの本社からくる取材経費で大丈夫払えるか(笑)。前年に行われた国体で、「かいじ国体パンフレット」を出した収益で余裕があったので助かりました(笑)。
 
Q.松木さんは警察担当だったのですか?
 
そうです。そのあと県庁・県政もやっていたと思います。クルマを飛ばしてあちこち、たとえばブドウ狩り、ワインの試飲会など観光シーズンになると、甲府の郊外の敷島町(現・甲斐市)にあるサントリー・ワイナリーなどに行って“絵解き原稿”(写真付きで季節の風物詩を書く原稿)を書いていました。原稿も書くのも早かったなあ。
 
松木君の場合は、非常に腰が軽くて、取材先でも中央省庁から派遣されている幹部にはかなり食い込んで、岩手の盛岡市出身なんだけど東北出身を感じさせない、スマートで都会的なんだよね。外語大のインドネシア語科卒業だったかなあ。なんでインドネシア語なのかその動機は、飲んだ時に聞いたことあるけど忘れました(笑)。人なつっこいっていうかねえ。頭の回転のいいやつで、隈元君に対して先輩面して、「ちゃんとまとめなくちゃだめじゃないか」とか言って(笑)。滝野君は滝野君で「松木、ちゃんと回らなきゃダメだぞ」なんて言っていたなあ(笑)。
 
でも、クマちゃんたちは連れ立って飲みに行ったりもしたし、松木君の下宿で彼がギターをかき鳴らしフォークソングの大合唱をやって、隣の部屋から“うるさい!”と怒鳴られたこともあったようです(笑)。南こうせつの「神田川」でもかき鳴らしていたのかな(笑)。考えてみれば当時25、6歳前後だったんだから、まだ青春時代の尾っぽを付けている時期だものね。三人はいいいトリオだったなー。
 
Q.松木さんと隈元さんは、もともと年は同じだけど、松木さんの方が1年早く入ったから、先輩として振る舞うのですか?
 
まあ、入社年次優先、そういう感じですね。ただ松木君は“クマちゃん”って言ってたかも。滝野君はやっぱり元“自衛隊“だから(笑)、松木とか隈元とか呼び捨てだったと思います(笑)。
 
Q.何とかちゃんというのは便利ですよね。上下あいまいにする感じがあって。
 
そうですね。でも、何となく雰囲気としてクマちゃんは太枠のメガネにヒゲ、容貌に愛嬌があってすぐクマちゃんと呼ばれたけど、松木君の場合はクールな感じだったから、まっちゃんとは呼ばれてなかったような気するな。
 
Q.滝野さんはターキーとかいうことはなかったですか?(笑)
 
校條さんも古いね(笑)、ターキーなんて久しぶりに聞いたな。水の江瀧子じゃないんだから(笑)。(注・戦前の宝塚歌劇団の初の男役“男装の麗人”といわれ、戦後は映画プロデューサーとなり石原裕次郎、浅丘ルリ子などを発掘・育成した。2009年94歳で死去、ターキーの愛称で親しまれた)。
 

◇後輩のピンチに「あとはまかせろ」


 隈元君は、事故現場の写真を撮ったと思って支局の暗室でカメラを開けたらフィルムが入ってなくて(笑)、暗室から出られない日があったなんて聞いたけど、いかにもクマちゃんらしいエピソードで、滝野、松木先輩はどやしたり励ましたりしてたんだろうなあ。
 
隈元君、野球なんか得意じゃないのに高校野球の取材をするハメになっちゃった。毎日新聞が主催している春の選抜高校野球です。1987(昭和62)年の大会では、なんと県内から東海大甲府、甲府工業の2校が甲子園に出場、二校とも準々決勝まで進み、大騒ぎでした。東海大甲府は準決勝まで行って、次は優勝かもという勢いでした。クマちゃん曰く・・・
 
>>>>>「東海大甲府が準決勝まで進んで、決勝戦までいったらどうしようと心細い気持ちでいたのですが、松木さんが甲子園に助けに来てくれました。松木さんが『あとはオレにまかせろと』と言ってくれたんです。」<<<
 
ホッとしたろうな。この三人は、ホントいいトリオだったと思います。
 
野球の取材ってワリと大変なんですよ。ゲームの進行を記録する「スコアブック」を一球一打付けなくてはならないし、終われば監督、殊勲選手などのインタビュー、応援団の反応など―いろいろ書かなくてはならない。午後の最後の試合で延長になんかになったら、県大会なんか県版の締め切りに間に合うか間に合わないか、ハラハラドキドキです。
 
Q,支局長は甲子園には行かないんですか?
 
