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宮台真司さんの仕事復帰について思うこと【不世出の社会学者の矜持に学ぶ】

東京都立大学教授で、社会学者の宮台真司さんが、大学のキャンパス内で、何者かに襲われ、重傷を負った事件は、多くの人に衝撃を与えたことでしょう。私もその一人です。

犯人が逃走中ということもあり、事件の背景がよくわからず、経緯を見守っていましたが、宮台さんが仕事復帰されるという報を受け、考えを書くことにしました。

宮台真司さんは、いろんな媒体で発信をされておられますが、やはりその拠点は、インターネット・ニュースメディアであるビデオニュース・ドット・コムということになるでしょう。復帰の場もここからということのようです。

この復帰会見を観て痛感するのは、宮台さんの社会学者としての矜持だと思いました。

自らの事件であっても「言葉の自動機械」への検証の場とする姿勢

新自由主義時代に入っている昨今、宮台さんは、時代を切り取る言葉として、人間が本質的に内包している性質のひとつが「言葉の自動機械」であることを発信されてきました。

上記の会見動画の3分ごろに、現在自らの発言がどのような受け止め方をされているかを検証されているとあります。
これは、なかなかできることではないなと感じます。

今回の事件について、犯人像について自ら語ることはないとされていることも含め、「言葉の自動機械」化した人間の行動への検証の場として、事件をとらえておられるのだろうと感じます。

その前段でも触れられておられますが、脅迫や殺人予告は日常的に起こっていたとのことでもあり、過激な発言の背景には、社会学者として、挑発めいた発言をすることによって、社会の反応をみるという要素もあったのだろうと改めて感じるところでもあります。

宮台批判は、あってよい。彼の発言が正義でも真実でもない。

宮台さんは、若いころから社会学的フィールドワークとして、古くはテレホンクラブなどを通じて、女性の性について関心を示してこられました。それは、社会学が扱う領域を広げたという点で意義のあることであると思います。その一方で、この活動の一つの到達点となった言説は、当然ながら少なくない女性には受け入れがたい説にもなったことは間違いありません。

「フェミニズム×宮台真司」という観点では、収束点はありえず、宮台批判は、多くの合理性を含む点において、一面としての正当性を感じます。

また、宮台さんの批判の矛先は、右にも左にも容赦がありません。日本人の劣等性にも舌鋒鋭く切り込みます。

宮台さんの、攻撃性の高い発言を含め、宮台批判はあっていいと思いますし、そもそも、彼の言説が正義でもありませんし、ましてや彼の発言のすべてが真実でもありません。

私自身、イーロン・マスクを擁護する主張は、とても容認できるものではありません。そもそも盟友のジャーナリストの神保哲生さんも、宮台さんの発言をすべて認めているわけでもないと思っています。

社会学者・宮台真司の矜持から学ぶ

今回の事件は、私の解釈では、宮台さんがずっと主張されてきた「日本人の劣等性」を一面で証明した事件でもあるのかもしれません。「ふわふわとした曖昧な論拠」によって、にっぽんスゲーにすがりつく一部の人たちにとって、「データという論拠」によってこの国の衰退を突き付ける宮台さんの発言は、人によってはアイデンティティを揺さぶられるほどの破壊力があったのかもしれません。

社会学者・宮台真司は、大学という象牙の塔の中から、ありがたいご宣託を授けるような学者ではありません。世に出て、辻説法をしてきた点において、ソクラテス的でもあり、日蓮的でもあります。
それは、ソクラテス、日蓮の苦難の人生を鑑みると、人間・宮台真司にとって、危険な選択であることを知らなかったはずはなく、それでもあのようなスタイルで世に自説を問うということは、自らが「損得マシン」とならない範を示す社会学者としての覚悟がないとできないことでもあります。

宮台さんが、現代における知の巨人であることは、論を待ちませんが、私は、このような姿勢で、大衆に問い続ける姿こそが不世出の人物であるのではと思っています。

その意味において、同時代を生きる私は、宮台さんの矜持の爪の垢程度は、何とか学び取りたいとも思うのです。

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