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〈往復書簡〉私から、波を起こす 第7便「たとえ見えなくても、優しさは消えない」

第7便「たとえ見えなくても、優しさは消えない」

2024年7月4日

村田奈穂さま

こんにちは。東海地方もようやく梅雨に入って、蒸し暑くなってきました。日頃通勤している名古屋は本当に暑くて、もういい加減にしてくれと思うほどです。この先まだ気温が上がると思うとうんざりします。
五十鈴川にかかる宇治橋のことを聞いて、久しぶりに伊勢神宮に行きたくなりました。まだ一度しか行ったことがありませんが、その時は冬だったので、新緑の季節も味わってみたいです。

SLOW WAVESの新刊、お読みいただき、ありがとうございました。寄稿者の皆さんも喜んでくれると思います! 確かに、一人でドライブしている話って、あの本にはなかったですね。車の中で交わされるいろんな会話が見てみたい、という気持ちが特集を決めた時にはあったので、思い通りの内容を作れたと思いつつ、自分のことを顧みると、一人で長距離運転をするのも好きで、だから別にドライブって同乗者がいないといけないというわけではない。一人で見ても気持ちいい車窓の風景というのは、たくさんありますからね。

だけど車窓を見るといっても、運転に集中していたり、同乗者との会話を主に楽しんでいたりするときは、窓の外の風景は細部まで視界に入り込んでいるわけではないし、風景という対象と一対一の関係を結ぶ、つまり村田さんのおっしゃる「見る」とはまた異なる「見る」なんだろうと思います。

ドライブは気軽にするものですし、景色を楽しむ態度はのんきなものでいいと思いますが、たとえば美術館で絵に対峙するとき、陶器に視線を注ぐとき、そして他者との会話で他者の目を見るとき、私たちは対象物——会話であれば当然「相手」の人物ですが——と一対一の関係を結ばなければ、そこで語られることに向き合うことができない。真の意味で「対話」ができない。(現代の美術のうちのあるものは「うるさい」ということ、僕も同じように感じています。こちらから話しかけることが許されていないような、閉ざされたうるささ。)
 
対象物に自己を投影し、自分の心と真剣勝負をする。あるいは、対象物がもたらす驚きに純粋に身を浸し、忘我の喜びを得る。「見る」、すなわち対象物と一対一で向き合ってその声に耳を澄ませることの意味について、村田さんはかくも明快にまとめてくださいました。
何らかの思想が具現化された対象物に、「自分」というあやふやな形の存在を通過させ、その奥にかたどられた自分を見つめ直す。それは、時にしんどいことだと思います。
 
正直に言って、僕は真剣勝負というものがちょっと苦手なところがあります。少年野球の試合では、大事な場面でバッターボックスに立つ、ある種の決まりの悪さ。仕事の会議では、案を磨き上げるためのダメ出しのし合い。そういうのがちょっと苦手な自分がいます。自分のダメなところを暴くような、刺さる本を読んだ時だって、その暴かれた自分のダメなところを直視できているかというと、ちょっと自信がないような。
要は、相手が他者であれ自分であれ、本気で相手に向き合った末に傷つくということを、どうしても避けたいのだと思います。真っ向勝負は多くのものを与えてくれますが、その分傷も深く残します。そのことを嫌がる自分が、なかなかいなくなってくれません。
 
その点、海というのはあいまいに勝負を終わらせてくれます。穏やかな海をぼーっと眺めながら考え事をしていても、海はこちら側へ強く迫ってくることをしません。だから自分と闘わなくていい。そして、普段の海に驚きはなくても、海を見つめている時間には、忘我の境地に至らせてくれる力がある。
そんな、勝ち負けという明確な結末を用意せず、全てをあいまいなまま終わらせてくれるから、僕は海が好きなのかもしれません。

村田さんは他者をあまり見ていない、「きっと誰かが避けてくれる」と思っている、とおっしゃいます。しかし僕は、それは村田さんの方法で、他者を信じているということなのではないか、という気がするのです。
「避けてくれるから大丈夫」と思うということは、誰かが自分にぶつからずにいてほしい、ぶつからない方がけがしないで済むのだから、と、そんなふうに誰かのことを気にしていない限りは思うことのない気持ちです。それもまた、他人のことを信じる方法の一つなのではないでしょうか。
「きっと誰かが避けてくれる」とすら思わない、傍若無人な人というのがいるのです。彼らは人が避ける・避けないにかかわらず、そんなことに思いを巡らせることもなく、自分の道を進むことしかしません。ぶつかっても痛がらない。他者の痛みにも気づかない。
村田さんはそうではない。「きっと避けてくれる」と思うことを通して、他者のことを見ている。それは不器用な方法かもしれないけれど、その底の方には、純白な優しさが積もっているのではないですか。

