私の幻の博士論文 第2回 因果的説明と目的論的説明を区別する必要性
前回
1. はじめに
前回は、スポーツバイオメカニクスにおいて、分析対象としたい技術や動き、行動に対して目的論的解釈(説明)を行うための枠組みを整備するという課題を提示しました。そして、この問題に取り組むべき理由として、目的論的視点からの解釈や説明が、スポーツについての日常的な論評としては頻繁に行われているにもかかわらず、スポーツバイオメカニクスにおける学問的分析の次元においては、そういった解釈や説明をどのように取り扱えば良いのかがはっきりしていないということを指摘しました。
今回も前回に引き続き、この課題に取り組むことが何故必要なのかということについて考察していきたいと思います。今回は、前回と比べて、より理論的な角度からの理由づけをしてみたいと思います。
今回述べたい内容を一言で表現するならば、「私たちは、因果的説明(原因についての知識)と目的論的説明(目的についての知識)との区別をしっかりつけられるようになる必要がある」ということになります。
「因果的説明と目的論的説明の間の区別をしっかりつける」ということが大切になるのは、両者に似ている部分がある一方で、重要な点で異なる性質を持っていると考えられるからです。
二つの概念の間で似ている部分があることで、両者を上手く区別できなくなる可能性が出てきます。逆にまったく似ている部分のないもの同士であれば、ことさらに二つの概念の間の区別の必要を叫ぶ必要はないでしょう。そこで、6節では、どのような点が似ていることによって、因果的説明と目的論的説明の間の区別が曖昧になるのかということについて考察します。
「因果的説明と目的論的説明には重要な点で異なる性質がある」ということも、両者の区別をしっかりつけることが重要であると言えるためには必要になると考えられます。何故なら、両者が意味している内容がほとんど同じである場合にも、区別をはっきりさせる必要性はなくなるからです。例えば、前回私は、「目的」「理由」「意味」といった言葉が、ある程度互いに置き換え可能なものであるという前提で話を進めていました。もしかしたら、「因果的説明(原因についての知識)」と「目的論的説明(目的についての知識)」についても、同じような互換性があるかもしれません。
もしそうだとしたら、二つの説明の仕方を厳格に区別していなくても、大きな問題は生じないかもしれません。そこで、これら二つの説明の仕方には、その性質について重要な違いがあり、だからこそ、しっかりと区別をつけられるようにしておく必要があるということを、7節において考察したいと思います。
今回主にお話したい内容は以上の通りなのですが、「因果的説明」、「目的論的説明」という言葉に対して私がどのような説明の仕方をイメージしているのかということが、まだ読者の皆様と十分に共有されていないと思います。そこで、まずはこれらの言葉で私が主にどういった説明の仕方を想定しているのかということについて整理するということから始めたいと思います。
2. 「その力は何故そのように働いているのか?」という問いが重要になる背景
私が因果的的説明と目的論的説明という二項対立で物事を捉えるようになったのは、スポーツバイオメカニクスにおける標準的な研究技法を用いて、動作中に全身の筋が発揮している力を推定するという作業が完了すると(このプロセスについては、次回もう少し詳しく紹介する予定です)、立て続けに、「じゃあ、あるタイミングにある筋がある大きさの力を発揮しているのは何故なのか?」という疑問が出てきて、そして、この疑問に対しては、複数の回答の仕方が考えられるということに気がついたことがきっかけです。
前回も軽く言及したように、動作中に、全身の筋が発揮している力(※正確には、関節トルクと呼ばれるものであり一つ一つの筋が発揮する力とはイコールではないのですが、今回は、一つ一つの筋が発揮する力と思って読んでいただいて問題ありません)を推定する方法については、その実行プロセスについて解説した教科書的なものが存在します。しかし、発揮されている力を推定した後に、その力は何故そのように働いているのかという疑問にどのようにして答えたら良いのかについては、しっかりとまとまったものは私の知るかぎりは存在していません。そのため、ここから先は、自分自身で主体的にこうした疑問に対する回答の仕方を模索しなければなりません。
本節では、本筋の話から少し脱線してしまいますが、以前と比較して現在では、動作中に全身の筋が発揮している力を推定するということの研究としての価値が低下していっている(あるいは研究を行う当事者にとっても、「研究したぞ!」という満足感を得づらくなってきていると言っても良いかもしれません)のではないかということについてお話ししたいと思います。
かつては、ある動作(跳んだり、投げたり、走ったり)をしている際に、どのような力が発揮されているのかを推定するということができた段階で、研究成果として認められていたという側面が、少なくとも現在よりも強かったのではないかと思います。
