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ロシア連邦保安庁、ボリス・ネムツォフ元第一副首相暗殺に関与か

取材・執筆:ベリングキャット調査報道チーム
翻訳:谷川真弓

  • 以前、ベリングキャットとパートナーたちは、ロシア連邦保安庁(FSB)の秘密チームが、ロシアの反政府政治家アレクセイ・ナワリヌイを、大統領選挙に向けた選挙活動中の2017年、および2020年に毒殺未遂事件に遭うまでの数カ月にわたり尾行していたことを解明した。そのチームは、ウラジーミル・カラムルザドミトリー・ビコフも、それぞれが毒殺未遂と思われる事件に遭うまでの数カ月尾行していた。

  • 旅行データによると、このチームは、後に謎めいた状況下で死亡した少なくとも3人の活動家も尾行していた。

  • われわれの調査によると、このチームはFSB犯罪捜査学研究所に所属する化学兵器専門家と、FSBの第2部、憲法擁護・テロ対策局の局員で構成されていた。憲法擁護・テロ対策局は、アメリカ財務省が「クレムリン(ロシア政府中枢)のために国内の政治的脅威に対応する」と形容する部門だ。

  • ベリングキャットは続いて、ナワリヌイ、カラムルザ、ドミトリー・ビコフに対する作戦で、FSB局員ワレリー・スハレフが主要な役割を果たしていたことも明らかにした。旅行データによると、スハレフは2017年のナワリヌイの選挙活動中に彼を尾行していた。また、カラムルザが何らかの中毒のような症状で入院する直前まで、そしてビコフがナワリヌイやカラムルザと似た症状で倒れるまでの丸1年、それぞれを尾行していた。

  • スハレフはまた、ナワリヌイ毒殺未遂事件において調整役を務めていたようだ。暗殺未遂に関与したと思われる5人のFSB局員と、のべ100回以上電話で話している。5人のなかには作戦の指揮をとったスタニスラフ・マクシャコフも含まれている。

Illustration: Natalia Vish

ベリングキャット、ロシアの調査報道メディア「インサイダー」、英BBCによる合同調査により、ロシアの野党指導者ボリス・ネムツォフは、2015年に暗殺されるまでの数カ月にわたり、後にカラムルザ、ビコフ、ナワリヌイを尾行した同じ暗殺チームのメンバーによって尾行されていたことが明らかになった。

ネムツォフは、1999年12月にウラジーミル・プーチンが大統領代行に指名されるまで、ボリス・エリツィンの後継者となるだろうと目されていた人物だ。その後の約10年間、ネムツォフは政府の悩みの種となった。彼はロシアの政治指導者層に対する国際的な制裁を呼びかけた。クリミア併合に反対し、ウクライナ東部で墜落したマレーシア航空MH17便の独立捜査を要求した。

死去するまでの数年間、ネムツォフはプーチンを批判した人々のなかで最も舌鋒鋭く、また、最も著名な人物のひとりだった。

彼は10カ月にわたりFSB第2部の局員に尾行されていた。FSB局員が尾行をやめたのは、2015年2月27日にモスクワでネムツォフが射殺される直前の出張からだった。

この事件では、チェチェン共和国の首長ラムザン・カディロフに近い同国治安部隊の元隊員ザウル・ダダエフがロシアの軍事裁判所によって殺人容疑で起訴された。ダダエフは裁判前の聴取で自白したものの、後に自白は強要されたものだったと供述を翻し、他の5人のチェチェン人と一緒にネムツォフを数カ月尾行していたのは確かだが、殺してはいないと主張した。ロシア政府の人権評議会のメンバーは、ダダエフが裁判前の勾留時に拷問されたのではないかとの考えを示した。公式な捜査でも、裁判でも、なぜネムツォフが殺されたのか、誰が暗殺を指示したのかは明らかにされなかった。

