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カリスマ先生に心酔してはいけない3つの理由

今回は、カリスマ先生に傾倒していまう受験生の危うさについて。

前に書いた

の記事のアップデート版のような感じです。

自分の中で漠として存在していた問題意識ですが、ここにきてそれがよりはっきりしてきたように思います。

カリスマ先生の授業は、それ自体は素晴らしく、基本問題はありません。また、受講生の全てが信者のような傾倒ぶりをみせるわけではありませんから、問題は心酔してしまう受講生に問題があるのだと思います。

その受講生の何が問題なのでしょうか?

(1)受験生として自立できていない


受験勉強というのは、個の戦いであることがベースになります。学校や予備校の友人は、その同士という側面がありますが、個々の目標も異なり、一緒に勉強すると言っても、時間と場所を共有しているだけなので、基本は受験生個人として自立が求められます。
つまり、自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取らなければいけないのです。

しかし、カリスマ先生に心酔する受験生は、この自立という点に問題があります。授業を受け、時に質問をしたりして親近感を持つうちに、その先生に頼るような心理状態となることは、受験生としての危険な方向に進んでしまいます。
広く言えば、自分で考えて行動することにトラブルを生じさせるのでしょう。それは、受験生として自立を阻む第一歩となると思います。

(2)排除の論理になっていく


心酔する程にハマっていく心理状態は、次に排除の意識へと繋がっていきます。なぜなら、自分にフィットする程のカリスマ先生は、そう簡単に見つかるものではないからです。
Aの教科のB先生は素晴らしいのに、Cの教科のD先生は、全然ダメだという意識が芽生えやすくなります。するとD先生への不満は高まり、
「Cの教科が伸びないのは、D先生の教え方が悪いからだ」という感情につながりかねません。

そもそもカリスマ先生へハマる受講生は、他者依存が強い傾向がありますので、(1)の自立への障害から他責思考になっていくこととあわせて、徐々に排除意識が強くなっていくように思います。

(3)視点の固定化


そのような受験生は、見える景色が単一化していきます。カリスマ先生の個人的な価値観まで投影するようになる場合は、それがどんな価値観であっても、自分で醸成されたものでない以上、非常に危ういと言えます。
それは、視点の固定化に他ならず、現実を一方的な視点からしか見えなくなるのではと思います。

・・・で、その結果どうなるのか。

その歪んだ受験生の世界を、現実が打ち破るのです。

受験生として自立できず、他者への排除に向かい、固定化された視点で現実を見ていって、結果につなげられるほど受験は甘くないのです。

私は、カリスマ先生ではないので、幸いそのような受験生が近い距離にはいませんが、改めてカリスマ先生に心酔する受験生は怖いなと感じます。


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