ラーニングピラミッドへの違和感はどこからくるのか?【まずは〇〇ことから入ってよくないですか?】
世の中にラーニングピラミッドなるものがあるそうです。
これまで、寡聞にして全く知りませんでした。
ただ、これ、違和感だらけなのですが、それはどうしてかを考えることにしました。
(1)質の議論がないのはなんで?
まず、質の議論が全くないことが真っ先に感じた違和感です。講義の質によって、学習効果が左右されることは当然ではないかと感じます。
私はそこまで授業にこだわるタイプではありませんが、いい授業をされる方を拝見すると、当然学習効果に影響を与えるでしょう。
なので、とてもいい授業を受けるほうが、生分かりで人に教えるより効果が高いのではと思います。
(2)綺麗な三角形になりますかね?
次の違和感として、このような綺麗な形になることへの不自然さです。
こうも綺麗にばらけるものなのでしょうか。
このような綺麗なデータをみると、人間の恣意的な何かを感じなくもありません。私のようなひねくれた人間からすると、これってちゃんとデータをとったのか?と思ってしまいます。
(3)アクティブラーニングってそんなにそこまで高評価?
一番大きな違和感は、ずらっとアクティブラーニングの高評価が並ぶことでしょう。
・討論で定着するの?
これは日本での話になるのかもしれませんが、日常生活に照らしても討論が教育にそこまで役に立つのかについては、個人的には懐疑的です。とういうのも、日本には「空気」によって意見が醸成される文化があるからです。
討論という形をとったとしても、結局は結論は決まっており、それに向けて集団の構成員が議論したというアリバイ作りになっている場合が多いからです。
若い学生さんの場合は、効果があるのかもですが、高校生くらいになると「空気」を読む子も出てきますから、討論をとおして「空気」という正解を探すテクニックに陥るのではないか?という疑問があります。
また、少数派の方が正しいことを言っていることもあり、討論で本当に本質が見えるのかも懐疑的です。
・自ら体験するだけでいいの?
これについては、そのものが否定的というよりも、何でもかんでも体験は出来ないという点において、教育において現実的かという話になるのではと思います。
・わからないものは教えられないのでは?
最も効果の高いものが人に教えるというのがありますが、これはどうなんでしょう。それ自体を否定はしませんが、90%という高率には違和感が強いです。
そもそも、わかっていないなら、人に教えることができないという類のものは山のようにあります。人に教えれば、量子力学がわかるようになるとは思えません。そこまで極端でなくても、わかるようになるプロセスは複雑で多面的なので、教えることが高効率とは軽々に言えないでしょう。
・結論として
このラーニングピラミッドやアクティブラーニングを考えることで、個人的に感じることは、「疑う」ことの重要性でしょう。
これが正しいと提示されても本当にそうか?と批判的な視点を持って吟味するという姿勢はこのラーニングピラミッドに限らず大切ではないかなと思います。
その意味で、これが正解だと提示されると、あまりにピュアなリアクションをする人が多いのではと感じなくもありません。意識高い系の人たちの特長なのかなと思ったりもします。このような方々は、基本いい人が多いのでしょうが、それでいいのかという「疑問」は大切な視点ではないかなと思わなくもありません。