東京Slowly²

2023年7月、東京を「ゆっくり(slowly)」「じっくり(slowy)」あじわい、…

東京Slowly²

2023年7月、東京を「ゆっくり(slowly)」「じっくり(slowy)」あじわい、愉しむための雑誌 「東京Slowly²」(トーキョー・スローリー・スローリー)を創刊しました。

マガジン

  • EDITOR'S NOTE

    雑誌「東京Slowly²」の編集こぼれ話的なことをまとめています。

  • Tokyo Slowly Story

    東京を「じっくり、ゆっくり」あじわい直す「東京Slowly²」からはじまる物語です。

最近の記事

銀座四丁目交差点界隈

スローリー余話 街の”なりたち”#14 東京のみならず日本を代表する”交差点”である『銀座四丁目』は、江戸時代から「尾張町四つ辻」と呼ばれ多くの人が行き交う”交差点”でした。明治維新後には日本初の西洋式煉瓦街となり文明開化を象徴する”交差点”となりました。 この『銀座四丁目交差点』には”銀座の象徴”とも言える『SEIKO HOUSE GINZA』(旧称:和光本館)があります。1932(昭和7)年、服部時計店として現在の建物が竣工以来、銀座の街を見守ってきた『SEIKO H

    • 日本橋人形町 その参

      スローリー余話 街の”なりたち”#13 1903(明治36)年に人形町通りに開通した路面電車は1969(昭和44年)に廃止されるまで水天宮の参拝客をはじめとする繁華街『人形町』へ向かう人々の大切なアクセスでした。弊誌の文芸連載『江戸東京の味 美味しいまち そぞろ歩き』(著者:山田耕之亮さん)でも紹介されているように路面電車の走っていた当時の人形町通りは東京初のアーケードのある商店街として飲食のみならずファッションのお店も多く『人形町』は下町有数の繁華街だったのです。 現在

      • 神田須田町界隈

        スローリー余話 街の”なりたち”#12 江戸時代には徳川将軍が上野寛永寺に参拝する御成道が近く、さらに明治時代には新宿から延伸した中央線が開通し「万世橋駅」もあった『神田須田町』は、1971(昭和46)まで都電「須田町駅」もありかつては交通の要所だったのです。現在はさいたま市にある「鉄道博物館」も2006(平成18)年まで「交通博物館」としてこの街にありました。 さらに奇跡的に東京大空襲の戦災を免れた街として有名で、弊誌(2023年7月発売『東京Slowly² vol.1

        • 銀座 その参(ガス灯通り)

          スローリー余話 街の”なりたち”#11 明治の文明開化を象徴する”街”として、日本で初めて西洋式の煉瓦街やガス灯が誕生した『銀座』。関東大震災や東京大空襲などの災禍を乗り越え、受け継がれた「美味しい理由」がこの街にはたくさんあります。 銀座三丁目「ガス灯通り」にある『煉瓦亭』の『元祖ポークカツレツ』は、創業者の木田元次郎氏がごはんにあうおかずに慣れ親しんでいる日本人向けにフランス料理の焼き上げ式「仔牛のコートレット」を”豚肉を使ったカツレツ”へと進化させ誕生した日本式の西

        銀座四丁目交差点界隈

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        • EDITOR'S NOTE
          18本
        • Tokyo Slowly Story
          14本

        記事

          日本橋蛎殻町 その弐

          スローリー余話 街の”なりたち”#10 江戸初期の古地図に「かきがら」と表記されていたこのあたりは大名の屋敷や蔵が立ち並んでいましたが明治維新の廃藩置県によって大きく変化します。この地にあった久留米藩主有馬家のお屋敷に安産の神様として知られる「水天宮」が移築され周辺は多くの参拝客で賑わう門前町に。さらに豪商・三井氏によって1872(明治5)年に鎧橋が架橋され日本橋方面からの交通が至便となったことから米穀の商品取引所や油問屋市場などが開設されたのです。 以降、東京穀物商品取

          日本橋蛎殻町 その弐

          水天宮前交差点界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#9 戦後、日本橋区と京橋区が合併して中央区になりましたが『日本橋区』だった時代に「日本橋区役所」(現在の日本橋区民センター)があったのは『日本橋蛎殻町』でした。 つまり『日本橋区』の行政の中心。そして昭和のはじめに「人形町」という行政上の地名が誕生する以前は「水天宮」の門前町で賑わった地域の多くは「蛎殻町」や「松島町」という住所でした。現在はタワーマンションも建ち、平日の夕方には帰宅する小学生を多く見かける水天宮前交差点ですが、昭和のはじ

          水天宮前交差点界隈

          日本橋人形町 その弐

          スローリー余話 街のなりたち#8 昭和のはじめに「人形町」という町名が誕生する以前は「元大阪町」や「堺町」。そして1965(昭和40)年までは「浪花町」など大阪との繋がりを思わせる町名もありました。中央区の佃島は徳川家康が大阪の佃村の漁師たちを江戸に招き彼らが住んだことから佃島と呼ばれたことが有名ですが、人形浄瑠璃などの芝居小屋があったこのあたりには近松門左衛門などを輩出し浄瑠璃文化の盛んだった大阪のひとたちが多く移住したのではないかと推測されます。 人形浄瑠璃をはじめ「

          日本橋人形町 その弐

          銀座 その弐(旧木挽町)