ネムツォフ暗殺の動機は今日まで謎のままだ。容疑者たちは、イスラム過激派に襲撃されたフランスの風刺週刊紙シャルリ・エブドをネムツォフが支持したため、報復として犯行に及んだのだと当初は主張した。後に容疑者たちがネムツォフを尾行しはじめたのは、ネムツォフがシャルリ・エブド紙について意見を表明する前だったことがわかり、この主張は瓦解した。

多くが不明のままだ。しかし現在、このチェチェン人グループがモスクワにやってきてネムツォフの監視を始めるずっと前から、彼は後に反政府活動家数名の毒殺未遂事件に加担したFSBの秘密チームによって何カ月も監視されていたのだと立証することができる。

尾行を担当したFSBのチームは、2014年5月から2015年2月までのあいだ、ロシア国内を移動するネムツォフについていった。その手法は、他の毒殺未遂事件の被害者たちを尾行した手法と同じだ。チームはネムツォフの到着の数時間前か前日に現地に着き、ネムツォフの出発とほぼ同時に現地を発つ。注目すべきことに、モスクワからネムツォフが地方議会議員を務めていたヤロスラヴリ州の州都ヤロスラヴリへの最後の出張には、FSB局員はついていかなかった。数日後、ネムツォフはモスクワで殺された。

これらの新発見は、ボリス・ネムツォフ暗殺にまつわる状況に新しく疑問を投げかける。有罪判決が下されたチェチェン人たちは、本当に犯人だったとすればの話だが、ロシアの保安情報機関と関係なく独自に行動したのだろうか。公式捜査の公平さについても疑問が生じる。検察側の主張の多くは、FSB犯罪捜査学研究所――ネムツォフを尾行したのと同じチームが行った、他の反政府活動家の毒殺未遂事件において協力した部署――によるDNA鑑定の結果を根拠としている。

ベリングキャットの方法論について

ベリングキャットの調査は、ロシア市民の旅行データや通話データをはじめとする公共情報を使用している。これらは、多様なデータベースから流出したデータを取引するロシアの闇市場から得ることができる。この手法はロシア語で「プロビフ」と呼ばれている。粗く訳すと「調べる」という意味だ。「プロビフ」は、調査報道ジャーナリストや、雇用者、当局者などによって、それぞれの目的はかなり異なるものの、幅広く用いられている。

この方法論は、ベリングキャットがナワリヌイ毒殺未遂事件の調査で用いた工程に沿っており、複数のデータソースとのクロスチェックにより実証されている。この手法についてさらに詳細を知りたい場合、ベリングキャットの過去の記事(英文)を参照してほしい(リンクはこちら)。

ナワリヌイを追跡したチームの存在を突き止めたら、次はチームに加わるFSB局員の古い旅行データを分析し、知られている他の毒殺計画や謎の死亡事件との一致を調べるだけだった。

Who Killed Nemtsov? New evidence on Russia’s most shocking assassination - BBC News

13件の一致

ベリングキャットが入手した旅行データによると、ネムツォフは13回の国内移動においてFSB局員ワレリー・スハレフに尾行されており、スハレフは毎回FSB工作員をもう1人同行させていた。13回のうち最初の2回であるヤロスラヴリへの出張では、スハレフは化学と暗号の専門家であるドミトリー・スヒニンを伴っていた。今回新しくFSBの工作員だと判明した人物だ。次の10回の国内移動――2014年7月5日のノヴォシビルスク州ノヴォシビルスクへの往復に始まる――でスハレフに同行していたのは、後にナワリヌイの毒殺未遂計画に関与したとして知られているFSB工作員アレクセイ・クリヴォシチェコフだ。

スハレフ、クリヴォシチェコフやスヒニンがネムツォフ暗殺に関与したという証拠はない。ネムツォフ暗殺の方法――拳銃による射殺――もまた、後にナワリヌイら活動家を狙ったときFSB所属の専門家たちがとった毒を用いる手口とは異なる。この時期の通話データはもう入手できず、FSB局員たちが暗殺の日にどこにいたのか、有罪判決を受けたチェチェン人グループと連絡をとっていたかどうかは解明できない。

