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先祖と戦争のはなし

はじめに


久しぶりに父方の祖父母に会いに行きました。
ずっーと、気になっていたことがあったので、新刊紹介と卒業論文を渡したついでに聞きました。今しか聞けないすごくいい話だったので、文字にすることにしました。本来はFacebookに載せようかと思いましたが長すぎるので、ここに綴ります。

気になっていたこと

①祖父は10人兄弟の末っ子、しかも先祖は百姓。なぜ大学
 (当時は旧制高校)へ行けたのか? 

②兄弟に徴兵された人はいたのか?どこの戦地へ行ったのか?

③祖父も生まれは戦前(1930年後半なのでほぼ戦中)なので、百姓の家に  
 生まれた一人として、終戦直後はどうやって暮らしていたのか?

返ってきた答え

すると、次のような答えが返ってきました。(以下、苗字を明記します。)

① 百姓の家なのになぜ旧制高校へ進学できたのか?

小林家自体の歴史に関係あるそう。小林家は転々としており、それなりに長閑な土地(現 東郷町)にたどり着き定住。

1584年の小牧・長久手の戦いで、お米を渡すのを断った結果、家を焼かれ引っ越すことに。近くに拠点を構えてからは、とりわけ大きな問題もなく百姓として現在で10代目(といっても、祖父は10人兄弟の末っ子)に至るそうな。

江戸・明治時代は小林一統と呼ばれ、それなりの有力者だったらしい。そのため、百姓の割には経済力がある家庭で、10人兄弟の多くを旧制高校に進学させることができた、とのことでした。(なぜ、安土桃山時代まで遡れるかというと、なんと本になっているとのこと。だから文字に残すことは大事なんだよなぁ)(※1

② 徴兵された人はいた?どこの戦地へ赴任した?

3人が徴兵されており、長男・次男・三男でした。長男(故人)は百姓を嫌がり、トヨタ自動車に就職できることが決まった矢先に徴兵されたとのこと。ビルマ(現ミャンマー)でインパール作戦に動員され、ガリガリになって復員。その時はマラリアにも感染していた。トヨタ自動車に復帰し定年までやり遂げた。

次男(故人)は、ラバウル(パプアニューギニア)の軍港にて陸軍で情報兵(おそらく通信兵を指す)として働いていた。ある日、米軍に襲われ、相棒は情報を味方に伝えなくてはと必死に逃げたが、その一方で次男は逃げ切れず機銃掃射で戦死した。

三男(故人)は会社に就職し上海で働いていた。だがその時に徴兵。中国は国共合作していたとはいえ、あまたの軍閥やゲリラがあり、逃げ回ったことで命拾い。無事復員後、兼業農家をやりながら、笹戸カントリークラブで支配人をやっていたとのこと(※2)。

③ 終戦後はどのように暮らしていたのか?

百姓ゆえお米とさつまいもを蒸したものを食べていた。といっても、お米は当時、「一級米」から「五級米」まであり、三級米が学校に納入していたことから「教室米」と呼んでおり、実際に食べていたのは売れ残った質の悪い米で、麦飯だった。一級米・二級米は供米になり、四級米や五級米を闇市で売っていた。ものすごく高く売れたそうな。

その話を踏まえて、祖父は「今の子たちは好き嫌いが多すぎる。俺のときは『生きるために食べていた』から、好き嫌いをいえる余裕などない。羨ましいが、いざという時のためにいろんなものを食べられるようにしておくべし」と言っていました(※3)。

余談:最も印象に残っている総理大臣は?

僕は、生まれていないが最も尊敬しているのが「田中角栄」である。
ガソリン税の導入によって、マイカーブームを引き起こし現代にいたるまでの自動車産業の礎を築いた。また、高速道路や新幹線計画で全国を発展させたことは間違いない。しかし、新幹線は東京に集中させてしまったことで、不可逆的な東京一極集中を生み出してしまったし、儲けている路線で赤字を補填する発想のもと、鉄建公団を作ってもともと赤字だった国鉄の路線をさらに拡大させとどめを刺した。だから、師として仰ぎつつ、反面教師として評価している。

父方の祖父の場合:池田勇人

当時の祖父は中小企業の一従業員として働いてたが、所得倍増計画で目に見えるように給料が増えていった。そのおかげで非常に生活がしやすくなった。と答えている。

母方の祖父の場合:大平正芳

同じ百姓育ち。「なぜ」を突き詰めた結果、総理まで上り詰めた。と同じ百姓育ちだった縁だったことでそれなりの希望を与えてくれたらしい。

脚注

※1 母方の祖父の家系には古文書が残っている一方で、祖母の家系はよくわかっていない。こうしてみると、家制度が現在でもこのような形で影響を残していることがよくわかる。

※2 ちなみに、母方の祖父の父親(僕から見れば、曾祖父)は教師だったので、徴兵を免れました。祖父やその兄弟は終戦時に小学生だったので徴兵されませんでした。同じく、母方の祖母の父親(曾祖父)は、結婚してすぐ徴兵され九州へ行ったが、幸いにも結核になり帰還。東海銀行の行員として働いた。(もし、祖母の父親が結核になっていなければ今の祖母はいないし自分もいないことになるので、改めて生きていることに感謝。)

※3 こちらも母方の話を残しておきたい。祖父は学童疎開で豊川(赤坂)に行っており、あまりに問題児過ぎたので浜松のほうに移転するのですが食べ物(とくにサツマイモ・お米)がたくさんあった。問題は終戦後。物がなく闇市で食料品を手に入れ、学校生活は教室がウサギ小屋だった。戦時中に他の人たちがウサギを食べてしまったので、それで空いたところを教室に転用(かなり臭かったが、我慢しないと先には進めないので仕方なかった)。謄写版でプリントをその場で作っていた。しかし、紙質も悪いのですぐに破けたとのこと。傘を先生がくれたこともあったが、差すと生地が薄いこと、(なにせ紙なので)雨が降るだけですぐに穴が開き使い物にならなかった。靴下もすぐに穴が開いた。祖父が言うには「物は大切にしろ。戦時になった時に痛い目に遭うぞ。食べ物に好き嫌いを言うではない。生きるためには嫌いなものを食べなきゃいけなくなる。」と言っていた。祖母は、詳しく話を聞いていないので生きているうちに記録に取っておきたいが、終戦直後は食べ物がなかったので鮭の骨まで食べていた。そうでもしないと飢えをしのげなかった、という話は僕が幼稚園の時から、何度も教えてくれた。同じく「好き嫌いはダメだ、モノは大切にしろ」と厳しく言われていました。


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