※この点については、私はリアルタイム世代ではないので、何人かの先生たちの口ぶりから、どうやら一昔前はそういう状況だったみたいだという推測を含んだ話になります。
仮にそのような評価が得られていたのが事実だったとしたら、それは何故でしょうか。ここでは、主に二つのことを指摘できるのではないかと思います。一つは、基礎的資料としての価値が現在よりも高かったと考えられるということであり、もう一つは、力を推定するということを達成するまでに必要となる試行錯誤や創意工夫の程度が現在よりも大きかったと考えられるということです。
一点目についてですが、ある動作について研究した資料が今より少なった頃には、観察対象とした動作について、それを記述しただけに近いものであったとしても、その後同じ動作について研究したいと考えた人たちが出発点とできるような基礎的資料としての価値を認めることができたと思います。しかし現在では、多くの動作類型について、こうした記述的な報告は相当程度蓄積されて行っている状況へと変わってきています。そうなってくると、「基礎的なデータを算出し報告しました」というだけの研究としての価値は相対的に低下していくのではないかと思います。
次に二点目についてですが、スポーツバイオメカニクスの黎明期には、データをどのようにして取得するか、取得したデータをどのようにして処理するかといった点についてのマニュアル的なものは今よりも充実していなかっただろうと思います。また研究に用いる機材(カメラ、コンピュータなど)の性能も現在より悪く、現在では専用に開発されたソフトウェアで一括して処理できてしまうような作業についても、長い時間をかけて手作業で行わなければいけなかったことも多かったでしょう。
このように、かつては一人一人の研究者が道なき道を切り開きながら進むことで、ようやくたどり着くことができた地点である、「動作中に筋が発揮している力を推定する」という試みが、現在では、学生がこのプロセスについての十分な理解をもっていなかったり、独自の創意工夫を凝らさずとも、半自動的に行えてしまえるようになってきているという側面があります。恥ずかしながら、私自身もそうした人間の一人でした。そうなってくると、半自動化されたプロセスによって算出されたデータを報告するだけでは、それを研究として認めるということに抵抗が出てくることでしょう。
(スポーツ)バイオメカニクスと言うと、動作を記録して、力を推定してそれで終わりといったイメージをお持ちの方もいるかもしれませんが、現在では水面下でこのような価値観の変化が起こっているのではないかと思います。そして、力を推定した後に、何故そのような力が働いているのかという疑問についてさらに考えなければならないのではないか、という私の関心は、このような時代状況についての変化の流れを、研究室の先生たちの日頃のちょっとした物言いから少しずつ感じ取るというプロセスを通じて形成されていったという側面もあるのではないかと思います。
3. 「その力は何故そのように働いているのか?」という問いにどう答えるか
さて、では本筋に戻って、ある力が「何故そのように働いているのか?」という問いに対してどのように答えるかということについて考えてみたいと思います。フォームAとフォームBという二つの方略によって、ある動作課題が実行されているという状況について考えてみましょう。そして、スポーツバイオメカニクスの研究技法を用いることで、ある筋Xの力発揮について下の図のようなデータが得られたとします。
ここで、「何故フォームAでは、フォームBと比較して、動作局面中期において、筋Xが小さな力しか発揮できていないのだろうか?」といった問いを立てることができそうです。なお、発揮している力が小さい方が優れているという場合も考えられますが、ここでは、議論をスムーズに進めるために、より大きな力を発揮できていることが望ましいことであるという前提で話を進めることにします。
本節の以下では、この問いに対してできそうな回答(説明)のパターンを四つほど取り上げてみようと思います。
一つめの説明の仕方として以下のようなものが考えられます。「フォームAでは、動作局面中期において、筋Xの長さが大きな力を発揮しづらい状態にあったために、フォームBと比較して、小さな力しか発揮できなかったのだ」。
筋Xがついている関節の曲がり具合が変化することで、筋の両端の腱が骨に付着している位置(筋の起始と停止)の間の距離が変化するため、それに応じて筋の長さも変化します。
そして、筋には力を発揮しやすい長さというものが存在しており、短くなりすぎていても長くなりすぎていても、力を発揮しづらくなるという性質があります。したがって、筋Xが大きな力を発揮するのに適した長さよりも短く、もしくは、長くなりすぎてしまっていたということが、フォームAにおいて筋Xがより小さな力しか発揮できなかったことについての説明となるかもしれません。
