見出し画像

ひらりひとひら、含羞の「は」

初夏の風に、
紫陽花の葉がひらり揺れる。

これからの蒸し暑い季節でも、
そんな涼やかな心持ちでいたい。

先日、テレビの情報番組で、
親子代々受け継がれ、
家族で経営している喫茶店の若主人の方が
インタビューに答えられていた。

「親爺の後を継いで
こうして家族みんなの力で
喫茶店を運営出来て、
良かったとは思っています。」

ここで、ぎょぎょと、
思ってしまうのが僕の悪い癖。
羨ましい位の、
大変良い話ではないかと。
だけど、僕が気になってしまう、
その原因は、「は」である。

喫茶店を運営出来て、
良かったと「は」思っています。

この「は」が入ることで
伝えたいことの意味に
含みが生じる。
喫茶店の家族経営に
本当は別の感想、思い、
もしかしたら相当な悩みを、
抱えているのではないと。
あるいはこのインタビューの前に、
親子喧嘩でもしたのかと、
挙げ句は不要な心配までし始める。

そういうふうに捉えてしまうのが
僕の癖だ。

常々、他にもテレビ番組での
芸能人や一般の方々のインタビューで、
この「は」が発生している。

人気のある洋菓子店を
来店客が称えて、
「こういうお店が近所にあって
大変嬉しく「は」あります。」
ある俳優が、映画賞を授与されて、
「とても光栄で「」あります。」
100円ショップの人気商品を
ヘビーユーザーが褒めて
「大変使いやすく、
便利で「」あります」

僕の中でこの「は」が宙を舞う。
何かを限定的に、
条件含みで話すとき、
この「は」は、重宝するので「は」あるが。

この模糊とした「は」は、
含蓄の「は」であり、
もしかしたら、その実、恥じらい
要は、含羞の「は」なのかもしれない。

テレビカメラを向けられて
誰しも多少は、いやかなり
緊張するもの。
そこで人は、直言することの
照れ隠しに、この「は」を
無意識に入れるのでは。

かくなる小心者の僕も
テレビカメラの前では
この「は」をもっと連発するかも。
まあ、このシチュエーション、
想定出来ないのだが。

そんなふうに勝手に妄想しながら
僕は、ドリップ珈琲を淹れる。
そしてその芳醇な熱々を
ゆっくり味わいながら
肩の力を抜き、
気分をほぐしていく。

彷徨っていた薄霧の「は」は、
僕の脳裏から
忘却の彼方へ消え去る。

初夏の風に舞う一枚の葉が
ひらりひとひら、
涼やかに、地に帰るように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?