手記(2024年夏)

 バスを降りて会社に行く途中にビワが落ちていた。アスファルトに灼けて表面がぐずついて熟れていた。それから犬の糞を2つ見つけた。つやっぽい表面に、蠅が元気にたかっていた。よく考えてみれば、バス停へ向かう川原でも1つ犬の糞を見ていた。つまりその日の俺は、下を向きながら歩いていた。


 猫を飼い始めた。うにと言い、8歳のちびの雌の保護猫で、名前とは裏腹によく動きよく喋る。
 暑いのにお構いなく、膝や腹の上に乗っかって、にゃあと鳴く。そうして撫でてやっていると、急にかぷりと手に噛みついてくることがある。
 こうした噛み癖は、仔猫時代にきょうだいと遊ぶことが少なかった猫に特有のことだ。彼女は俺たち夫婦のことをきょうだいだと捉えているわけである。
 妻はこの噛み癖が少し苦手らしいが、俺はかぷりとやられたとき、むしろ、うににきょうだいと認めてもらえたような、得意な心持がしてくる。だから、噛まれても手を引っ込めずに、そのままにしておいてやる。
 ここのところの日課である。


 言葉が下手な人が抱えている問題点と言うのは、実際、一般に思われるような、語彙力の貧困や、話法の至らなさなどではない。
 思考に問題がある。
 こう書くと、思考の内容を責めたい向きを受け取られるかもしれないが、そうではない。彼らの思考内容は特段問題ないのだ。しかし、思考の順序が不埒で、そこに禍いの大元がある。
 トルストイが『人生論』で著しているように、思考の適切な順序は、適切な目的に導かれる。逆に言えば、不適切な思考には、適切な目的がない。
 つまり、言葉が下手な人という生き物は、己の目的を、口を開く際あるいは喋っている最中に、忘れてしまっているか、少なくとも間違えている。


 俺の家は川辺に建っており、毎朝、土手の歩道を歩いている。
 梅雨明けごろから、青い背とオレンジのはらのうつくしいかわせみが、ツピイ、ツピイ、と一定間隔で鳴きながら、川面すれすれを飛んでいくのを見るようになった。声も姿も美しいので、見つけるのが朝の楽しみになっている。
 大きな真っ黒の鵜も見かける。川の真ん中にどっかりと陣取って、翼を拡げて朝陽をめいっぱいに浴びているのである。いかにも頭が悪そうで、ふてぶてしい。
 しろさぎは、しきりに川底に首をつっこんで、貝類だかを食い漁っている。毎朝ご苦労なことだとのんきに眺めていると、不意に、白いおおきな翼をはためかせ始めて、ずっと上空に飛び去って行く。
 長いあしをたゆたわせるその後ろ姿は、何かの凶兆を思わせる。


 ずっと昔、恋人に振られて失恋うつになっていた俺は、どす黒い絶望的な気分に吞まれるがまま、人間の去勢をしてくれる病院を捜した。
 拍子抜けなくらい簡単に予約を済ませ、これで生まれ変われるのだと、胸をなでおろした。俺は俺の中の深淵と一体になろう、なってみせようではないか、と奮い立つ意気が、真っ黒な俺の中に満ちて、そこに少しの安楽を見た。
 しかし予約日の3日前に、急に、取り返しのつかなくなるような気がしてきた。臆病に苛まれて、震える手で電話し、震える声でキャンセルの旨を伝えた。
 電話に応対したスタッフの無感動な口調は、何かの軽蔑を表明していた。単なる業務上の煩わしさかもしれなかった。
 情けなさがこみ上げてくると同時に、電話一本でキャンセルできる程度の深さしかない俺の深淵のしょうもなさに、拍子抜けした。


 9時のニュースを見るためにNHKをつけた。しかしやっていたのはオリンピック中継だった。
 女子レスリングの決勝で、日本人がアメリカ人から1-1のところから2点をもぎ取った瞬間だった。
 ニュースを見るつもりだったのに、アナウンサーの興奮を浴びせかけられて、ますます興が削がれた。
 そもそもニュースを見ようとしたのは、五輪だのの俗っぽい話を見たくないからだ。ますますテレビを見る頻度が下がっていく。


 道徳心や宗教心を喪った現代の人間は、自らが経てきたインプットデータをベースにしたむなしいランダム関数に過ぎない。
 そうした現代的人間にあっての論理性とは、過去のインプットを確定的順序で再現してやることで報酬中枢を刺激し、警戒心や猜疑心というファイアウォールを撤回させるためのハッキング技術であり、侵略のための戦術である。
 現代において持て囃される論理に正しさや公平性はない。


 小学校では、音楽に心を込めろ、と指導されることがあった。こちらは歌ったり弾いたりするのに忙しいというのに、心などと無形物を絞り出すのは、無理なことだった。
 だがおそらく、あれは、俺に向けて言ってたわけではなかったのだろう。
 子どもたちの中で何人か必ずいる、ぼんやりと音楽をやっている、まぬけ面の連中に、集中させるために言っていたのだろう。心を込めて欲しかったのではなく、気を確かに持って歌ってほしかったのだろう。
 生来、音楽に興味関心を寄せない人間が、この社会には一定数いる。そういう人は、いったい何が楽しくてこの世界に存在しているのか、俺には分からないので、不安になる。
 不安だから、そういう人たちの存在を、つとめて忘れようとしてしまう。


 真夏の白昼、街道の向こう側の交差点に救急車が這入ってきた。
 青空とコントラストをなす真っ白な車体をかげろうに揺らめかせながら、灼けたアスファルトに四輪を押し付けて左折した。
 今年の異常な暑さの中にあって、その姿は現代の死の伝道師のように思えた。


 今の音楽の最先端はアンビエントにあるのかもしれない。YMO、映画音楽で一世を風靡した坂本龍一が、晩年にアンビエントの作品を書くようになったのは、老いによる趣味の変化ではなく、彼の鋭い嗅覚から来る、コンテンポラリーな音楽への興味だったのかもしれない。


 宗教の助けを借りずに、愛することの重要性を洞察し、吸収し、血肉へ同化できるほど、ほとんどの人は賢くない。
 ごく一部の人は、鋭利な論理と不断の思考によって、愛の重要性という真理に至ることができる。だが多くの人はそうではないのだ。 
 逆に言えば、宗教とは、そうした蒙昧の人びとにあってもよく生きよく死ぬことを実践させてくれる、人間存在のよき伴侶である。
 昨今の日本における、宗教に対する著しい猜疑心が、こうした啓蒙によって一刻も早く解かれんことを願っている。


 友人から連絡があった。コントラバスを買ったのだと言う。それも5弦のだ。
 社会人3年目にして、彼がいよいよ楽器に取り掛かってくれることが嬉しかった俺は、惜しみのない賛辞を彼に贈った。
 しかし何より嬉しかったのは、楽器を買ったことを良き報せとしてくれるような、明るく良き心根の持ち主が、長い付き合いの友にいることだった。


 楽器を始めたのは、最初は、なりたい人がいて、その人の真似っこだった。チェロを始めていた兄と、フルートを習い続けていた姉である。
 10年、15年と続けるうちに、楽器が縁となって、兄と姉の他にも、ますます次々と、こうなりたい、と思う相手ができていった。
 先生、先輩、同期、後輩、今まで出会ってきた尊敬できる人びと全てが、僕にないものを宿している。
 今も俺はないものねだりで、その人たちの真似っ子を続けている。だから、死ぬまで楽器を手放すことはない。


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