誰だって寂しい思いなんかしたくないと思うんです。でも、村田さんには一人を選ぶことができる強さがあった。僕はといえば、一人で居続けるとけっこうすぐにしんどくなってしまうところがあって、だから人と一緒にいるために、つい誰かに合わせすぎてしまうところがあります。
これも、滑稽だと思うのです。
僕は確かに、向こうからやってくる人が歩きやすいように、なるべく気をつけるタイプだと思います。しかしそれは澄み切った優しさからではなく、「避けるように配慮することができなければ、僕は誰とも一緒にいられなくなってしまうのではないか」というか、「避けることのできる自分でなければ、ここにいる価値はないのではないか」「『いらない』と言われてしまうのではないか」という、行き過ぎた弱気な気持ちが起点になっている気がします。たしかに僕は、相手のためにうまく配慮できなかったときに落ち込んでしまったりします。しかしそれもまた結局、誰のことも見ていなくて、寂しくならないように、自分を守りたいだけということなのかもしれません。
だから、誰かのことをもっと真正面から受け止めて、必要なことはきちんと言って、いつでもありのままの自分で相手に対峙できる勇気が欲しいと、いつも思っています。

6月中旬のホンツヅキ三重はお疲れ様でした。出店されていた書店さんたちの熱意が強く伝わる空間で、買い物を楽しみつつ刺激をもらいました。先日は往復書簡の中間打ち合わせもさせていただき、6月は3回もお顔を合わせてお話しする機会を持ててよかったです。

手紙ももう結ぶべきところですが、旅の話をしようと過去のことを考えていたら、外国で訪れた本屋さんのことを思い出しました。ヴェネツィアにあった、無造作に本を叩き売っていた古書店。ロンドンにあった日本語書籍ばかり売っている書店。なかでも記憶に色濃く残っているのは、僕が一年間暮らしていたネパール・カトマンズの書店。カンティパトという大通り沿いにあった書店では、ネパール語の小説や英語の研究書をたまに買っていたのですが、レジでにっこり笑ってくれるおばさんの店主がいて、いつも自分の勉学を見守ってもらっているような気持ちでした。それから、タメルという旅行者の多い地区にある書店には日本の文庫がたくさんあって、遠藤周作の『沈黙』を買いましたね。無愛想なおじさんが店主で、読み終わった本を持っていくと元値の半額で買い取ってくれる。外国語にどっぷり浸かった暮らしの中で束の間、日本の本に触れられる貴重な場所でした。
何が言いたいかというと、どんな国でも「どんな店で本を買ったか」「誰から本を買ったか」ということは、かなり覚えているものだな、ということです。本を買うって、書店や店主の雰囲気とないまぜになった記憶なんだな、と。だから出店者の熱気を感じたホンツヅキも、皆さんの思いと共に、多くの人の記憶に刻まれたのではないかと思います。

すみません、旅の話は本当にいろいろしたくて、前のお手紙をもらってから何の話をしようかずっと考えていたのに、なんだかまとまらなくて、全然できてないですね(笑)。ネパールという国では本当にいろんなことを学びました。またいつかお話しさせてください。

焼き物がお好きな村田さん、ぜひ、また常滑へもいらしてくださいね。津と常滑を結ぶフェリー、まだ乗ったことはないですが、伊勢湾を渡るフェリーからはどんな景色が見えるのかなと気になっています。


▼著者
今枝孝之(いまえだ・たかゆき)

「SLOW WAVES」主宰・責任編集。1995年、茨城県日立市生まれ。東京での出版社勤務を経て、2022年より愛知県常滑市在住。2023年、『SLOW WAVES』issue01/02を刊行。5月にissue03を刊行。

次回、 村田さんによる第8便は、8月上旬に公開予定。
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初回アップ日:2024年7月4日(木)
責任編集:今枝孝之



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