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ある新聞記者の歩み 27 リクルート事件で週刊誌に追い回された“親分”・・瞬間湯沸かし器と言われた激しさの背景に壮絶な秘話が

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第27回です。今回は、佐々木さんが親しく仕えた上司・歌川令三さんのことを軸にお聞きしました。リクルート事件とバブルが当時の世相を表すキーワードです。(聞き手-校條諭・メディア研究者)
 

◆皇居の敷地でカルフォルニア州が買える?

Q.甲府支局長時代(1986(昭和61)年1月~88年4月)は、無事終わって、本社の経済部副部長に転勤になりますね。時あたかも“バブル経済”の真っ最中、経済部デスクとしては大変な時期だったのではないですか?
 戻られた直後に当時の毎日新聞編集局長の歌川令三さんも巻き込まれる戦後最大の疑獄事件といわれるリクルート事件、昭和天皇の崩御など大事件が起きますね。昭和から平成の変わり目を経験されたわけですね。どうだったのですか?
経済部に戻った直後は“甲府ボケ”では困るから?朝刊・夕刊のローテーションのあるデスク(副部長)勤務の傍ら、バブル経済の中心地・「東京証券取引所」にある証券業界担当の「兜クラブ」の、キャップも兼務しました。半年位だったかなあ。ボクを入れて若い記者を中心に4人位いたと思います。
 
兜クラブは地方支局から上がってくる記者が、経験するポジションなんです。、丁度、女性記者の若いIさんが支局から上がって来ていて、「場況(ばきょう)」といって、その日の株式市場の動きを10行程度、朝刊・夕刊の株式欄に、四大証券会社(野村、日興、大和、山一証券)の朝夕のブリーフィング(説明)を元に書くんです。
 
某国立大理学部出身の「ブタの脳味噌をスライスして顕微鏡で見ていました」という彼女が書いたのを、サブキャップのK君が「ここはこう書くんだ」といって直すのを、ボクがまた手を入れて直し、「どっちが正しんですか」と彼女が怒ったことがあったなー(笑)。その後、時々あうとその時の話になって笑い合いましたね。
 
でも「兜クラブ」行ってビックリしたのは、野村證券の大口投資家などを集めての勉強会で、たしか株式部の部長だったか、その頃の日経平均株価2万5,6千円だったと思いますが、「来年の株価は5万円は行きます。時価総額で今の日本の土地価格に換算すると千代田区の皇居の面積で、アメリカのカルフォルニア州一州を買えます。日本経済はそれほどすごいんです」といったのには驚いたな。
ホント、日本の三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収するなど凄まじい勢い。文字通り“ジャパン・アズ・NO1”の時代だった。株価も昭和60年代前半には東証の日経平均株価は1万円台、それがあっという間に1989(平成元)年の12月29日の大納会には3万8915円をつけたんだだから、スゴイよね。
 
まあすごい時代でしたね。大手企業は交際費使い放題。銀座で飲んでホステスを八王子市まで送り、自宅のある千葉まで帰りタクシー代は数万円!なんて話はゴロゴロしていましたね。ぼくでも赤坂あたりで夜遅くまで飲んでいると、タクシーが捕まらなくて飲みなおして午前3時ごろやっと乗れる―なんて時代だった。毎日新聞でもその頃はタクシー券は使い放題。十年前の事実上の倒産の危機・新旧分離なんて忘れている感じ、でも給料は他社に比べて安かったなあ(笑)。
 
今では信じられないけど、ある大手企業の赤坂での接待で家族を置いている甲府まで、ハイヤーで送ってもらったこともあります。タクシーで当時、片道5万円はした。今ならいくらぐらいするんだろう?なんか日本経済はこのままの調子で進むんだと―と思い込んでいたから不思議だよね。
 

◆リクルート事件発覚 未公開株がマスコミにも


 Q.そういう中で歌川(令三)さんのリクルート事件への関与問題が起きるんですね。

歌川令三氏 元毎日新聞社取締役・編集局長

1988(昭和63)年6月、朝日新聞横浜支局のスクープで、バブル経済の中で人材紹介という新規事業で急成長した「リクルート」の子会社、不動産会社の「リクルート・コスモス」が上場を目論んでいたんです。川崎市の助役に同社も関与する川崎駅周辺の再開発事業に便宜を図ってもらうため、1億円の未上場株を供与した、というのです。当時新規上場株は上場時価格の2倍3倍になることは珍しくなかったですからね。