しかし、FSBチームが、13回連続でネムツォフの国内移動についていった後、2015年2月17日を最後に尾行をやめたのは注目に値する。ネムツォフは2月21日から22日にかけてヤロスラヴリを訪れたが、尾行はされていなかったようだ。そのたった1週間後、ネムツォフは射殺された。

ネムツォフからカラムルザへ

後の複数の毒殺計画に関与することになるチームが、おそらくは明確な毒殺計画もなく、長い期間ネムツォフを尾行していた動機は不明だ。

FSB憲法擁護・テロ対策局の工作員3人で構成されたチームに下された指示が、単にネムツォフの尾行および監視だけだったとは信じがたい。それだけが目的なら、もっと沢山のFSB局員が交代で担当したほうがおそらくは首尾よく達成できる。長期間ずっと同じ人間が監視していると、目につきやすくなるし、ターゲットに気づかれる危険性も高くなる。

以前に判明した毒殺計画では、まずFSB憲法擁護・テロ対策局の局員がターゲットの尾行を始め、しばらくしてから犯罪捜査学研究所の化学兵器専門家が加わっていた。同じ手法をとるなら、当初の尾行チームがターゲットのモスクワ外への移動におけるルーチンを突き止め、次に化学兵器を扱う専門知識を持った同僚が参加するという順序になるだろう。ネムツォフを追跡するにあたり犯罪捜査学研究所の化学兵器専門家が一度も同行しなかったのは、ネムツォフを毒殺する意図がなかった、もしくは尾行によって突き止められたネムツォフのルーチンが毒殺に不向きだったということが考えられる。

2014年5月に行われた最初の2回の尾行において、スハレフに同行したFSB工作員ドミトリー・スヒニンが暗号とIT技術の専門家だったことには注目しておきたい。ベリングキャットがナワリヌイ毒殺未遂事件を調査していたとき、ナワリヌイの国内移動において少なくとも2回(2020年7月のカリーニングラードと、2020年8月のトムスク)防犯カメラが無効にされていたこと、そして少なくともカリーニングラードではナワリヌイの到着に先立って監視機器がホテルの室内に仕掛けられていたことを発見した。ネムツォフはヤロスラヴリでアパートメントを借りていたが、その部屋が監視されていたかどうかはわからない。

旅行データからは、FSBチームがネムツォフのモスクワ外への移動についていくのをやめた後、すぐにネムツォフの弟子格のウラジーミル・カラムルザの尾行を始めたということもわかる。カラムルザが最初に尾行されたのは2月25日、ネムツォフ暗殺の2日前だ。

ネムツォフもカラムルザも、ロシア大統領に対する率直な批判を展開した人物であり、プーチンの統治を揺るがせようとする団結した野党グループの創始メンバーだった。

2人はまた、アメリカのマグニツキー法の支持者としても著名だった。マグニツキー法は、国が人権侵害者を世界的に制裁することを可能にする法律で、もともとは内部告発者セルゲイ・マグニツキーの虐待および死亡に責任があるとみられたロシア当局者への制裁を狙ったものだ。

カラムルザは当初はFSB憲法擁護・テロ対策局の局員によって尾行された。そのうちのひとりはスハレフであり、2015年から2017年のあいだに化学兵器専門家も参加した。この時期、カラムルザは2回生命の危機に遭遇した。2回とも昏睡状態に陥り、生体機能が深刻なほど低下した。ロシア当局が2件について犯罪捜査の開始を否定したことから、カラムルザは自身の政治活動に対する報復として毒を盛られたのではないかと推測した。

ロシアの病院が出した2点の報告書と、ロシア国外における3回の検査は、カラムルザの事件はいずれも不明物質による中毒だと結論づけた。中毒がどうやって、何によってもたらされたかは謎のままであり、ベリングキャットとパートナーたちが2021年2月にこの事件を調査報道して初めて、カラムルザが犯罪捜査学研究所およびFSB第2部の局員に尾行されていた事実は広く知られるようになった。

