【シャニマス】「絆光記」感想

 言葉の取り扱い、使い方、伝え方。

 約80億の人間が世界中にいて、個々人レベルにまで分解すれば、色々な考え方をする人がいて、色々な価値観があって、中には対立しあっている人もいるし、生活・文化・使うもの・今日手に取ったものも違うと思う。

 しかし、80億の人間が共通して使うもの、ツールとして、言葉というものが存在する。

 無論、言語はそれぞれ違う。けれども、私たちは同じ言語を学ぶことができるし、学ぶことで言葉にできる。そして、何かについて言葉で語るという行為が可能になる。

 語らうことが可能だからこそ、生活が生まれ、生活は文化になり、文化は今日手に取ったもの・食べたものや使うものになっていく。

 故に、言語はすべての源であり、言語を持つことが動物の一種である人間を人間として規定している。といってもいい。

『汎光』より

 しかし、言葉が生まれたことで、人間は価値観の違いを生み出し、対立を産んだ。

 「絆光記」で言えば、
「光」と「光ることによってできる影」だったり、
「性善説で生きること」と「ポジティブ・アレルギー」の存在だったり、「映画を否定するもの」と「映画を否定するものを否定するもの」であったりするのだろう。

 そして、そのような対立は世界がより狭くなるにつれて、具体的に言うとSNSの普及によってより日常的にみられるようになったように思う。
 

『そういう世界』より
『そういう世界』より

 
 シャニマスのシャニマスたる所以は、単純に「アイドルに対する批判・批評」だけに限らず、「批判・批評に対するアイドルの擁護・持ち上げ」まで含めてファンの反応であり、それをSNSという本音の出やすい場、かつアイドルの身近に触れられる場所において出すといった仕掛けを用いる点だと感じている。

 それはファンのリアルな言葉に触れることができると同時に、アイドルたちにとって今まで可視化されていなかった「否定的な言葉」に触れることが時代の変化により可能になった。という意味でもあり、シャニマスにおけるSNS上でのファンの発言は、「飾っていない素直な言葉」と言うことができる。

    つまり、「アイドルに批評なんてできるわけないw」という、否定的な意見は、ラジオへのおたよりやファンレターに書くことはできない(=SNSが存在しない時代に触れられなかった)意見であり、ファン(もしくは一観衆)である一人間の愚直な感想であるといえる。
    よって、その感情自体にも、それを表明し、発信することに良し悪しがあるわけではない。

 しかし、アイドルをやっているのもまた、ただの一人間である。

『ナラティブⅣ』より

 『うみの向こうの、あおい目をして、きん色のかみをもつお人形さん。』
 アイドルという立場を比喩的に見れば確かにDollということもできるだろう。しかし、そのようなお人形を演じているのは、ただ一人の人間なのである。


『ファンのために様々な権利や立場に縛られ、人生という時間を消費している状況』を当たり前で片付けていいのか?」

「彼女らには、別の場所で活躍する可能性もあるのでは?」

 
という問いは、アイドルマスターシャイニーカラーズがコンテンツとして、この「絆光記」でも、他の物語やライブイベント、楽曲などの広い媒体      ーー例えば「THE IDOLM@STER SHINY COLORS 5th LIVE  If I _ wings」であったり、「虹の行方」であったり、「リスペクティブワークスタイル」や、先日実装されたばかりの「パラレルワールドコレクション」などで、我々に投げかけてきていることである。

   その投げかけてきていることの根源にあるのはやはり、アイドルをデジタル上の一キャラクターとして扱うのではなく、彼女ら自身を私たちと同じ言葉を持ち、同じものを食べ、同じことを感じれる人間として扱う姿勢であると思う。

     我々と同じ一人の人間である、ということは無機質な「おにんぎょうさん」とは違って心情の変化があるし、言葉によって一喜一憂することもあるだろう。

    しかし、そこで安易にアイドルへの「誹謗中傷」(=明確な悪意)を描き、それに傷つくアイドルを描く、ということをしない。

   あくまでも「批評」の範囲ととれる「否定」の言葉であり、一個人としての感想を描く。
 つまり、そこに善悪の判断はなく、あくまでも多数の個人的な意見という言葉が飛び交う世界としての描き方を終始徹底しているのが、シャニマスにおける「SNS」の世界なのである。

   そして
「お前らモノクロだと見ないくせに」
「それで干されたら、お前が責任とるのか?」

 という言葉にもまた、善悪の判断は下されない。あくまでもネット上の一意見であり、アイドルである彼女らがその言葉をどう受け取るかもまた、絶対的な善悪はないのだ。

否定的な言葉にも、
否定的な言葉を否定する言葉にも、
それを受け取ったら彼女らが紡ぐ言葉にも、
善悪などは存在しない。

 その上で読み手たる我々に対して、光たちがすごしてきた日常の記録を通して

「正しい言葉とは?」
「『光を失った影』に光の側からかけてあげられる言葉は?」
「私の光を嫌がる人に、どんな言葉をかけてあげられる?」

という率直な疑問をなげかけている。

『汎光』より

    きっとそこに答えは無いのかもしれない。しかし、我々は問い続けなければいけない。     
 人間が生き続ける以上、答えのない問いに答えを探し続ける。それは「哲学」という学問の根本であり、人間が良く生きるために必要なことだ。
 
 この作品を読み解く上で必要なのは、SNSに代表されるようにより狭く、より早く、より人間が身近な世界で生きていく上で、

 「私たちは、人間の根源である「言葉」というものを考え、問い続ける必要があるのではないか。

     そんなメッセージが込められていた、が結ぶたちの、「イルミネーションスターズらしい言葉」での記録、「絆光記」であったと言える。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?