 事実、1987(昭和62)年6月に上場したNTT株は売り出し価格が119万7千円、これがアッという間に318万円まで上がりました。文字通り濡れ手に粟の“バブル”。リクルート・コスモス株も成長株として上場すれば値上がり間違いなし、ということでリクルートの創業者社長の江副浩正が財界人としてのポジションを確保するという意図もあって、この未公開株を中曽根康弘、宮沢喜一元首相、NTTの真藤社長、文部・労働省の事務次官、森田康日本経済新聞社社長、丸山巌読売新聞副社長など、政官財界、マスコミにバラマキ、上場時70億円近い利益を受け手にもたらしました。これが原因で89 (平成元)年6月、時の竹下登首相は退陣しました。戦後最大の疑獄事件といわれており、自民党は同年の参院選挙で大敗、その後の連立政権、民主党政権への道を開きます。ホント、マスコミは連日、大騒ぎでしたね。
 

◆飛ぶ鳥落とす勢いの歌川令三記者


 歌川令三さんは、われわれの世代の経済部記者は、各社ほとんど知っている有名記者でした。経済部記者として大蔵省、日銀担当を長くやり、ワシントン特派員になります。ぼくより7歳上ですが、分析力に優れ、原稿もわかりやすかった。「むずかしいことを、むずかしく書くのはやさしい」だいけど、「むずかしいことを、わかりやすく書く」のは本当にむずかしいんですよね。歌川さんはそれが本当にできた人だと思います。
ワシントン特派員の時、ぼくは商社担当だったんですが、当時の四大商社(三井物産、三菱商事、住友商事、日商岩井(現・双日))のある役員から「ワシントンからの記事で一番信頼しているのは歌川さんの原稿」といわれたことがあります。1971(昭和46)年8月15日のいわゆるニクソン・ショック(1㌦360円のそれまでの固定相場制が崩壊、変動相場制に移行)時の、第二次大戦以降の戦後経済の歴史的転換に現地で立ち会った記者でもあります。この時、僕は水戸支局から経済部に上がってきたばかりで、夏休みで長野に旅行中でしたが呼び戻されたことを憶えています。
 
歌川さんはワシントンから1972年、帰国後、経営危機にあった毎日新聞社立て直しのため、経済部の先輩の佐治俊彦さんが室長だった経営企画室に行き、倒産の危機にあった会社を“新旧分離”という手法で救う立役者になります。その後、経済部長、編集局長、取締役とスピード出世します。しかしその猪突猛進の突破力に社内に敵も多かった。ただ新旧分離の推進力となっていた経済部出身で財界に顔の広い平岡敏夫社長・会長、その後継者の外信部出身の山内大介社長がバックにいた時は順風満帆、佐治・歌川ラインは次期社長は確実と見られていました。しかし平岡さんが86(昭和61)年、山内さんが現職社長で87(昭和62)年12月に相次いで亡くなり、急速に歌川さんへのバッシングが強くなります。
 
特に故山内社長の後継の政治部出身の渡辺襄社長とは相性が悪く、88(昭和63)年1月、渡辺社長に「辞表をたたきつけた」(本人談)。その後、ワシントン特派員時代の仲間の読売新聞の渡辺恒雄社長の紹介で、中曽根康弘元首相が設立した「財団法人世界平和研究所」の主任研究員になります。
 

◆「逃亡者に明日はない」

 
Q.リクルート事件が表面化してからどうされたんですか、歌川さんは?
 
その半年後くらいに朝日新聞にリクルート・コスモス未公開株譲渡リストが掲載されます。その中のマスコミ関係者の中に、読売新聞の森田康日経社長、丸山副社長などとならんで歌川さんの名前が出されていたと思います。歌川さんは、受領を認めたんですが利益は百万円程度だったようです。その頃、未公開株をお世話になった関係者に配るなんて、バブル経済真っ最中の時で経済界ではけっこうあった思います。
 
でもすでに毎日新聞社を退任していましたから、不幸中の幸いでした。現職でいたら大変だったでしょうね。それでもマスコミ関係者の間では、「歌川」さんのネームバリューはありました。連日、週刊誌の東京・多摩市の自宅での張り込みがすごかった。
 