そして、何故その長さでは、最適な長さと比較して小さな力しか発揮できないのかということをさらに問うこともできるでしょう。筋が収縮して力を発揮するという現象を、分子のレベルでとらえると、アクチンとミオシンというタンパク質が連結して引っ張り合うということが起きているそうです。筋が伸びすぎてしまっても縮みすぎてしまっても、このアクチンとミオシンの連結が途切れやすくなってしまい、発揮できる力が小さくなってしまうようです(1)。
以上を踏まえると、フォームAにおいて動作局面中期においてより小さな力しか発揮されないことについて、「アクチンとミオシンの連結具合が、最も効率的な場合と比較して悪くなっているから」といった説明が与えることができるでしょう。このような説明を「説明①」と呼ぶことにします。
二つめの説明の仕方としては、「中枢神経系から筋Xへと発せられた運動指令がより小さなものであったから」といったものが考えられそうです。
筋の収縮(力発揮)は、運動神経から電気的な信号が送られてくることによって起こる現象です。そして、運動神経から強い信号が送られてくるほど、発揮される力も大きくなっていきます。筋に大きな電気的信号が伝わってくる前段階においては、より中枢に近い部位(例えば脳)から大きな電気的信号が発せられ、それが神経系を伝わってきたと考えられるでしょう。
したがって、フォームAにおいて動作局面中期においてより小さな力しか発揮されないことについて、「筋Xを収縮させる運動指令(電気的信号)が、筋Xが発揮可能な最大の力よりも小さな力を発揮させる程度のものだったから」といった説明が与えることができるでしょう。こうした説明を、「説明②」としましょう。
続いて、第三の説明の仕方として、「全身のバランスを崩さないためには、そうする必要があったから」といったものが考えられそうです。例えば、「フォームAでは、動作局面中期においてより小さな力しか発揮できていないのは、それ以上大きな力を発揮してしまうと、身体全体のバランスに悪影響が及んでしまい、パフォーマンスの低下につながってしまうからである」といった説明を与えることができる場合がありそうです。
この身体全体とバランスとの兼ね合いという考え方は、注目している動作局面における、例えば、「他の筋Yとの力発揮の大きさの兼ね合い」といった同時的なものがまずは考えられそうです。こうした説明を、「説明③」としましょう。
さらに、この全体のバランスとの兼ね合いという考え方に時間の視点を組み込むこともできそうです。例えば、複数の筋の同時的な力発揮のバランスではなく、筋Xが大きな力を発揮してしまうと、その後の動作局面においてバランスが崩れてしまう(都合の悪い出来事が発生してしまう)ので、大きな力を発揮せずに(できずに)いる、といった説明をするべきケースもあるでしょう。こうした説明を、「説明④」としましょう。
前回紹介した、相撲における「相手が引き技を仕掛けてきた場合に上手く対応しやすいようなフォームで相手を押す」というのは、こうした説明の典型例と言えるでしょう。具体的には、「相手を強く押せていない(強い力を発揮できていない)のは、相手に引き技を仕掛けられた後の局面において、不利な(バランスの悪い)体勢になってしまうからである」といった説明が考えられます。
ここでは、あるふるまい(弱い力でしか押せていないこと)について、なぜそうなっているのかという問いに対して、そのふるまいが現に生じている時点よりも後(未来)の時点において生じる可能性のある事柄(相手の引き技による不利な状況の発生)と結びつけることによって、その状況についての説明が与えられています。
4. 二つの対比軸:部分志向か全体志向か/過去志向か未来志向か
前節で提示された四つの説明の仕方は、二つの対比軸によって整理することができます。
一つめの対比軸は、部分志向(説明①)か全体志向(説明③)かというものです。
説明①の特徴は、筋がある大きさの力を発揮するという現象に対して、その現象をより微細(ミクロ)な視点で捉えたときに、何が起きているのかという観点からの説明を行っているということです。そこでは、身体運動という一つのシステムを構成している一部分である筋Xについて、その部分自体をさらに細かく分節化していくという方針のもとで、現象を説明することが目指されていると言えるでしょう。
それに対して説明③の特徴は、システム(身体)全体あるいはシステム(身体)を構成する他の要素との関係に言及する形で、筋Xのふるまいが説明されているということです。例えば、筋Xの力は、同時的に働く筋Yの力と同じ大きさになっていなければ、身体全体のバランスが崩れてしまうとしましょう。この場合、筋Xがある大きさの力しか発揮できない理由を説明する際には、その筋Xのふるまい自体ではなく、システムの他の構成要素である筋Yがどのようにふるまっているのかに注目することになります。部分のふるまいについて、その部分自体をさらに細かく分節化して捉えることを目指す説明①と対比すると、こうした説明は、部分のふるまいを、システム全体やシステムの他の構成要素との関係という観点から意味づけるということが試みられていると言えるでしょう。