行きません(笑)。その時も支局一階にある毎日広告社と組んで、「二校出場おめでとう!」なんて別刷りを作るのに一生懸命で、ぼくは夜の飲み会の人脈を生かして広告出稿をお願いして、儲けました(笑)。
 
優勝したら再度作ろうと思ったんだけど、そうはうまくいかなかった(笑)。
でもこの時の選抜大会で会社から「新聞拡張」のお願いがくるんですが、これも“夜の人脈”を生かして、百部近く拡張したかな。東京管内でベスト3には入ったと思う。こういう編集活動ではなく、“営業活動”ばかりやったからその年の販売店の集まりの東京懇話会の総会で「社長賞」表彰を受けました。新聞協会賞ならいいけど、あまり自慢にならないね(笑)。
 

◇学生のときのアルバイトで新聞社にあこがれた?


 松木君の話に戻ると、松木君は芯がしっかりしていてぶれない印象を持ちました。彼はいまでも思い出すけど、ズボンのベルトのところにクルマのキーから下宿のキーからじゃらじゃらつけてたな。わりと長身で180㌢以上あるのかな クルマで飛び回ってましたね。
 
ぼくは会社やめてから、ジャーナリズム関係のNPO法人に行っていろんな人と付き合いがあったから、松木君が経済部長になったり、編集局長になった頃、その中で松木君の役に立つような人材を紹介して、ワリカン会食を何回かセットしたこともあります。たとえば、総務省初の女性官房長で、内閣広報官にもなりましたが、当時の菅義偉首相の息子が務める東北新社の接待問題で辞職した山田真喜子さんとの会合をセットしたりとか・・・、もちろん事件前ですけど。経産省のエネ庁(資源エネルギー庁)の幹部とかも紹介したことがあります。やはりそういう人たちのことを彼はちゃんとフォローして、自分の人脈にしていってました。そのへんはしっかりしてたなあ。そういう人たちから「社長になった松木さんて、あの松木さんですよね?」って、電話がぼくのところにありました(笑)。
 
Q.松木さんについて、佐々木さんは以前、彼はもともと経済部と縁があるんだといわれていましたが。
 
彼は入社前の学生時代、経済部でアルバイト(事務補助員)をしていたことがあるんです。ぼくは、大蔵省担当のころかな、その当時から知ってました。その頃、バブル景気に沸く兜町の午前・午後の場況(株式市場の状況)を、直通電話で兜町記者クラブから送ってくる原稿を書きとったり、FAXで送られてくる記者クラブからの原稿をデスクに渡したり、デスクが見た原稿を整理部に持って行ったりする仕事でした。
 
締め切りぎりぎりの原稿は、彼が記者からの電話を受けて書き取ってもらうとか、ぼくも世話になってました。そんな経験があって、彼は新聞社に憧れたのかな。でも当時から彼の動きはキビキビして、電話で取る原稿も誤字脱字もなくキチンと書き、交代で来るアルバイト仲間の中でも目立っていましたね。だからぼくは彼を支局に配置される前から知ってるけども、あんまりそれを出したらえこひいきの感じにもなるので、経済部当時の話などせずクールに対応してたと思います。松木君もそんな感じを出さなかったな。
 

◇経済部に引っ張る“裏工作”


 松木君については、数字に強く、クールな取材・原稿が経済部にいちばん向いているなと見ていたので、経済部に引っ張るつもりで裏工作?したのは事実です。正義感あふれる滝野と隈元はどっちかというと社会部だと。
 
Q.松木さんの運命にも影響を与えているということになりますね(笑)。
 
経済部っていうのは難しいところで、たとえばクマちゃんがきても、うまく行かないところがあったでしょう。社会部志望だったある記者が、他本社から経済部に来て確か大蔵省担当になったんです。3年間いたかな、彼は経済部はいやだといって社会部に代わりました。胸に秘めた正義感があふれ出るような男で、権力そのものの大蔵省官僚などとそりがあわなかったでしょうね。
 
社会部行ってから、交通事故のキャンペーンで新聞協会賞を受賞、さらにハンセン病に関心があって、その患者への差別の不条理さと国の不当さを追求しています。やっぱり正義感の強い人は、権力にコビをうってでも?特ダネを取りたいという政治部だとか経済部の取材には釈然としなくて、ジャーナリストとして訴える手段のない市井の人、弱い立場の人の側につくんだという意識のある人っていうのは、なかなか難しいところがあるかもしれませんね。
 
Q.なるほど。新聞協会賞を取った「片山隼君事故」に関するキャンペーン報道は印象に残っています。松木さんについて、ほかに覚えていることがありますか?
 
