すでに開いてしまったパンドラの箱。もう戻れない私立大学の年内入試シフト。撤退か、推進か。早くもやってきた総合型選抜入試の大きな岐路【現実を動かす私が思う3つの誤算】
先日書いた、東洋大学の「学力テストのみ推薦入試」についての記事。
その点について、政治学者の白井聡さんが↓のように意見をされています。
白井さんのお考えは正論ですし、全面的に賛同するところです。
ただ、お見立ては、大学関係者が感じている「リアル」には程遠いのかなとも思います。白井さんの母校の早稲田大学は、私の理解では、かなり総合型選抜入試へ前のめりでしたし、今もそのスタンスは変わっていないでしょう。
また、少子化という現実は、大学側こそ「年内入試」が都合がよかったわけで、早稲田大学クラスになれば、優秀な学生の早期囲い込みが狙えるという読みもあったでしょう。
しかし、この「年内入試シフト」は、図らずも、私立大学が自分でパンドラの箱を開けてしまった感があると思っています。それは、「年内入試の高い需要を可視化してしまった」ことです。
白井さんは、こうもポスト(ツイート)されています。
これまた、おっしゃる通りではありますが、高まる需要を私立大学がみすみす逃すことは、経営上許されないでしょう。
私立大学は、純粋な資本主義社会の枠内にいるのですから、たとえ教育機関であっても、需要にコミットしないと生き残れないのは間違いありません。
今後、総合型選抜入試について、私立大学は、悩ましい対応を迫られることは間違いないのではと思っています。
総合型選抜入試については、私立大目線では3つの誤算があったのではと思っています。それが、今後総合型選抜入試について、アクセルを踏むか、ブレーキを踏むかを判断を迷わせる要因になるのではと思っています。
私が考える誤算は、
(1)想定よりもコストがかかっていること。
(2)一般入試のオルタナティブとなり得なかったこと。
(3)就職で入試のチャンネルが問われ始めたこと。
という点だろうと思っています。
(1)については、総合型選抜入試がメイン級の入試制度になってから、雨後の筍のように「対策塾」が乱立しました。そこで「理論武装」した受験生がこの入試に参戦してきた。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の世界のように、本物とニセモノの区別が難しくなり、「本当に入学してほしい学生を見極めること」が難しくなった点があるのではと思います。さらに、それを見極めるコストもかかることが見えてきた。結果として構造上紛れ込んでしまう学力のない学生を放置していいのかという点も見逃せないでしょう。
(2)については、導入当時、知識偏重への社会の批判、ひいては、一般入試が時代遅れの入試制度であるという主張が強かった。そのため、総合型選抜入試が「オワコンの一般入試」のオルタナティブになるという判断もあったでしょう。しかし、現実にはそうなるより先に、「楽して入れる入試」という側面が強調されはじめ、それなりに説得力を持った展開となったのは、誤算だったのではと思います。
(3)については、就職において、学生の入試制度の属性から判断をされることは想定以上だったのではと思います。
企業での仕事は、確かにクリエイティブな提案ができることも大切ではありますが、事務スキルに裏打ちされた、丁寧な仕事ができることも大事。実務を積み上げられる学生は、どうしても一般入試出身者であることは、想像に難くない。スキルの親和性であったり、スキルの転用という点でも、明らかに一般入試を経た学生の方が鍛えられていることは間違いないでしょう。
私立大学にとって、学生の就職先は、偏差値に次ぐアピールポイントだけに、無視できない現実がある。
このまま総合型選抜入試へシフトして、大企業が納得するような人材を送り出せるかは議論になるのは当然ではと思っています。
結論として、私立大学は、学生数が多いので、定員の配分の問題になるとは思いますが、年内入試である程度の数の学生を確保したいという「思惑」とちゃんと勉強のできるまっとうな学力のある学生を確保できるのかという「不安」の狭間で今後揺れ動くことになるのではと思っています。
少なくとも、総合型選抜入試が「未来を切り開く」などといった、キラキラしたフレーズの入試であるという「虚像」は消えたと理解すべきでしょう。
総合型選抜入試は、岐路に立ったと思っています。
であるならば、自前のノウハウで総合型選抜入試をより高めるのもいいでしょうし、ほどほどに手打ちをして、学力ベースの入試を重視するのもいいでしょう。
これについては、私立大学なのですから、学園の教育方針がカギを握っている。
しっかりとした教育理念の精度が結果として勝敗を分けるのではと私は思っています。
時流に乗って右往左往したり、マーケティング発想で大学を運営しようとするところは、「教育機関」としてどうなのかと思っているので、このような混乱は、この際、淘汰されていくのも必然なのかなと思います。
教育は少なくとも中期的な視点以上の時間レンジで議論されてほしいとおもうところでもあります。