Q.それで当時、甲府に自宅のあった佐々木さんのところに来るわけですね。言わば緊急避難ですね(笑)。でも経済部副部長のというポストにありながら、いわば社内的には主流派を外れた歌川さんをかばうとは度胸ありますね。
 
とにかく「(取材攻勢で)たまらんなあ」と嘆く歌川さんの話を聞いて、歌川さんに電話して「取り合えず甲府に1週間程度来ませんか!」と誘ったんです。まあ、お世話になった人をほっておけませんよね。
 
とはいえ、子供の4人いる家に泊めるのもナンだなと考えて、積翠寺温泉(せきすいじおんせん)という信玄の隠し湯と言われた温泉旅館が、甲府近郊の山奥にあるんです。甲府盆地を一望のもとに見渡す山の中腹にある、なかなか素敵な温泉なんです。時々家族で温泉に入りに行っていました。ぼくの自宅から車で山道を20分程度登って、武田神社から15分位かな。そこに部屋をとって、歌川さんは泊まりました。
 
4、5日いたかなあ。大手二丁目というところにあるぼくの自宅に毎日来たり、甲府市内に飲みに行ったりしました。この時、いろんな話をしましたよ。ビールを飲みながら、毎日新聞社経営の裏の裏の話を全部聞いて、たいへんだなと思ったりしました。彼はいまだにお酒を飲んで“できあがる”と、「ヒロト(宏人)ちゃんには、キミの自宅の廊下でビールを飲みながら『逃亡者に明日は無い』なんて言われたよな」(笑)。

 Q.ホントにそう言ったんですか?

 言いましたよ。表に出た方がいいよと。「逃亡者に明日は無い」とは言いも言ったりですが、僕たちが学生時代かな、米国製連続テレビドラマでリチャード・ギア主演の「逃亡者」の冒頭?に出てくる言葉で、その当時、流行った台詞(セリフ)なんですね。でも“逃亡先”の我が家で「よく言うよ!」という感じだったかもしれませんね(笑)。ぼくの気持ちとしては、能力のある人だから思い切って外に出て活躍した方がいいという意味で言ったつもりですがね。
 

◆席順が「う」の歌川さんの隣に「え」の江副さん

でも歌川さんはその後、作家の曽野綾子さんが理事長の下で、財団法人笹川平和財団の常務理事になり、発展途上国でのハンセン病撲滅などのための医療援助・医療施設建設など海外での援助活動に飛び回って、活躍されました。歌川さんは財団にいた頃、世界各国ほとんど回ったんじゃないかなあ。われわれには曽野さんのことを「綾子ちゃん、ホントチャーミングなんだよ」なんてって言ってました(笑)。
 
「逃亡者に明日はあった」わけで、コロナ渦で中々思うように会えませんが、それまでは三カ月に一度は経済部長をやった戸田英輔さん、山田尚宏さんとボクと歌川さんの4人で「歌川会」と称して、虎ノ門の飲み屋で会合を開いては、彼の経済分析を聞く放談会をやっていました。

 Q.歌川さんがリクルートの未公開株を持っていたということについては、ご本人はどう言っておられたのですか?

 歌川さんがリクルートに関与したというのは、大蔵省の諮問機関の政府税制調査会のマスコミ関係者としてメンバーだったのが契機だったと、本人から聞きました。会議の際、メンバーはアイウエオ順に並ぶんだそうです。それで「う」の歌川さんと、「え」の江副さん(江副浩正、㈱リクルート創業社長)が隣同士となり知り合ったようです。江副さんは税制のことを良く知らないので、歌川さんがレクチャーしたこともあったようです。
 

Q.リクルート事件は、未公開株を各界の要人に気前よく配ったのがワイロ性が強いということで、朝日がスクープして大問題になったわけですが、今でも、あんなものは単なる経済行為であって問題にすることではないということを言う人がいます。この点、どうお考えですか?