まさか松木君が社長にまでなるとは思わなかったけど、ただ、編集局長になったときにお祝いの会をやったことがあります。当時の甲府支局の連中が集まって。そのときも、彼はそんなに構える風情もないし、平常心というかそんな感じでしたね。
 
もうひとつ、そうだ、松木君と言えば・・・言っちゃまずいのかな。ぼくが経済部のデスクで戻ったときだったか、そのころ住んでいた、ぼくの東京・杉並の実家に上京してきた折に泊まったことがありました。2階の僕の部屋を使ってもらって、僕は1階で寝てたんです。それで朝起きてきたら朝食前に、紙切れ持ってきて「用があります」っていうんですね。「用」というのは役所に出す婚姻届にサインしてくれということでした。
 
Q.何でしたっけ 立会人じゃなくて、証人ですね。2名の署名が必要のようです。
 
相手の女性とつき合っていることは当時から有名でしたよ。(横から佐々木さんの奥さんが)「私もサインしたんです(笑)」。そうなんですよー。突然でビックリしたけど、我ら夫婦が証人になりました(笑)。
 

◇新聞社冬の時代をどう乗り越えるか


 Q.松木さん、一般的には社長になったというのはすごいことですが、この先、新聞社の経営は非常に厳しいですよね。すでに部数が毎年のように落ちてきているわけで・・・。佐々木さんから見て、松木社長の今後をポテンシャルとしてどのようにご覧になってますか?
 
うーん。僕は松木君が社長になるというのが、去年の4月頃だったか新聞に出たときに、おめでとうとメールを出しました。いろいろたいへんだろうけど、頑張ってくれと。「毎日新聞の“喪主”だけにはなってくれるな」とも書きました(笑)。そうしたら彼は、「佐々木さんが思うよりもたいへんだと思います」と書いてきたけどね(笑)。
 
なにがどうたいへんなのか知りませんが---(笑)。でもぼくが広告局長当時(1995年)、部数は公称450部、それが200万部を割ってるわけでしょ?どうなるのかねえ。よほどの覚悟がなければ引き受けないよね。ほんとうに大変だと思うなあ。だけどなんとかがんばって踏みとどまってほしいけどね。
 
毎日新聞は内容的には読みでのある記事が多いと思いますよ。特に夕刊の1面、2面、3面の記事は読みでがあっていいと思う。署名入りの朝刊のコラムも秀逸だと思ってます。ただデジタルとの競争で、ほとんどが前の日には読めてしまう。ぼくたちのような年寄りには記憶の呼び起こしでいいかもしれないが(笑)、若い人は離れて行くよね。そろそろキッパリとデジタル路線で行くのか、従来の紙の新聞路線で行くのか決断のしどころじゃないのかな。
 
今年2月、毎日の創刊150周年のデジタル・イベント「毎日ジャーナリズムとは」で元NHKの池上彰さんと、朝日新聞元政治部出身テレビコメンテーターの星浩さんとの対談イベントをやりましたよね。そのとき、池上さんと、星さんが毎日新聞のリベラルな雰囲気と、デジタル化の中で調査報道の重要性を指摘されています。ボクもそう思いますね。星さんが毎日と朝日が合併したらいいんじゃないかと言ってたけど・・・。これだけ時代の回転が速いと、業界全体が対応できるのかなあという危惧を持ちますね。
 
 注)オンラインイベント「毎日ジャーナリズムとは」https://mainichi.jp/articles/20220615/k00/00m/040/105000c
 
 Q.これからM&Aとか、今の形を保つのではないことが起きるのではないかという気がしますが・・・。朝日との合併はあんまりいい案じゃないなと私は思います。論調はともかく、社風というか文化はかなり違いますし・・・。
 
よくわからないけど、激変が起きるというか、起こさざるをえないというか・・・。僕が経営企画室にいた1990年頃、米国の高級紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」を筆頭に米国、英国、豪州などで次々に大手新聞を買収して有名だった、ルパード・マードックが来日の際、毎日新聞に来て買収の話を持ってきたことがありました。「ふざけんな」っていう話になったんですが・・・。
 
Q.乗ってもよかったかもしれませんね(笑)。
 
今になってみればね(笑)。それにしても、新聞各社とも日本全国に印刷所を設備投資をして作っちゃったでしょ。大変ですよ。とにかく今の毎日新聞の山梨県版は長野県版と合同のようになって、松本支局は廃止するなど地方機関の合理化に必死のようです。部数断トツの700万部の読売1社が今のところ独り勝ちのように見えるけど。
 
Q.読売も安泰という事はないと思いますが・・・。一般の記者にとっては、滝野さんのように筆で立つ人はやっていけると思うんですが、社長とか経営陣はたいへんですよね。よく引き受けたなあと(笑)。
 