次に、二つめの対比軸として、過去志向(説明②)か未来志向(説明④)かというものがあります。
説明②の特徴は、何故筋Xがある大きさの力を発揮しているのかという問いに対して、その出来事を発生させることの発端となった過去の出来事は何かということに注目しているということです。そこでは、説明したい現象よりも時間的に前(過去)に生じた出来事に言及することによって、何故そのような力発揮が起こったのかを説明しようとしています。
それに対して説明④の特徴は、その力が発揮されているタイミングよりも後の時点において生じるべき出来事(後の動作局面において良いバランスが維持される)を、実現が目指される出来事として設定した上で、その出来事を実現するために(あるいは都合の悪い出来事の発生を回避するために)、その力が発揮されているのだ、というような説明がされているということです。
5. アリストテレスの四原因説
ここまで、「何故そのような力が発揮されているのか?」という問いに対して、考えられる四つの説明の仕方を提示し、そこには二つの対比軸を見出すことができるということをお話してきました。本節では、説明①と説明②を因果的説明、説明③と説明④を目的論的説明とするという形でグループ分けするという見方を提示してみたいと思います。
2000年以上前のギリシャの哲学者アリストテレスは、物事の存在に疑問を持った際にする説明の仕方を四つの類型にまとめるということをしました。これは現在では、「アリストテレスの四原因説」と呼ばれています。アリストテレスは、物事には、資料因、形相因、作用因、目的因という四つの原因があると考えました(2)。
おおざっぱに言ってしまうと、このうち、資料因と形相因が、部分志向(資料因)か全体志向(形相因)かという対比軸に対応しており、作用因と目的因が、過去志向(作用因)か未来志向(目的因)かという対比軸と対応しています(3)。
このうち、近代科学の成立以降において真の原因として認められているのは、作用因のみであるといったことが良く言われます。つまり、目的は出来事の発生に対して因果的な影響を及ぼさないものとみなされるようになっていったということです。別の言い方をするならば、ある出来事が別の出来事の原因であると認められるためには、結果よりも時間的に先行している必要があるということです。
何故このように考えられるのかということについての簡潔な説明としては以下のようなものがあります。「目的に原因性を認めるということは、未来の出来事によって現在の出来事がどのようなものとなるかについて影響を及ぼすことができるということである。この考え方をさらに推し進めると、現在の我々の行動によって過去の出来事を変化させることができるということになるだろう。しかし、過去に何が起きたかを現在の我々が変更することはできない。したがって、時間的に後の出来事が時間的に前の出来事を引き起こす原因となることができるというのは誤った考えである」(4)。
このように、現代における原因概念の中心を占めるのは、作用因的な意味での原因だと考えられます。ただし、自然科学においては、資料因に近い説明、つまり、対象をさらに細かく分節化していくような説明についても、広義の因果的説明であると認められている側面があるのではないかと思います(5)。
例えば、水温の上昇という現象の原因とは何か、という問いに対して、水分子の運動が活発化していることである、といった説明を与えることができると思います。ここでされている説明は、水温の上昇という現象を、より微視的な視点から捉えるならば、何が起こっているのかというものであり、水温の上昇を引き起こした時間的に前の出来事に言及しているわけではありません。
同様に、筋が力を発揮するということは、アクチンとミオシンが互いに引き合うということによって実現されているという説明も、筋収縮という現象を微視的に捉えた場合には、どのように記述できるかということを追求していると言えるでしょう。そして、「水温が上昇した原因は、水分子の運動が活発化したことである」、「筋が力を発揮している原因は、アクチンとミオシンが互いに引き合っているからである」という表現は、若干違和感はあるものの許容可能なものなのではないかと思います。
以上を踏まえて、説明①のような説明を「狭義の因果的説明」、説明①に加えて説明②のような説明までも含めて、「広義の因果的説明」として捉えておくのが良いのではないかと私は考えています。