ネムツォフの尾行

ネムツォフの行動データの一覧を見ると、彼はFSB第2部、主にスハレフによって2014年5月19日から2015年2月17日まで追跡されていたとわかる。

ネムツォフは2014年5月から2015年2月まで、スハレフ、クリヴォシチェコフ、スヒニンに尾行されていた。(訳注:写真は左からネムツォフ、スハレフ、クリヴォシチェコフ、スヒニン)

判明しているうちで最初の尾行は、ネムツォフとカラムルザが、当時の制裁リストにウラジーミル・プーチンの側近も加えるべきだとアメリカ政府に対してロビー活動を行ってから間もなくのことだ。2014年3月にリストに新しい名前がいくつか加えられ、その後2カ月を経てネムツォフの尾行が始まった。

スハレフとスヒニンによって構成されたFSBチームが、最初にネムツォフを尾行したのは2014年5月19日だ。

同日13時35分、ネムツォフはモスクワのヤロスラフスキー鉄道駅から約270キロ離れた都市ヤロスラヴリに向かった。地方議会の会議に出席する予定だった。スハレフとスヒニンは別の電車で後を追い、ネムツォフの25分後に到着した。

同じパターンの尾行が2014年秋から冬にかけて行われた。ただ、大きな違いとしては、2014年7月頭からの国内移動すべてにおいて、スハレフに同行していたのは別のFSB工作員アレクセイ・クリヴォシチェコフだったという点が挙げられる。ベリングキャットが分析した予約データによると、スハレフはネムツォフの予定をあらかじめ知っていたようだ。しばしばネムツォフの到着の数時間から数分前に現地に入っている。

これは、後にこのFSBチームが他の反政府活動家を尾行したときの手法および特性と一致している。ナワリヌイの毒殺未遂事件や、カラムルザおよびビコフの毒殺未遂と思われる件を調査した際、ベリングキャットが観察した事実と同じなのだ。

ネムツォフをFSBチームが尾行していたとデータから読み取れるこの期間、ネムツォフは一度だけ空路を利用している。2014年7月のノヴォシビルスクへの旅だ。このとき、スハレフにはやはりクリヴォシチェコフが同行していた。

ネムツォフのノヴォシビルスク行きに対して2人のFSB局員が強い関心を持っていたことは、チケット予約のタイミングからもわかる。

ネムツォフは飛行機のチケットを7月2日の0時10分ちょうどに予約している。旅行データによると、スハレフとクリヴォシチェコフはその10分後、0時20分に予約した。

2人のFSB局員はネムツォフと同じ7月4日にノヴォシビルスクに飛び、ネムツォフの数時間前に現地入りした。彼らは7月6日、ネムツォフの1時間前にノヴォシビルスクを発った。

ネムツォフがノヴォシビルスクに行ったのは、ロシアの国営巨大エネルギー企業ガスプロムの腐敗について報告を行うためだ。スハレフとクリヴォシチェコフがノヴォシビルスクに滞在した2日間にどのような活動をしたかは現段階では不明だ。

ネムツォフを尾行していたのはどんな人物か

(1)ワレリー・スハレフ、またの名をニコライ・ゴロコフ

スハレフは月並みなFSB局員ではない。彼が「ネムツォフの影」となって尾行を担当したことは、ロシアでよくある政治的な監視――ウラジーミル・プーチンも2020年にアレクセイ・ナワリヌイに対して同種の監視を行ったと認めている――だと片付けることはできない。

スハレフの旅行データとコミュニケーション・パターンを分析すると、スハレフは、ここ数年、服毒させられたり中毒症状に似た謎めいた病状で倒れたりしたロシアの反政府活動家に対する監視にかかわっていたFSB局員のなかで、最も上位であるようだ。

スハレフは2015年にウラジーミル・カラムルザを尾行している。2015年5月、カラムルザが1回目の中毒症状で倒れるたった2日前に、タタールスタン共和国首都カザンへの旅についていっているのだ。