 

朝日新聞横浜支局『追跡リクルート疑惑 スクープ取材に燃えた121日』(1988年、朝日新聞社)


ウーン、当時としては未公開株の譲渡は公開した後、譲渡分を引いて値上がり分を取得するわけで、確かに筋としては経済行為なんだと思いますよ。あの時代、上場すればほとんどが上場価格の2倍,3倍になることは分かっていたにせよ、上場値より下がる現在のような損するケースも可能性としてはあるわけ。未公開株が上がると決まっているわけではないでのですから、当時のバブルに風潮の中では、そんなに罪悪感はなかったんじゃないかな。歌川さんとしては、税調での江副さんのレクチャーへのお礼と受けとめたのではないかな。
 
でも、日経の森田社長の売却益は8000万円、日経は特に編集局関係の社員の株取引は禁止という内部規定があると聞いていますから、これはさすがにまずいよね。
 
歌川さんは人たらしのところもあり、独創的でドグマの強い言い方をして、エライ人のフトコロに入れるところがあるんですね。特にバブル時代の証券業界を牽引したといわれる野村證券の社長・会長を務めた通称・大田淵(おおたぶち、田淵節也)からもそうだけど、ものすごく評価されて、仲良くしていましたね。そういう意味では、経済部の記者として一世を風靡したと言えるでしょう。
 
その一方で週刊誌「エコミスト」系の“知性派記者”からは苦々しく思われていたでしょうね。その頃、毎日新聞も毎週1回、経済面で「マネー&ライフ」という、各社ともそうでしたが「どうやれば株や不動産で儲かるか」、財テク指南のための欄を作ったんです。
 
後年「おまえら歌川のあとにくっついて、バブルあおってとんでもないやつだ」と、OBの歌川さんに言わせると「一橋学派」の“知性派”から言われました。
 

◆バブルをあおった?・・・


 Q.新聞はバブルをあおったと思われますか?
 
ある意味では時勢を追随する新聞としては、バブルをあおったということもあるでしょう。証券会社や銀行、不動産会社の景気の良さをジャンジャン書き、政府・日銀のバブルを後押しするような金融政策、土地政策の危険性をキャンペーン的に指摘した報道はなかったと思います。
 
その意味で米国の経済学者J・Kガルブレイスが「バブルの時代」(2008年、ダイヤモンド社刊)が「ユーフォリア(陶酔と熱狂)は繰り返し起きる」と指摘しているように、ジャ―ナリズムもこの“ユーフォリア”に完全に巻き込まれ、そのお先棒を担いだという批判は免れないでしょうね。
 
Q.毎日新聞が特にあおったというような面はあったのでしょうか?
 
毎週1回、経済面でマネー&ライフという、各社ともそうでしたが「どうやれば株や不動産で儲かるか」、財テク指南のための欄を作ったんですから、「バブルの風潮を助長した」と非難されても仕方がない面はあるかもしれませネ。
 
Q.話は変わりますが、毎日新聞をやめてTBSのキャスターになった嶌信彦さんの『メディア 影の権力者たち』(1995年、講談社刊)という本を持っているんですが、その中に「当時、編集局の幹部の一部と人間関係でおもわしくない点もあった」と書いているんですが・・・。
 

嶌信彦氏 元毎日新聞記者(経済部、ワシントン特派員等)

アハハ、それ歌川さんのことですよ。「編集局の幹部の一部と人間関係でおもわしくない点もあった」さすが嶌君上手いこと書いていますね(笑)。確か嶌君は大阪のデスクに飛ばされるという話があったと思います。わりと正統派で真面目な人です。
 
激情派で清濁併せ吞むという歌川さんとはウマが合わなかったことは確かでしょうね。一本気の正義派の嶌君の父上は戦前からの毎日の記者でした。戦後すぐのGHQの指令で行われた、左派系の記者を追放するというレッドパージで解雇された硬骨漢です。嶌君は、親父さんに似て筋をきちんと通す真面目な記者で、ワシントン特派員も経験し、将来のホープとして期待されていました。ぼくは嶌君という人は好きでしたけどね。なかなか企画だとか原稿もけっこううまかったし、すぐれた記者だったと思います。
 
彼はTBSのキャスターになりましたよね、確か。毎日新聞にいてほしかったという気もするけど、ジャーナリストとしては外に飛び出して、成功した一人と思います。
 
Q.今もラジオに出ておられるようですね。
 
そうですね。彼、難病を患って多少身体が不自由なようだけど、各分野の人とのインタビュー番組のキャスターをやっているようですね。よくがんばっていると思います。
 

◆渦中甲府にいてホッと・・・

 
Q.単なる人間関係ではなくて、やはり路線の対立があったということでしょうか?嶌さんの立場は、要するにアンチ・バブルだったということでしょうか?
 