目的論的説明についても、その基本形(狭義の目的論的説明として認められるの)は、時間的に後の出来事によって前の出来事を説明しようとする説明④のようなものだろうと思います。しかし、全体志向の説明についても、目的論的な側面を見出すことができそうです。何故なら、「システム全体やシステムの他の構成要素との同時的バランスをとる『ために』、そのような力が働いている」という構文を用いて表現することができそうだからです。そこで、未来志向の説明を「狭義の目的論的説明」、全体志向の説明までも含めて「広義の目的論的説明」と捉えることができるのではないかと思います。
因果的説明(過去志向&部分志向の説明)は、典型的な科学的説明であると言うことができるでしょう。それに対して、目的論的説明(未来志向&全体志向の説明)は、近代科学の標準的な取り組み方からは逸脱するような側面があると考えられます(このあたりの話については回を改めて、もう少し深堀していきたいと思います)。ここで、因果的説明には科学らしさを感じる一方で、目的論的説明はそうではないのはどうしてだろうかという点について、もう少し考えてみたいと思います。
大きな違いとして、今回取り上げたようなタイプの因果的説明は、この世界で生じている物質レベルでの出来事をありのままに(客観的に)記述しようとしているのに対して、目的論的説明は、人間的な状況理解や価値評価の視点が組み込まれているという点で、主観的な側面があるように感じられるということがあるのではないかと思います。
※物事をありのままに客観的に記述することなど不可能なのではないかという哲学的議論はもちろん存在するわけですが、ここでは立ち入りません。
今言ったことの意味についてもう少し考えてみましょう。筋の力発揮も含めた、身体のふるまいは、身体を構成する物質レベルでの現象として捉えることができます。そして、身体を構成する物質のふるまいは、自然法則(物理法則や化学的法則)に支配されていると考えることができそうです。このように、身体運動を自然法則に従った自然現象として捉える限りは、そこには、人間的な意味や価値といったものは入り込む余地はないように思われます。
それは、自然が、人間の生活を脅かさないように配慮して地震や洪水を起こさないようにしてくれたり、反対に、ノアの箱舟の物語のように、人間を懲らしめるために、意図的に災害を起こすということもしないのと同じことです。筋の力発揮(収縮運動)もまた、単に自然法則に従って起こる身体内部の生化学的な反応の連鎖として淡々と生じるものだと言えるでしょう。あるいは、そのような立場から(つまり、物質的な現象は、人間による意味理解や価値評価とは無関係に生じるのだということを前提にして)、この世界で起きている出来事を捉えようとすることこそが、自然科学的な世界把握の仕方であると言えるかもしれません。
これに対して、例えば、「その力は、バランスを取るためにその大きさで働いている」という表現について考えてみましょう。ここで注目すべきことは、ある状況について「バランスが取れている」と捉えるということ自体が、人間的な状況理解や価値評価を含んでいるということです。自然法則に支配された自然現象としての筋の力発揮は、人間の側の評価基準である、「ある状況がバランスが取れたものか否か」ということを忖度してふるまいを能動的に調整するといったことはしてくれません。繰り返しになりますが、ただ淡々と、神経系から伝わってきた電気的信号に対して受動的に反応するだけです。
したがって、「その力は、バランスを取るためにその大きさで働いている」という表現は、物質的プロセスとして客観的に起きている出来事を記述しているというよりかは、その状況の当事者であったり、考察者であったりする人間の側の状況理解や価値評価の視点が組み込まれた、言わば、その状況についての「人間(運動している行為者)にとっての意味」を語っているものだと言えそうです。そして、このような人間的関心というフィルターを通して出来事を解釈しているというところに、私たちはある種の客観性のなさを感じ取るのではないかと思います。
6. 目的に原因性を感じる理由についての考察
私が因果的説明と目的論的説明の区別を気にするようになったのは、自分自身が説明③や説明④のような目的論的説明を行おうとしているときにも、「原因」という言葉を用いて表現していることがあるということに気がついたからです。例えば、筋Xが何故小さな力しか発揮できていないのかという問いに対して、「それ以上大きな力を発揮してしまうとバランスが崩れてしまうことが、その原因である」といった表現をしてみても、日本語としてそれほど大きな違和感はないように私には見えます。
私は、このような混同が生じるのは、それなりの理由(仕方のないことだと言えるような事情)があるのではないかと考えています。それは、「目的」には、「原因」と似た性質を持っているという側面があるために、このような混同(目的を原因のように感じるということ)が生じるのではないかということです。
「原因」という言葉には、「出来事の発生を強制するもの」という含みがあるそうです(6)。例えば、「雨が原因で遠足が中止になった」という表現は、「雨によって、遠足を中止することが『強いられた』」という表現に置き換えても、大きく意味が変わるわけではなさそうです。