スハレフはニコライ・ゴロコフという偽名を用いて、2017年に大統領選挙に向けて遊説を行っていたナワリヌイを追ってロシア国内の合計18都市に赴いた。スハレフは同じ偽名を用いて、2018年と2019年にドミトリー・ビコフを尾行した。ビコフは2019年4月、モスクワを離れていたときに昏睡状態に陥った。

2020年8月に起きたナワリヌイの毒殺未遂事件の前の2週間、スハレフはこの作戦に関係するFSB局員と数十回にわたり通話した。通話相手には、FSB特殊技術センターの長であるウラジーミル・ボグダノフと、犯罪捜査学研究所の副所長スタニスラフ・マクシャコフもいた。ボグダノフもマクシャコフもナワリヌイ毒殺未遂事件に関与し、アメリカおよびイギリス当局によって制裁対象となっている。

スハレフは、ここ数年、服毒させられたり中毒症状に似た謎めいた病状で倒れたりしたロシアの反政府活動家に対する監視にかかわっていたFSB局員のなかで、最も上位であるようだ。(訳注:中央上の写真はスハレフ。左側は上から順に「作戦実行」「カラムルザ:2015年の中毒事件の前に尾行される」「ナワリヌイ:2017年の選挙活動中に尾行される」「ビコフ:2019年の中毒事件の前に尾行される」。右側は上から順に「調整」「2020年のナワリヌイ毒殺未遂事件のあいだ145件の通話およびメッセージを送る」、写真は上段がマクシャコフ、下段は左からアレクサンドロフ、クドリャフツェフ、オシポフ、タヤキン)

スハレフはまた、3人の工作員と通話している。ナワリヌイを追ってノヴォシビルスクとトムスクに飛んだり、ナワリヌイに使われた神経剤ノビチョクの痕跡を消すためにオムスクに派遣されたりした、イワン・オシポフ、アレクセイ・アレクサンドロフ、コンスタンティン・クドリャフツェフだ。そして、モスクワを拠点に毒殺作戦の調整役を務めたオレグ・タヤキンとは、40回を超える通話およびメッセージを交わしている。タヤキンは、2020年12月にCNNのクラリッサ・ワード記者にナワリヌイ毒殺未遂事件について問われ、ドアを目の前で閉めたことで国際的な知名度を得た人物である。

スハレフは公的な記録にはほぼ登場しない。ベリングキャットが流出した2008年のモスクワの住民データベースを調べていて発見した、特別政府給付金を受けているという記載が唯一のオープンソースにおける情報だ。特別政府給付金は通常は叙勲を受けた特殊業務職従事者や軍人、チェチェンやジョージアでの戦争に従軍したロシアの退役軍人に与えられるものだ。

(2)アレクセイ・クリヴォシチェコフ

クリヴォシチェコフは、FSB第2部の局員として知られている人々とたびたび共に移動していることから、同じくFSB局員と思われる。彼の通話パターンから推測すると、スハレフ同様、彼は2020年のナワリヌイ毒殺計画において犯罪捜査学研究所の工作員を監督する立場にいたらしい。たとえば、ナワリヌイが毒殺未遂事件にあうノヴォシビルスクとトムスクへの旅に出る前の2週間、クリヴォシチェコフはイワン・オシポフに24回電話をかけている。ベリングキャットの調査およびFSB工作員コンスタンティン・クドリャフツェフの意図せざる自白によると、オシポフは神経毒をナワリヌイの衣服に付着させる任務を負っていた工作員のひとりだ。同じ時期にクリヴォシチェコフは、犯罪捜査学研究所の毒殺チームを監督した化学兵器専門家スタニスラフ・マクシャコフとも38回通話している。とりわけ目につくのが、2020年8月19日から20日にかけての夜、彼がマクシャコフに6回電話をかけていることだ。ナワリヌイの衣服に毒が付着させられたと考えられる夜だ。

