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保護者が開業医というのは、親ガチャの当たりなのか(1)【お医者さんの子息子女の苦しみを考える】

親ガチャという言葉は、広く社会に定着して来た感じがあります。

誰しも親を選べないという現実は、自分の努力でどうしようもない現実の壁として、社会に広く納得感をもって受け入れられたのでしょう。

なので、親(保護者)が裕福であることは、「当たりくじを引いた」とも解される。ただ、塾の現場に立つと、必ずしもそうなのかなと思わなくもありません。

私が遭遇する現実は、やはり医師、とりわけ開業医の子息子女の方が思いほのか苦しんでいるという現実でもあるからです。

数回に分けてこのことについて考えたいと思います。

初回の今回は、一番大変だろうなと感じる点を書いてみます。

それはズバリ、人生の選択肢が最初から限定されているという点です。

人は何者かよくわからないままに生まれ、様々体験や経験を経て自分が何者かを理解する。

これは、近代日本での構造的な宿命だと言えるのかなと感じます。

江戸時代までの実質に固定化された身分制度では、農民に生まれれば、一生農民でしかない。

武士の次男以下に生まれれば、キャリアは、婿養子に入るか、武芸で身を立てるしかない。

池波正太郎さんの『剣客商売』の「勝負」は、武士の三男として生まれた人物の苛烈な現実を描き、そんな状況にある人物の千載一遇のチャンスに思いをはせ、そこからにじみ出る主人公、秋山小兵衛の優しさ、息子大治郎の成長を描いています。

かつての大学生は、学生時代のこの期間をモラトリアムと評し、自分を発見する過程があった。

私は、若いころは本当に苦しい時間を過ごしたこともあり、この点はとても重要なことだと感じています。

自分探しというのは、今は否定的なキーワードになっていますが、誰しも向き合わないといけない現実でもある。

そんな現実の渦中ありながら、開業医のお子さんとして生まれた人は、
「医学部に行きなさい」という宣託を背負って人生をスタートする。

この現実は、私は想像以上にその人の人生に影響を与えると思っています。
その方が、幸運にも幅広い意味で医師という職業を担うだけの素養があればいいのですが、それはかなり運に左右されていると感じます。

医学部の苛烈な競争は、多少の金銭的なメリットがあっても乗り越えないといけない高い壁が私立の医学部であっても存在するからです。

そういう現実に晒されると、
・医学に興味がある
・理数系が好き
・生命の神秘に興味がある
・人を助けることに意義を感じる

などという視点は、彼らにとって「きれいごと」であり、「どうでもいいもの」になってることが多い。

よほど保護者が気を付けておかないと、「自分が医者の子供である」アイデンティティは、選民思想の入り口になってしまいがちです。

それが、自分への特別な意識を醸成させてしまう。

そのことが吉と出る場合は、問題ないのでしょうが、凶と出ることもある。

どのような形で凶と出るかは、いろんな要素のからなるので、一概にこうだとは言えませんが、一番の悲劇は、

自分の人生なのに、自分で選べる選択肢が限られ、人生の判断基準が「医学部に行けるかどうか」になっている

ということではないかなと感じます。

なので、医学部に行けないことを人生の敗者のように捉えてしまうのは、もっとも気の毒だなと思います。

普通のご家庭に生まれていれば、背負うことはななかったであろう劣等感は、その方にとって深い傷になっている。こうなると、自己肯定感を育てることは厳しくなり、ニートのようになっている方もいて、彼らに石を投げる権利などないとつくづく思います。

そういう現実を目にすると、開業医のお子さんは、本当に親ガチャのあたりなのかは考えさせられてしまいます。

そして、思いのほか、その弊害を「勝者である」保護者が理解できていないことが多い。

時に、勝者の視点は、現実の一面しか見ていないことに気づかされます。人はだれしもなかなか多面的に現実を見ることができませんが、勝者であると自任する人は、案外視点が固定化してしまうものだと思います。

そして、開業医の保護者もその例外とはなりえないのもこの問題の難しさを感じさせられます。


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