目的(未来において発生することが望まれる出来事)に原因らしさを感じることがあるのは、目的が設定されることによって、行動が限定あるいは決定される(ように感じられる)場合があるからなのではないかというのが私の考えです。
例えば、「あなたは今なぜ走っているのか?」という問いに対して、「人と待ち合わせをしており、集合時刻に遅れそうだから」と答えるという状況について考えてみましょう。この回答は、「集合時刻までに待ち合わせ場所に到着する(という目的を実現する『ために』走っている」というものに置き換えることができるでしょう。そして、このとき、「集合時刻までに待ち合わせ場所に到着する」という目的(未来において発生することが望まれる出来事)が、「今走っている」ことの原因のように感じられる面があるのではないかと思います。
この状況についてもう少し詳しく考えてみましょう。「集合時刻に間に合うために走っているのだ」という説明が暗に示唆していることとして、「今歩いてしまうと、集合時刻には間に合わない」ということがあると考えられます。つまりここでは、「走る」、「歩く」という行動の選択肢がある中で、「集合時刻までに待ち合わせ場所に到着する」という目的が設定されることによって、「歩く」という選択肢を取ることが許されなくなっているという意味で、今選択される行動に対してある種の強制力のようなものが働いていると捉えることができそうです。
このように、ある目的を達成するということを前提とすると、特定の行動をとることが実質的に強制されるというケースが存在し、こういった場合に、私たちは、目的に原因性を感じるのではないかというのが私の理解です。
スポーツにおいても、試合中にある目的を実現するためには、特定の行動を取らなければならない(選択可能な行動が限定される)ということが多々あると思います。私は、これが、スポーツ動作や技術について分析するという文脈において、目的の観点から物事を考えるということと、原因の観点から物事を考えるということの境界線が曖昧になりやすい理由なのではないかと考えています。
しかし、ここで、「目的が設定されることによる行動の強制(限定)は、弱い強制力しか持たない」ということに注意する必要があります。ここで私が言いたいことはどういうことかというと、目的が設定され、その目的を達成することができる行動が一つしかないとしても、そのことから、必ずその「目的を達成することができる行動」が実行に移されるとは限らないということです。
私たちは、設定した目的が比較的簡単なものである場合には、目的に応じて適切な行動を選択・実行することができます。近所の郵便局に行きたいと思えば、自宅から郵便局へと通じる経路を進むことができるでしょうし、郵便局ではなくもっと近くにあるコンビニに行けば良いのだと気がつけば、進む道筋を変更し、コンビニに辿りつく経路へと柔軟に進路変更することができるでしょう。このように、目的に応じて適切な行動を選択・実行することが容易な場合には、目的によって行動が決定されているように見えます。
しかし、目的の達成が難しいものである場合には、目的が設定されたからといって、現実に行われる行動が目的を達成できるものに限定されるとは限らなくなります。例えば、目的をエベレストの山頂に到達することとしてみたら、エベレストの登頂に成功するような行動が強制的に実現されるとは限らないということが容易に理解できると思います。
このことを認識しておくことは、スポーツ動作/技術の分析という文脈では非常に重要なことだと私は考えています。何故なら、スポーツにおいては、成功するとは限らない目的の実現を追求するということがしばしばあるからです。
目的が変わることによって、それを実現するための行動が変化するであろう状況として、野球におけるケースバッティングというものを考えてみましょう。得点差やランナーの有無、ボールカウント、アウトカウントなどによって、バッターの目的(狙いとする打席結果)は、出塁することを重視する、長打を狙う、進塁打を打てる確率を増やす、といったように、変化することがあるでしょう。
優れた打者の中には、その時置かれた状況に応じて、自分のバッティングを柔軟に変化させることが得意な人もいるでしょう。しかし、選手の能力が足りていなかったり、あるいは設定されている目的が難しすぎる場合には、目的を実現するために必要な行動を実行できるとは限らなくなります。例えば、絶対にホームランが欲しい局面においても、バッターが非力であったり、相手ピッチャーの能力が非常に高い場合には、その願いはたいていは叶わないことでしょう。
7. 現象の再現可能性という観点からの比較
前節では、簡単な課題であれば、目的が設定されることで、それを実現可能な行動が強制されているように感じやすいが、課題が難しくなると、目的が設定されたからといって、それを実現可能な行動が強制的に実現されるとは限らないということを指摘しました。