いや、そういう感じではなかったと思います。やめたのはアクの強い歌川さんについて行けないという、アンチ歌川派という人がその頃、相次いで当時やめました。K、T、M君など三人だったかな。嶌君を入れて4人か!みんな優秀な記者でしたが、嶌君を除いた3人は当時、日本に進出して要員をスカウトしていた英国の通信社ロイターの日本支社に移ったように記憶しています。それぞれ未だに原稿を書いているようで、時々ネットで見かけることがあります。よい視点の原稿を書いていいますよ。
 
Q.いまの紙からネットへの転職のような感じでしょうか。
 
いや、そういう構造的な問題ではなかったような気がします。アジア経済の中心地が、香港、シンガポールから東京という感じでしたから、外国通信社も“東京シフト”に変わりつつある感じでした。その一方、毎日新聞は社内的には歌川さんのバックにいた山内大介社長が死去(1987(昭和62)年12月)する前で、歌川さんの「オレに従え」的な“独裁的体制”に対する反発、編集局長になってからも編集局内部からの経済部専横だという反発が強かった。当時の山田尚宏経済部長はたいへんだったでしょうね。社会部からは“歌奴(うたやっこ)”なんて言われていたようです。
 
経済部にとっては相当な試練だったという感じがします。そのとき、飛び出した記者の相談に乗っていたのが、経済部出身の論説委員などだったと推測していますが、かなり優秀な記者がいました。歌川さんは口が悪いから“一橋学派”っていうんですけどね(笑)。彼らは、山田部長なんかを歌川の口車に乗ってバブルあおって、とんでもないやろうだと見ていたわけです。
 
そういう風にガタガタしていたんですが、ぼくはちょうどその頃、甲府支局にいて、東京にいなかったから、その渦中に入らず、まあ助かったんですよ(笑)。ぼくもまぎれもない歌川派でしたから(笑)。
 
でも甲府支局の頃、ぼく自身もバブルに侵されていたと思いますよ。前回、かいじ国体(国民体育大会)や選抜高校野球の別刷りやパンフレットを出して、大儲けしたことを話しました。そのころちょうど、NTTの株が上場されたんですが、上場価格119万7000円だったのが最終値が300万超えたんだよね。マジに買おうかなと一瞬思いました。儲けて支局名義で甲府市内から近い「昇仙峡カントリー」のゴルフ会員権を買おうかと本気で思いましたからね。
 
Q.ホントですね(笑)。私は、申し込んだんですが、はずれました。
 
なんだあなたもバブル世代の一員なんだ(笑)。こっちは、当時、毎日新聞の経済部出身の支局長だから、野村證券甲府支店に頼んで・・・。でも買いませんでしたけどね。というのは、新聞記者なんてねたみの世界だから、儲けたりしたら、佐々木の野郎うまいことしやがって、金を懐に入れたとかなんとかいうウワサっていうのは必ず立つんですよ。だから、ぼくは必ず別会計にして、収支報告書を本社の地方部長に出して、甲府の料亭に支局員・通信部主任全員を招待してどんちゃん騒ぎしたりしました。

Q.佐々木さんは歌川さんのどこにほれ込んだのですか?

 何と言ってもその国際経済、日本経済の現状についての明解な分析力と、ユニークな見方と、断定的な言い方にしびれましたね。経済記者はとかく自分の持ち場、例えば大蔵省、日銀などの言い方をオウム返しにして解説する人が多いんだけど、歌川さんはキチンと自分の芯になる経済の見方ができる人でしたね。経済は人間社会の発展のために存在しているんだという考え方を根底に持っていたと思います。そのために勉強をよくしていたともいえます。アダム・スミス、ケインズ、シュンペーター、ガルブレイスなどを読みこなして、日本経済の話をしてくれました。不勉強な僕にはありがたかったですね。
 
その一方で人の好き嫌いが激しく、社内的に「あの人と付き合うのはどうかな?・・」と思う人を側近に置いたり、また瞬間湯沸かし器といわれるほど感情を表に出す人でした。それだけに敵も多かったと思います。ぼくは割と平気で日本経済についての能天気な見通しを開陳して、歌川さんが怒り出すと「またそうやって怒る。ダメですよ!」なんて言っていましたが、プライドの高い人は反感を持つ人もいたと思います。
 
Q.ある記事に、毎日は風通しのよい自由な社風だけど派閥があるというようなことが書かれていました。派閥争いのようなことはしばしばあったのでしょうか?
 
