慰労と美的経験―「新しい日常」下の「祝祭」の危うさについて

昼ごろ、同じマンションに住むママ友から「屋上に上がる鍵を貸して欲しい」とLINEで連絡があった。なにやら「ブルーインパルスを子供と見たい」とのこと。へえ、そんなことがあるんだ、くらいにしか思わず、鍵を貸したあともリモートの会議を続けた。やがて飛行機が飛ぶ轟音が聞こえてきたけれど、仕事中だったから窓の外を見ることさえしなかった。すると別の場所で仕事をしていた家族から、ブルーインパルスが飛行する様子の動画が届いた。やはり、へえ、と思っただけで、特に再生もせずにいた。なぜ男は戦闘用飛行機が好きなのか。2年前のクリスマスにはブルーインパルスの音の出るおもちゃを当時4歳だった息子にプレゼントしたことを思い出した。

夕方、SNSのニュースが流れてきて、病院の屋上から看護師や医師が空を見上げる動画とともに、その飛行が「医療従事者への感謝」のために行われたことを知った。その瞬間、自分にもあまりに予想外の感情の一撃に撃たれた。涙が出てきたのである。そのあまりに意外な身体的・感情的な反応は、私を激しく混乱させた。

初夏の透き通った青い空に、真っ白い飛行機雲が6つ、シャープな線を描いていく滑らかな動き。その映像は、想像より遥かに美しかった。長いこと部屋に閉じこもっていた自分も含む多くの人にとって、外に出ること、空を見上げること、美しいものをただ眺めること、それを誰かと共有すること–。それらは今、人々が求める救いの儀式のようにさえ思われた。ただ遠くを見上げ、美的なものを眺めること。それを集団として経験すること。個的空間に分断され、集まることが禁じられた私たちの「新しい日常」において、その身振りはあまりにも出来すぎた「祝祭」の形ではないか。

その「祝祭」の儀式が、航空自衛隊の戦闘機によって生成され、国民のために戦った人たちへの「慰労」と「感謝」の言葉とともに共有されること。そのことに、強烈な違和感と嫌悪感を抱かずにはいられない。にもかかわらず私の身体は、美的映像と物語の強さに、落涙という反応を示したのである。理屈では、国家が戦闘機を飛ばせて「慰労」や「感謝」をプロパガンダする危うさに警戒するが、感情では美的な動画に心を動かされ、その「祝祭」の立ち合い人として胸に何か熱いものを感じてしまう。私は相反する二極に引き裂かれて激しく混乱した。

国家が「慰霊」や「慰労」をプロデュースする時、そこには国家が欲望する物語が周到に折り込まれる。私たちは何度もそれを警戒し、批判し、距離をとってきたはずだ。にも関わらずコロナ禍はいともたやすく私たちを個に分断し、そして再び集団での美的経験ともに、「私たち」を強化しようとしている。それでも、青空は美しく、そこに描かれた飛行雲の曲線は、やがて空の青に吸い込まれていった。美はいつも儚く、不安定で、危険だ。私たちはだからそれに魅せられ、その不安定な揺らぎに自己を同期させるのだ。

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