この考察も踏まえつつ、本節では、因果的説明(原因についての知識)と目的論的説明(目的についての知識)との間で、現象を再現する能力において、大きな違いがあるということを見ていきたいと思います。
因果的説明(原因についての知識)は、現象の再現可能性と分かりやすいかたちで結びついています。ここで「現象の再現可能性」という言葉で私がイメージしているのは、「ある人が実現している優れた動作パターンを、それができていなかった他の人も実行できるようになる」といったことです。
優れた動作パターンを実現できている人が、その動作遂行中に全身の筋が発揮している力と同じように力を発揮することができれば、その優れた動作パターンを他の人も再現することができます(※ただし、これは、全く同じ身体組成をしている二人が、全く同じ環境条件下で動作を遂行するということを前提にしています)。このような原理が存在しているからこそ、身体運動中の全身の筋が発揮している力を推定するという、バイオメカニクス的動作解析研究において得られる情報には、実用上の大きな価値があるのではないかという期待が生じるのだろうと思います。
しかし、発揮すべき力のパターンが分かったからといって、その通りに実行できるとは限りません。では、発揮すべきことが分かった力を実際に実現するためにはどうすれば良いでしょうか。この課題を解決するための一つのアイデアとして、筋がある大きさの力を発揮する際に物質レベルで生じている事柄を丸々再現してしまうということが考えられそうです。
もちろんこれは、現実的には極めて実現が難しいアプローチではあります。しかし、目指すべき方向性がどういったものなのかという点では、かなり明確なヴィジョンを描くことができます。つまり、身体動作中における身体内部における物質レベルでの諸々のプロセスがどのようなものであるのかということについての詳細な知識を獲得した上で、それを人工的に再現するための科学技術を発展させれば良いのではないかということです。ここでは、ある身体動作についての(物質レベルでの)因果的説明を詳細に獲得することが、その動作(現象)を再現するというプロジェクトにおいて、どのようにして役立つかということが明確なものとなっています。
このように、ある現象(動作)を引き起こしている物質レベルでの原因について詳しく把握するということは、その現象(動作)を再現するための手段を手に入れるということと分かり易いかたちで結びついています。
因果的説明(原因についての知識)の持つこのような性質と比較すると、目的論的説明(目的についての知識)は、現象(動作)を再現するための知識として、実効性が乏しいように思わせる側面があります。何故なら、目的を知るだけでは、それをどのようにすれば実現できるかは直ちには分からないように思われるからです。
ある動作局面において、ある筋が、ある大きさの力を発揮しているとして、それはある目的のためであるということが言えたとしましょう。しかし、目的論的説明が与えられただけでは、その力発揮がどのようにすれば実現可能かは依然として分かりません。
反対に、目的論的説明が与えられていなくても、(不足のない完璧な)因果的説明によって表現されている、物質レベルでの出来事さえ再現することができれば、動作を再現することが可能です。そういった意味では、目的についての知識を得るということは、現象(動作)の再現という観点からは、不要でさえあるようにも見えます。
因果的説明(原因についての知識)と目的論的説明(目的についての知識)との間で、このような違いが生じるのは何故かということを理解する上では、前節において指摘した、目的が有している強制力が弱いものでしかないということが重要になると思います。
物質レベルでの原因についての知識が、現象の再現可能性と密接に結びついているのは、同じ物質的状態・プロセスを再現することができれば、同じ現象が強制的に再現されるからです。
※量子力学的問題については、今は考えずに話を進めます。
それに対して、目的が設定されることによる行動の決定は、一見すると、目的がどのような出来事が生じるか(行動が実行されるか)に直接的に影響を与えているようにも感じられる場合もありますが、物質の集まりとしての身体の挙動に目的自体が直接的な働きかけをしているわけではありません。ある目的を達成する行動は、目的が設定された段階で自動的に実現されるのではなく、行為者(運動者)自身が、目的を実現可能な行動を主体的に実行するというプロセスに依存しています。だからこそ、行為者自身に目的を実現可能な能力が備わっていない場合には、その目的の実現は強制されないのです。
8. おわりに:スポーツ技術に対する理解を深めるという観点からの目的論的説明の必要性
因果的説明と目的論的説明は、いくつかの点で異なる性質を持っているということについて整理してきました(部分志向か全体志向か、過去志向か未来志向か、出来事の発生を強制する能力の強さ)。そして、因果的説明の方が目的論的説明よりも、科学的客観性が備わっているように見えること、さらには、現象を再現する上での役立ち方の分かりやすさという観点からも、因果的説明の方が優れているかのような考察を行ってきました。