結果的にはそうですね。人間社会だからいろいろあるけど、ぼくの毎日新聞時代を考えると、特に歌川さんの時期がいちばんそうだったでしょうね。
 

◆秘話 歌川さんの壮絶なバックグラウンド


 Q.伺っていると歌川さんのキャラクターは、部員が次から次へと辞めていく、かなり独善的で激しい感じがしますが、どういう背景がある方なんですか。横浜国大出身の学生運動の闘士だったとも聞いているんですが。
 
ウーン、僕もその辺、不思議に思ったこともあります。「彼の親父は戦前のアナーキストで逮捕され獄中死しているんだ」というウワサ話を聞いたことがありました。確かめるすべはありませんでした。
 
実は、偶然知った事実があるんです。毎日新聞を定年で辞めてからしばらくして、ぼくが書いた終戦3日後の1945(昭和20)年8月18に横浜の保土ヶ谷教会で憲兵に射殺されたと言われている、戸田帯刀横浜教区長のことを書いた、ノンフィクション「封印された殉教」(2018年上下巻フリープレス社刊)の取材で知った事実のことです。
 
Q.何があったんですか?
 
実はノンフィクションの取材で、終戦前後に豊多摩刑務所で、ここで獄中死した唯物論学者の三木清や、長野刑務所で亡くなった戸田帯刀教区長と開成中学で同期生の同じ唯物論学者の戸坂潤のことを調べていたんです。たまたま「獄中の昭和史 豊多摩刑務所」(1986(昭和61)年、青木書店刊)という本を、2015(平成27)年頃だと思いますがアマゾンで取り寄せたんです。
注)豊多摩刑務所・・・現在の東京のJR中野駅前にあった。戦後はしばらく警察大学があり、近年の再開発でキリンビール本社、早稲田大学、帝京大学、明治大学などの中野キャンパスが立ち並ぶ。
 

社会運動史的に記録する会編『獄中の昭和史―豊多摩刑務所』(青木書店、1986年刊)


『獄中の昭和史―豊多摩刑務所』から


この本には、豊多摩刑務所に収監されていた治安維持法などで逮捕された反戦活動家本人、関係者約70人の「獄中記」「体験記」「獄死者への追悼」「救援活動」などが掲載されていました。共産党の委員長・野坂参三など共産党関係者、河上肇などの唯物論学者、演出家・土方与志(ひじかたよし)など左翼系の著名人の文章もあります。この本は、日本国民救援会という、戦後も学生運動、労働争議、冤罪事件などについて、逮捕・拘禁された人たちへの弁護士の紹介、裁判のバックアップなど続けている団体がまとめた本なんです。
 
それに目を通していて「アレッ!」と思ったんです。「獄死者への追悼」の項目に「『宇田川信一の獄死』三浦かつみ」という項目があったんです。「宇田川信一」の説明に「別名・歌川伸(のぼる)」とあるではありませんか。筆者の「三浦かつみ」さんというのは、歌川さんの母親で恐らく当時、出世コースをばく進していた歌川さんのに影響の出ることを考えて通称名にしたんではないでしょうか。
 
「歌川伸」さんは、東京外語大中国語科を卒業、中国語が堪能で中国共産党と壊滅状況下にあった日本の共産党・アナーキストとの関係を繋ぐため、秘密裏にしばしば訪中して、それが理由で1944(昭和19)年3月、神戸で治安維持法違反、徴兵忌避容疑などで逮捕されました。この本によると、面会に行った“三浦さん”は「宇田川さん」は「(特高の)拷問で顔など見分けがつかないほど歪み、皮膚は紫に膨れ上がっていた」と記されていました。
 
同じ年に判決を受けて東京の豊多摩刑務所所に移管されていたようです。12月23日、同刑務所から通知があり駆け付けると、獄舎の中のコンクリートの床の上のゴザの上に寝かされ「やせ衰え、歯は一本もなく、『犬死だよ。もう駄目だ。子どもをたのむよ』というだけでした。(中略)翌朝はやく行くともう冷たくなっていました。宇田川はその時50歳、子供は10歳でした」と記されていました。
 