(3)ドミトリー・スヒニン

1975年生まれのスヒニンは、今回の調査中に初めて注目すべき工作員として浮上した。SNSアドナクラースニキ(通称OK)におけるすでに削除済みの投稿アーカイヴから収集した情報によると、彼は高校卒業後、モスクワのスヴォーロフ軍事学校で学び、FSBアカデミーを卒業した。そこではアカデミー内の暗号研究所で専門知識を学んでいる。現在の彼のアドナクラースニキのプロフィール欄には、この学歴の代わりに「国立モスクワ森林大学」と記載されている。

ドミトリー・スヒニンのSNSアドナクラースニキのプロフィール欄のスクリーンショット

他の過去の旅行データや通話データがないため、スヒニンをFSB第2部もしくは犯罪捜査学研究所の所属と断定することはできない。しかし、彼が暗号の専門家であることは、彼が最初の尾行において、偵察もしくは監視装置の使用を目的として参加したことを示唆する。これはナワリヌイのような活動家に対して、機器を用いた監視が行われていたと判明したのとも整合する。

新しい情報、新しい疑問

スハレフ、クリヴォシチェコフ、スヒニンの3人がネムツォフ殺害の計画もしくは実行にかかわっていた直接の証拠はない。だが、射殺される前のネムツォフは、他の反政府活動家を狙う暗殺計画に関与したFSB工作員の少なくとも2人により尾行されていた――この系統だった手法は、新しい疑問を次々と投げかける。たとえば、ロシア当局は実はネムツォフ殺害において様々な手口を検討していたのではないか、そしてこのFSBチームはそのうちのひとつを実行するためのものであり、実行直前になって他の手口に切り替えられたのではないか。

あるいは、もしこのFSBチームがネムツォフ暗殺の計画および実行にかかわっていたなら、単にそれらしい犯人候補を用意して自分たちから疑いの目をそらすために、後に有罪判決を受けたチェチェン人グループを暗殺の数週間から数日前にネムツォフの近くに配置したのではないか? 別の論理的な疑問として、仮にFSBチームがチェチェン人グループの存在を知らなかったとしても、ネムツォフを10カ月間も勤勉に尾行するうちに、モスクワに同じターゲットを狙うグループがいると気づかないなんてことがあるだろうか。

ボリス・ネムツォフ暗殺事件の捜査に加わったFSB犯罪捜査学研究所の役割についても、別の疑問が浮上する。犯罪捜査学研究所の所員の数名は、後にナワリヌイのような反政府活動家に対する毒殺計画や隠蔽に関与している。しかし、ネムツォフ殺害の主犯として有罪になったチェチェン人ザウル・ダダエフのDNAが犯行現場に残されたものと一致すると述べる報告書にサインしたのは、現在英米の制裁リストに入っている犯罪捜査学研究所元所長、ウラジーミル・ボグダノフ将軍だ。

事件の報告書の画像

ベリングキャットが確認した裁判所の書類によると、ボリス・ネムツォフ殺害事件の法医学分析55件のうち合計45件がFSB犯罪捜査学研究所によって行われた。

つまり、反政府活動家数名に対する暗殺計画や尾行に直接関係したFSBの部門が、近年のロシアで最も重大かつ衝撃的な政治的暗殺の裁判において主要な証拠を準備していたのだ。

われわれが調査して解明した事実に対し、クレムリンの報道官ドミトリー・ペスコフは「ロシア政府とは関係なく、ロシア政府の関与もありえない。これもまた虚偽の噂だろう」とコメントした。

FSB工作員スハレフ、クリヴォシチェコフ、スヒニンに連絡を取ろうとする試みは成功せず、彼らのものとされる電話番号にかけても通じなかった。

この調査報道はベリングキャット、インサイダー、BBCによって行われた。クリスト・グロゼフがベリングキャットの首席リサーチャーを務め、ヨルダン・ツァロフとロマン・ドブロホトフも寄与した。


取材・執筆 :ベリングキャット調査報道チーム

ベリングキャット調査チームは、ベリングキャットの調査報道の核となるボランティアと専業調査員で構成されたグループであり、その実績に対し数々の賞を授与されている。

Bellingcat 2022年3月28日
Boris Nemtsov Tailed by FSB Squad Prior to 2015 Murder

翻訳:谷川真弓