沖縄

パターナリズムと子どもの権利について書かれた論考を探していたら琉球新報の記事が出てきたりして、いろいろ思い出したことがあるので書いてみる。

私が初めて沖縄に行ったのは、大学生の時だ。
友達と一緒に計画を立て、本島の有名な戦跡や資料館にも少しは立ち寄りながら、しかし、自分を解放して遊ぶことがメインの旅だった。
伊江島を自転車で走ったりもしたのだけど、瀬長亀次郎も阿波根昌鴻も知らなかったし調べもしなかったので、本当にただ、風を感じながら自然に触れ、人の優しさに癒されて満喫して帰ってきたと思う。
大学生の時は、自分の周りに広がるあらゆるチャンスを悉くスルーして生きていた気がする。毎晩夜中にスケボーの動画を見ている場合ではなかった。

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それから6年ほど経って訪れた2度目の沖縄は、福島第一原発事故の後、久米島にできた保養施設のボランティアとしてだった。
私は高校生の頃から、東京で働く父に頼んでDAYS JAPANというフォトジャーナリズム雑誌を買ってきてもらっていた(地元の本屋には売ってなかった)し、東京に来てからは自分で買って集めていたりしたので、当時編集長だった広河氏がその保養施設で理事を務めていたことでその存在を知り、ちょうど転職の合間で一週間、ボランティアに行くことにした。

広河氏のとてつもないパワハラとセクハラが暴かれる前には、広河事務所で事務として働いたことも一瞬ある。バンドをやりながらいろんなアルバイトをして過ごしていた20代、自分の好きな雑誌の編集者たちと話せる機会を得られる募集要項を見て、申し込まないわけがなかった。色々世の中の現実を知る良い機会でした。。。

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3度目の沖縄も、久米島の保養施設のボランティアだった。
1度目の時は親子保養だったが、2度目の時は幼稚園の年長組が担任や園長と一緒に親元を離れて保養に来ていた。私は羽田空港から先生方と一緒に飛行機に乗り、子どものそばについて旅路を共にした。

私は本当に不勉強なので、2度目の保養の時にようやく、江戸後期からの沖縄の歴史についてまともに学んだ。琉球が日本に占領されたと思っていたら、日本の戦時には捨て石にされ、戦後はアメリカに差し出され、返還されると今度は本土の米軍基地を押し付けられ、その後も基地の縮小の約束が反故にされ続けたばかりか、今では新基地建設まで行われている。
久米島はその中でも、大戦中に多くの住民が“日本軍によって”処刑された場所である。

そんな場所で、町を上げて支援する形で被災して傷ついた“本土の”子どもたちを受け入れていることの意味について、私はこの時初めて体感することになった。

子どもたちと美しい浜で貝殻や珊瑚を拾う。
この子たちは、普段は被曝を気にして生活する必要があるため、川で泳ぐことも森の中を思い切り走ることもできないのだと、園長先生が話していた。あの日までは自然に触れて遊ぶことを何よりも大事にしてきていた園なのに、子どもたちにとって良いと思ってやってきた保育が突然、子どもたちを危険に晒す行為になってしまい、はじめは途方にくれていたそうだ。
保育士として、パンデミックの中で保育を組み立てることの難しさを痛感する身となった今では、あの時の園長や先生方の時折見せていた表情の意味が、少しはわかる気がする。
子どもを守り育てる時には、何が起ころうとも、絶望している暇はない。

のびのびと数日を過ごし、場所にも慣れて外で立ちションをして怒られたりする子どもが出てくる中で、いつもその幼稚園で子どもたちが歌っている歌やリズム遊び、劇などを見せてもらう機会があった。
リズムでは、園長の弾くピアノに合わせて先生たちも子どもと一緒に体を動かす。柔軟性の高いブリッジや大きく美しい側転、動物になりきった動きなど、子どもたちの躍動する姿を見て私は瞬きができなかった。

そして、歌。
私はそれまで、5・6歳の子どもがこんなに拍子がコロコロと変わったり音程を取るのが難しい歌を歌えるとは思っていなかった。
『わらしべ王子』という、鹿児島の民話をもとにした創作歌劇。
戦乱の中で散り散りになり、二度と故郷へは帰れないのだと言われて育った子らが、旅の中で出会い、お互いを助け合いながら旅行く。胡弓の音を響かせながら舟で海を渡り、やがて故郷に辿り着く。しかし故郷は荒れ果て、話に聞いていたかつての繁栄など見る影もない現実を目の当たりにすることになる。それでも、子どもらが知恵を絞り助け合う中で、やがて故郷の人々は歌や踊りを取り戻し、生きることを取り戻していく…。

そんな話の劇中の歌。
福島から保養に来ている子どもたちが、久米島で生きる人たちの前でこの歌劇を演じ歌っている、ということを思っただけで、私は震えが止まらなかったのを覚えている。
今目の前で自分が見ているものの重量と、そこにある光。
透き通るような歌声は、今でも耳の奥で響いている。

沖縄と福島は、同じ目に遭っているのだと誰かが言っていた。
理不尽という言葉はこういう時に使うのだ、という出来事が、100年も経たないうちにこの国の各地で起きてしまっている。
私たちは自分の身近で起きない限り無関心でい続け、そして事が起こってから、「なんて理不尽なんだ」と嘆き、怒り、絶望したり諦めたり、それでも生きるのだと声を上げて立ち上がったりする。

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4度目の沖縄は、辺野古の海でも工事が進み、やんばるの森が切り開かれてヘリパッドが建設されていく最中に、それを止めるために座り込みに参加したくて向かった。

辺野古に基地を建設する前段階として海底の地盤や生態系の調査がなされていた折、まるで「わたしたちはここにいるよ」と示すかのように、ジュゴンの親子が悠々と泳いで現れた海。
その海を望む砂浜に建てられたテントの中で、これからここがどうなるのかを詳細に記したパネルの展示を見ながら、話を聞いた。

やんばるの森に近付くと、爬虫類・両生類好きの私にとってはうれしい悲鳴をあげたくなる出会いがたくさんあった。
この森が切り開かれてヘリパッドができると、森が乾燥してしまい彼等の生きる場所がなくなってしまうのだという。人間は、本当に馬鹿なのかな。
ヘリパッドはできていなくても、森から車道にいきなり米兵が集団で現れることはよくあると聞いた。森の中で訓練しているからだ。

音による振動や熱風が生態系に影響を与えるとしてハワイでは飛べないはずのオスプレイが、次々と配備されてもいる。沖縄の自然はどうなるんですか、日本政府の方々。
今では東京のすぐそばの基地にもオスプレイは配備されているので、時々夜中に重苦しい爆音が聞こえてくる。

伊江島の飛行場と弾薬庫、辺野古の滑走路、高江のヘリパッド。
ちょうど三角形になるように米軍の新しい軍事施設が建設され、美しい自然を壊されながら訓練場にされて行く沖縄。
その三角形の中に入る位置に、今帰仁村がある。
私の友達はここで有機農業と藍染をしている。
有機農業なので、自然の中にいる生き物たちの力を借りて植物を育てなければならないのだが、この三角形の中は容赦なく軍用機が飛び交うことになり、生態系が壊されていけば彼女は生業を失うことになる。

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私はこの夏、自分の身近で行われる2つの選挙が終わったら、5度目の沖縄に行きたいと思っている。

本土で生まれ育った私は、どうやって沖縄と向き合えばいいのか。
知らないこと、知りたいこと、知らなければならないことが、たくさんある。

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