この資料を見た時、ホント、ショックでしたね。この“10歳のこども”は歌川さんのことでしょう。「歌川令三編集局長」の壮絶なバックグランドを見た思いでした。軍国主義が頂点に達していた戦争末期に、父親が“反戦“を唱え、とらえられ獄死するというのは、どれほど残された家族にとって意味を持つのか。名誉の戦死を遂げた兵士の家族とは全く違う、戦中・戦後―想像を絶する辛い思いがあったのではないでしょうか。そのために戦後、母ひとり、息子ひとりの厳しい生活を送らざるを得なかった歌川さんが、時に激情を表し、一部の部下に忌避される行動をとったのは、胸に秘めた思いがほとばしり出たんだと、30年後の今になってようやく納得が行きました。
 
この本については歌川さんも知りませんでした。アマゾンでもう一冊取り寄せ、渡しました。その事実を伝えるページを一読して「知らんかった。ヒロトくんありがとう」目をうるませていました。ワシントンにいる息子さんにもこの本を送ったと聞いて、ホッとしました。歌川さんはこの本をみながら、子供の頃、母親から父の獄中死の話を聞いて「オレは親父の仇(かたき)を叩きのめす」といって母親をあわてさせたといっていました。「今でも豊多摩刑務所の名前を聞くだけでビクッとする」と語っています。ぼくなんかには想像のつかない、反権力の深い傷跡を残しているんだと思います。
 

◆歌川さんへの感謝! 「自由企業研究会」で中国やシリコンバレーに


自由企業研究会編による出版物


Q.佐々木さんは「自由企業研究会」という会合に入られていて、その海外視察報告記をまとめられ出版されていますね。歌川さんと関係が深い会と伺いましたが---。
 
僕が歌川さんに感謝しているのは、彼が設立にかかわったこの自由企業研究会に入れてもらい、各界、各分野の人の話を聞き、大蔵、通産などの官庁のOB、経済人、ジャーナリストなどとの人脈が広がったことですね。
 
この会はバブル経済の始まる前の1981(昭和56)年に、「兜クラブ」で一緒だった歌川さんの、確か横浜国大の同級生だった日本経済新聞の鈴木隆さん(元日経新聞大阪本社代表、日経BP社長。2019(平成31)年死去)や、吉村久夫さん(元日経新聞産業部長、日経BP社長)らが中心となり、「自由の不可欠性を認識しあい、自由企業体制の研究を通じて21世紀への基礎固めをしたい」という設立趣意書をのもとにつくられたんです。日経BPが事務局となり30年続きましたが、2019年ノーベル化学賞を受賞した旭化成の吉野彰さんの講演を最後に幕を閉じました。
 
設立当時、野村證券と興銀(日本興業銀行・現みずほ銀行)などが中心となり、企業から法人協賛金を集めて、参加メンバーからは会費を徴収して、内幸町の日本記者クラブ会議室で毎月1回、夕方、弁当とウイスキーの水割り一杯で各界からの講師を囲んでの、勉強会をやってきました。毎回3,40人が参加して、講師も新聞記者の取材人脈を生かして、経済界だけでなく、大来左武郎、香西泰などの経済学者、嶋中雄二さんなどは講師に来て、そのまま会員になられましたね。評論家・文化人などでは丸谷才一さん、寺島実郎さんなど多彩な人物を呼びました。ホント勉強になりました。(末尾に末尾にメンバー表掲載)
 
講演が終わってから日本記者クラブのラウンジで、親しい仲間や時には講演を終えた講師もいれて一杯やるのが楽しみでしたね。

自由企業研究会著『新しい資本主義』1993年、PHP研究所

 
また日経BPの鈴木隆さん、吉村久夫さんなどが中心となって、1995(平成7)年には改革開放路線を走り始めた中国を視察して「岐路に立つ中国市場―日本企業はどう闘うか」を、98年には米国のシリコンバレーにも行き「トップが語る21世紀のITと経営革命」を出版しました。けっこういろいろ行っておもしろかったです。そして帰ってきて見聞記を書いて、日経BP、ジャパンタイムズ社から出版したりしました。そんなもん、売れっこないけどね(笑)。日経BPのトップ、英字紙のジャパンタイムスの小笠原敏晶社長が企画・同行しているんだから仕方がないわね(笑)。
 
バブル崩壊後の“失われた20年”の時代の2001年には、『沈んでたまるか』(日経BP刊)を出版しています。セブンイレブン会長の鈴木敏文さん、オリックスの宮内義彦社長の対談と、文芸評論家の山崎正和さんと京大教授・中西輝政さん、一橋大教授・米倉誠一郎さんの鼎談を企画したりして載せました。
 
Q.海外に行くときの費用は?
 