にもかかわらず、スポーツ技術や動作について関心を持っている人が発する「何故そうなるのか?」という問いの中には、目的論的説明を期待してのものが多く含まれていると考えられます。
因果的説明は、科学的に本道と言っても良い説明形態であり、そのため、現象に対して因果的説明を与えるための方法論は比較的良く整備されています。例えば、対照群と介入群を設定して、比較を行うといった研究方法も、基本的には原因についての知識を獲得するためのものです。それに対して、前回も少しお話ししましたが、どのようにすれば行動に対する目的論的説明を与えることができるか、という点についての検討は、少なくともスポーツバイオメカニクスの領域内においては、私の知る限り十分になされてきていないように思われます。
①因果的説明と目的論的説明の境界が曖昧であること②目的論的説明独自の方法的枠組みが未発達の状態にあること、の二つが合わさることによって生じる事態として私が懸念しているのは、目的論的説明が求められる局面において、因果的説明を行うための方法的枠組みが強引に適用されてしまうといったことです。
繰返しになりますが、因果的説明(原因についての知識)と目的論的説明(目的についての知識)には様々な性質の違いがあります。このことから、異なる方法によって両者を取り扱う必要があるかもしれないということが示唆されます。少なくとも、因果的説明の枠組みを目的論的説明のために使いまわしてしまっても問題ないかという点についてよく精査してみる必要がありそうです。第4回(次々回)から第6回では、この点についての考察を深めていく予定です。
前節では、因果的説明=原因についての知識の方が、目的論的説明=目的についての知識よりも、知識の実用性という観点からは優れているかのような考察を展開してきました。他方で、スポーツ技術や動作への関心から発せられる問いの中には、目的論的説明を求めるものが多いのではないかことも指摘しました。
この二つが両立するための一つの単純な解釈は、目的論的説明を求めるのは、実用とは関係の薄い、純粋な知的好奇心を満たすためであるといったものでしょう。しかし、むしろ実際には、目的論的説明を私たちが求めるのは、実用上の利点があるからなのではないかというのが、一人のスポーツ指導者としての私の直観です。
どうして目的についての知識が今回考察したような観点からは、実用性に乏しいように見えるのに、実践の場において実際には実用性を発揮しうるのかということは、この連載において私が集中して考えてみたいことの一つです。ただ、この点について考察するのは、まだだいぶ先の回になる予定です。
今回は以上になります。前回と今回のお話を通じて、スポーツ技術や動作についてのバイオメカニクス的解析において、どのようにして目的論的説明を行うかということが、詳しく検討する必要性がある問題であることを、ある程度は読者の皆様にお伝えすることができたのではないかと思います。
次回は、これまで簡単にしかお話してこなかった、スポーツバイオメカニクスにおける根幹的研究技法である、動作を計測し、そこから動作中に全身の筋が発揮している力を推定するという作業について、もう少し詳しく紹介したいと思います。
それでは、次回以降も引き続きよろしくお願い致します。
次回
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(1). 福永哲夫編、『筋の科学事典―構造・機能・運動―』、朝倉書店、2002、p.29を参照。
(2). 『アリストテレス全集第4巻 自然学』、岩波書店、2017、pp.82-89に四原因説の議論がある。
(3).ただし、アリストテレスの原因についての考え方は、現代の私たちが抱いている原因観とはかなり異なっている部分もあり、この整理は、アリストテレス自身がそう考えていたものというよりかは、私自身の解釈による図式化という側面が強い。もっとも、ルーベルト・リードル、『認識の生物学 理性の系統発生史的基盤』、思索社、1990、p.281-334において、この整理の仕方に似た部分のある議論がされており、私もここから一定の影響を受けている。
(4). アレックス・ローゼンバーク、『科学哲学 なぜ科学が哲学の問題になるのか』、春秋社、2011、p.115における議論を参考にした。
(5). 例えば、ジョン・R・サール、『マインド 心の哲学』、朝日出版社、2006、p.270において、これに近い見解が示されているように私は考えている。
(6). スティーヴン・マンフォード、ラニ・リル・アンユム、『哲学がわかる 因果性』、岩波書店、2017、pp.54-55を参照。
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