流れ出した時間、チャイム、生の祝福

子供達の時間が流れ出した。窓の外から、小学校に向かう子供達の声、それを迎える大人たちの挨拶が聞こえる。学校には「おかえりなさい」の垂れ幕が掲げられている。最初はたったの2時間の登校だけれど、それでも子供達の時間は前に進み始めた。

もちろん自粛期間中、子供達の時間が止まっていたわけではない。子供達は子供達なりにこの時間を生きていた。まだ6歳の息子には、時間はリニアに直進するものではなく、無限にやってくる瞬間、瞬間の連続であり、日々の繰り返しの中で、もともと円環しているようなものかもしれない。それでも、買ってもらったおもちゃの場所やエピソード、遠出した時の乗り物や風景、一緒にいた人の記憶などによって、彼の人生の物語は積み上がっていく。この自粛中もまた、彼の物語は、毎日通っていた公園や、自転車で遠出をした場所、その道のりの記憶、そして何より、普段はどちらか片方の親しかいない忙しい我が家に、なぜか二人の親が常時揃っている楽しい時間として、記憶されるのかもしれない。

ふと、チャイムの音がした。隣の学校から流れてきたこの音。3ヶ月間、一度も耳にしていなかったこの音が、ずっと止まっていたチャイムの音だと脳が認識した瞬間、私の身体は、この街の空間全体に開かれていくように感じた。梅雨の到来を感じさせる、樹木の新緑に滲み入るような雨音に混じって、遠くから聞こえる山手線の発着音と重なり合うように、学校のチャイムがこの街の色彩となる。街は、こんなにも多様な時間線を、こんなにも多様な音とともに存在していたのか。子供達の声、犬の吠える鳴き声、鳥たちの歌。それを上書きするような車の音、配達車が駐車する音、バイクの音、シャッターを開ける音。街に当たり前にあった音たち、しかしこの3ヶ月禁じれていた音たちが、複数の時間線の復活を祝福する。

そう、世界はそこに存在するだけで、こんなにも、他の生によって祝福されているのだ。降り続く雨は、樹々の生を祝福し、樹々のざわめきは、鳥たちの生を祝福する。鳥たちの声は、朝の4時に私の生を祝福する。入眠の時、もうこのまま目覚めなかったらいいのにと思う日もある。それでも鳥たちの声で目が覚める朝に、私はやはりそこにいて、ただ、そこにいることを世界に存在するすべてのものが、祝福している。もしかしたらすでに私の体内に共存しているウィルスや細菌さえも、この生の連帯者として、私とともに祝福されてもいいと、私は感じる。

人間を中心とした世界観の中で、人間の「生存」だけが優位に語られたとき、結果的に人間は不自由になり、相互に管理を、そして監視を強め、「生存」以外のあらゆる自由が剥奪されていく。コロナ感染者の最期を、家族でさえ看取ることのできない不自由。私たちは「生存」を優先するあまり、死者を敬い葬る権利さえ剥奪されている。しかし本来、人間の生は、生まれ落ちた瞬間からあらゆるリスクに満ち、あらゆる不確定性の上に弱々しく成り立っているものでなかったか。そこに予測不可能な領域が広がっているからこそ、私たちは痛みや失敗を伴ったとしても、美しいものを美しいと感じ、会いたい人と会い、行きたい場所に赴くのではなかったか。コロナ危機は、ウイルスが人類の生存を脅かす危機ではない。ウィルスの脅威によって生存が最優先されることで失われる、人間性の危機なのではないか。

学校が再開して、多少感染リスクが高まったとしても、私は自分の子供にそのリスクを引き受けながら、友達と遊んだり、遠足に行ったり、一緒にお弁当を食べたりして欲しい。完全に無菌、無リスクの空間など、この宇宙にはどこにもないのだ。そして仮にそのような世界があったとしたら、そこには生の祝福さえ、存在しないだろう。

私たちは生まれた瞬間から、根本的に不確かで未知の世界の一存在として、祝福されているのだ。

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