作品は生きている

 最近、noteに限らずいろいろな形でアウトプットする機会が増えた。ゼミで発表する、Twitterに書き込む、友達に説明する、日記にメモをする、どれも立派な?アウトプットだと思っている。毎日やろうとしているnoteの更新が滞ることもあるがそれでも毎日なにかしらのアウトプットをしている。

 そうした発信物のなかには世に出て他人からの眼差しに晒されるものも出てくる。たとえばこのnoteが良い例である。ふと気づいたらたくさんの方からのいいねやビューが記録されている。本当にありがたい。と同時にこれらが読んだ人からどのように見えていたのかに思いを馳せる。

 それらは必ずしも好意的なものばかりではないだろう。そもそも日本語がおかしい、わかりづらいなどといったものから論拠が弱いという指摘もあるはずだ。一応、大学院生という立場にある人間なのだからもう少し論拠を示せれば良いのだがまだまだその域には辿り着けていない。そうした批判も含めて私がこの世に公開したその瞬間から多様な形で評価をされている。

 それは物理的には無機質で、かつ無形物であるはずのnoteの投稿というものが色味や質感を持つことのように感じる。よく創作物を「育ててもらう」という表現されている方がいる。「育てる」ということはなにか変化があることだが、別に作者がなにか手を加えるという意味ではなもちろんない。周りの人がそこにさまざまな意味づけをすることで、完成当初にその作品自信が持っていた世界観が変化していくという話である。

 noteではないがとあるところで発表した記事のようなものを読んだ方が私にコメントをくれたことがあったが、私が意図していたことと全く違った形のコメントをしてくれた。自分自身で書いておきながら「そんな考え方もできるのか」と驚いたものである。

 同時に生きているということは死をも意味する。そしてそれは寿命があることも意味をする。ただ、それは事前に決まったものがあるわけではない。モナリザのように数百年の時を超えてもその存在が残るものから、私が小学生のときに作り今やどこに行ってしまったのかわからなくなってしまったもののようにその「生」は多様だ。あるとき急に発掘され再び日の目を浴びるようなこともあるだろう。ずっと眠っているかもしれないが、それが永眠とは限らない。肝心なのは作品自体に臓器はついていないということだ。周りがいることで初めてそれは生き物としての体をなす。そんな息の長い作品を作っていきたいのである。

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