ホントにそうです。それだけに期待したいな。
 

◇若手を導いたヒューマンな記者、病に死す


 Q.ところで前回の滝野さんのところ「支局長在任中の痛恨事、食道ガンで亡くなった山田正治記者」と語っておられますが。山田記者のことを教えてください。
 
そうなんだよね。支局長になって間もない頃だったんですが、支局で40歳前の一番年長の現場の記者で県政キャップだった山田正治記者から、「体調がおかしいんです。ガンかもしれません。」といわれました。その頃はまだ“ガンの告知”は一般的ではなかったと思います。まさかと思いながら「体調に気を付けて、いつでも休んでもいいよ」と言っていたんです。
 
本人も病院に通いながら、3人目の娘さん、美麗ちゃんが生まれたばかり。ランニングに励んだりして体調管理に気を付けていたようです。とうとう食道がんの手術を受け、入退院を繰り返しながら1989(平成元)年3月末に亡くなりました。40歳でした。ぼくはその前の年の4月に東京に転勤になっていました。家族は甲府の家に置いたまま、土日は帰っていましたから、ヤマちゃんの病状は聞いていて、入院先の山梨県立中央病院に何回か見舞いに行ったことがあり、その痩せて痛々しい姿は憶えています。後で聞くと亡くなる1ヶ月前まで、支局の部会に痩せた体で胸を押さえながら原稿を持って出てきたということを聞きました。その執念はすごいなと思いました。
 
お葬式の前後で美麗ちゃんが3歳になっていなかったんじゃないかなあ、喪服の奥さんにまとわりついているのが痛々しく、ヤマちゃんの無念さに胸を突かれた記憶があります。

追悼文集に山田正治さん


 
Q.どんな記者だったのですか。
 
前に話しましたが、地方支局には大卒の新人記者と、地方採用の記者がいました。ヤマちゃんは典型的な“地方記者”でしたね。山陰の鳥取県米子市出身、母子家庭で苦労して育ち、上京。毎日新聞の八王子支局で事務補助員をやりながら苦学して毎日新聞に採用され、地方勤務を重ねて僕が甲府に来る4年前に甲府支局に来ていました。
 
彼の没後、甲府で彼が世話になった県庁の副知事を筆頭に、自治体、住民運動のリーダー、大学教授、同僚記者などが作った追悼録「風の人」があるんです。今でも時々、思い出しては書棚から引っ張り出して目を通してます。
 
「彼はヒューマンな真の新聞記者だった。世の中を愛し、市井に心をくだき続けることを心としてきた。その信念は、私と彼が出会った二十年前の若かりし頃より変わることがなかった。学び多き友であった。」これは、この追悼録にあるぼくの前任の支局長、彼を八王子時代から知っているMさんの言葉です。その通りだと思う。
 
松木君は「地域の脈動、地域に根づいた文化を丹念に掘り起こしたのが山田さんだった」と書いています。
 
隈元君は、新人記者として甲府支局に赴任した頃、ビールの空き瓶がテーブルの上に並んでいるのを前に、ヤマちゃんから次のように言われたのを忘れられないと言っています。「クマちゃんネ、抜いた抜かれたもいいけれど、それだけが記者の仕事ではないよ。訴えたいのに、それができない市井(しせい)の人の声を拾うのも大きな役目だ。少なくとも弱い人の立場に立ってペンを持ちたい。」
 
新聞記者、ジャーナリストとして基本的に必要なこと、支局長として言わなければならないことを、ヤマちゃんは言っていてくれてたんだ。こういう記者がいて支局長のぼくは楽をし、彼らは育ったんだ。ホント山田君にこう言いたいな、ありがとう、ヤマちゃん!
 
思い立って、米子にお住まいの、残された奥様の四方子さんに、この前電話をしたんですよ。72歳になられるということでした。「一昨年になりますか山田の35回忌をやりました。3人の娘は皆結婚して孫が5人います。一番上は二十歳を越えています。米子市内にいるので、クルマで孫めぐりをしています。娘が時々『お父さん今の医学なら助かっていたかもね、と言っています。お陰様で元気です。甲府ではお世話になりました。」
 
山田君亡き後、一人で3人の娘を育てるご苦労はいかばかりだったろう。苦労を感じさせない、明るいお元気な声だった。なんかホッとしましたよ。奥さんに、滝野、松木、隈元の3人の記者の近況を話すと「エッ!松木さんが社長!」とビックリしていました。彼らを育てた背景に山田君がいたんだなと、しみじみ思います。
 
さて次回は最後の隈元記者に行きますか。