それぞれ自分持ちですね。ただ、中国・シリコンバレーに行ったときは、(毎日新聞は)貧乏会社でたいへんだろうから、帰ってから本作りの編集をやってくれるんだったら(事務局から)出してやるよっていうんで助かりました。
 
そういうときにいっしょに行った方達というのは、大分亡くなられましたが、けっこうつき合いました。元の大蔵省の次官だとか、野村證券の元役員、大企業の社長とか。人脈を広げるにはよかった。のちに広告局長になったときに、「広告出してよ」と縁のできたところを尋ねたですが、なかなかしぶかったですけどね(笑)。
 
Q.ほかの新聞社は入っていたんですか?
 
各社だいたい入ってました。政府税調の委員などもやられた産経の五十畑(いかはた)隆さん、読売では日テレの社長だった久保伸太郎さんとか、朝日も経済部記者だった森精一郎さんとかおられました。基本的には経済部出身の記者でした。
 

◆新聞記者はねたみの世界?!


Q.歌川さんが88年1月に毎日新聞を辞められた後、佐々木さんは経済部デスク、兼“兜町キャップ“に同年4月に戻ったわけです、経済部の雰囲気は違っていましたか?
 
社内的に見ると経済部の歌川色の払拭みたいなのがあって、社長を出している政治部が編集局の中でハバを利かせている感じがありましたね。
もどってきて、経済部の雰囲気が相当変わってました。編集局内では何となく萎縮している感じでしたね。
 
Q.新聞記者は“ねたみの世界”という興味深い言葉をお聞きしましたが、株で儲けるとかそういうこと以前に、特ダネを取った記者へのやっかみとか、外部で名前が売れている記者が疎まれたりとか、本業にかかわる面でいろいろあるのでしょうか?
 
ウーンどうなんだろう。毎日新聞社の場合、他社に比べて給料が安かったこともあるんだろうけど、社業以外に週刊誌、経済誌などに原稿を書くことには寛容でしたネ。朝日新聞などはそれが「禁止されて」いると聞いたことがありますが、どうなんだろう。経済部では同僚の先輩記者の中には“アル原(げん)帝王”という異名を取るほど、本業よりアルバイト原稿に精を出す記者もいましたね(笑)。でも経済部に限定すれば、やっかみとか、疎まれたりとかという感じを持った記憶はありませんね。
むしろ優秀な書き手の記者の原稿を読んで、「こいつには敵わない」という劣等感を持つことが多かったような気しますね。むしろ“やっかみ”というのは他部との関係であったんじゃないかな。社長が経済部、政治部、社会部出身―というようことで編集局内の権力関係が何となく変化し、それを微妙に各部とも感じるという事ではないかな。
 
Q.以前伺いましたが、本社経済部に戻ってからも、ご家族は甲府で、平日は東京・杉並の御実家で過ごし、毎週週末に甲府のご自宅に帰っておられたのですよね?
 
そうです。考えてみれば無駄なことやったなあ(笑)。甲府には、家族は支局長の3年間だけでなくて、合計20年近くいましたから、「特急あずさ」に夜9時発に飛び乗り、金曜の夜帰り、月曜の朝早く「特急あずさ」往復し、JRにだいぶ貢ぎましたよ。何の恩義があるのか(笑)・・・。今なら老後の資金を考えてテレワーク、そんななことやらないよね(笑)。
毎週月曜は、甲府から朝の6時頃の電車に乗るんです。日テレの「ズームイン‼朝!」という番組で、甲府駅前で街頭の突撃取材で英語で話しかける「ウィッキーさんのワンポイト英会話」につかまり、テレビで放映されたたことがありました。もっともこれは広告局に行ってからの話で、阪神淡路大震災の当日(注:1995(平成7)年1月17日)でした。地震は朝6時前の発生でしたから、ほとんど見ている人がいなくて、僕の英語能力を知られなくて、助かりました(笑)。

1993現在の現在の自由企業研究会メンバー(『新しい資本主義』(1993年、PHP研究所)より)