          スローリー余話 街の”なりたち”#7 現在の銀座一丁目から八丁目の住居表示になったのは昭和の東京五輪後にあった町名変更によるものです。関東大震災以前は「木挽町」だった「銀座東」(歌舞伎座や新橋演舞場のあるあたり)と「元数寄屋町」(東急PLAZAあたり)や「山下町」「山城町」(銀座コリドー街あたり)などの「銀座西」が1965(昭和40)年に統合され現在の表記になりました。当時は”大銀座の誕生”と言われ1968(昭和43)年には「明治百年」を記念して「大銀座まつり」もはじまり1

          銀座 その弐(旧木挽町)

          日本橋蛎殻町 その壱

          スローリー余話 街の”なりたち”#6 「情け有馬の水天宮」と地口で称えられた久留米藩有馬家の上屋敷。庶民の思いを大切にした有馬のお殿様は1872(明治5)年に日本橋蛎殻町の現在地に引越した後も地域の賑わいに大いに貢献されました。そして令和の今でも『水天宮』には戌の日をはじめ季節ごとの行事に多くのひとびとが集います。 『水天宮』の社は久留米筑後川の流域に本宮は鎮座し、その御霊を江戸に勧請したことに始まります。元来、筑後川流域に位置していたことから、水との縁、御祭神・天御中主

          日本橋蛎殻町 その壱

          銀座 その壱(旧出雲町)

          スローリー余話 街の”なりたち”#5 江戸時代初期に幕府の銀貨鋳造所の役場が置かれたのが現在の銀座二丁目あたり。「新両替町」という町名でしたが通称として「銀座」と呼ばれていました。明治維新によって「銀座」が正式名称となり銀座一丁目・二丁目・三丁目・四丁目が誕生。晴海通りから西側の銀座五丁目~八丁目が関東大震災後の区画整理によって誕生しましたが、それ以前は「尾張町」や「竹川町」「出雲町」という住所でした。 明治時代「出雲町」と呼ばれた場所に1902(明治35)年に開業したの

          銀座 その壱(旧出雲町)

          甘酒横丁

          スローリー余話 街の”なりたち”#4 ご存知の方も多いと思いますが『甘酒横丁』は呼称で、このあたりの住居表示は「日本橋人形町2丁目」。それ以前、関東大震災後の区画整理までは「松島町」という住所だったようです。 『甘酒横丁』は写真にもある通り、明治の初め頃、この横丁の入り口に「尾張屋」という甘酒屋があったことから「甘酒屋横丁」と呼ばれたことに由来しています。そんな横丁に相応しい甘味『わらび餅』が名物の和菓子店『彦九郎』。こちらには大切なひとへの手土産にしたい逸品があります。

          日本橋富沢町

          スローリー余話 街の”なりたち”#3 江戸のはじめ、当時「江戸の三甚内」のひとりと言われた盗賊・鳶沢陣内が徳川家康から江戸市中の盗賊探索の命を受けて自分の手下に「古着買い」をさせながら盗賊の情報を集めていた拠点があったことが富沢町の名前の由来(鳶沢から富沢に)と言われています。当時は買い集めた古着の売買が行われ「富沢の古着市」として有名だったようです。 江戸末期には木綿問屋(太物問屋)や呉服問屋で賑わい大正から昭和にかけては”織物繊維問屋の街”として発展しました。現在、日

          日本橋富沢町

          日本橋人形町 その壱(旧芳町)

          スローリー余話 街の”なりたち”#2 『人形町』という名称は江戸初期から人形浄瑠璃の小屋やその関係者が多くいたことからこの周辺の俗称であったと言われています。関東大震災後の区画整理による町名変更により『人形町』という名称が住居表示として昭和の初めに誕生します。現在の『日本橋人形町』一丁目・二丁目・三丁目になったのは1965(昭和40)年以降、何回かの住居表示変更があり現在に至っています。それ以前には「日本橋浪花町」や「日本橋芳町」という”街”があり「芳町芸者」の花街として賑

          日本橋人形町 その壱(旧芳町)

          東京都中央区

          スローリー余話 街の”なりたち”#1 これまで取材した「街の”なりたち”」について「スローリー余話」として綴ります。東京の下町は関東大震災後の区画整理や郵便配達を容易にするための法律(1962年)によって、江戸や明治の時代から続いた由緒ある、そして風情ある”街”の名前が消えました。例えば銀座の木挽町や日本橋人形町の芳町などの住所表記はなくなってしまったのです。しかしそんな歴史ある街には当時から続く美味しいものや伝統技術が今も健在です。 弊誌では2023年10月発売号「銀座

          東京都中央区

          隅田川と永代橋

          スローリー余話 川と橋と美味しいもの#30 吾妻橋や両国橋、新大橋などとともに明暦の大火以降に隅田川に架橋された『永代橋』。元禄時代の将軍・綱吉公の50歳の誕生を祝して架橋されたとも言われています。その後享保年間・吉宗公の時代には大破し幕府は廃止を決定しましたが町人など民間によって再建され一部では橋銭という通行料を徴収した時代もあったそうです。江戸時代からの商業のまち「日本橋」と多くの信仰を集めた「富岡八幡宮」を繋いできた『永代橋』は人々にとって特別な意味を持つ橋ではなかっ

          隅田川と永代橋

          日本橋川と日本橋 その伍

          スローリー余話 川と橋と美味しいもの#29 2000年以降、日本橋で大規模に進んでいる再開発。南詰(京橋寄り)の日本橋交差点界隈では東急百貨店(もっと昔は白木屋)のあった場所に完成したCOREDO日本橋(2004年)をはじめ日本橋交差点の住友不動産の東京日本橋タワー(2015年)や日本橋髙島屋三井ビル(2018年)が誕生。現在では三井不動産と野村不動産による「日本橋一丁目中地区第一種市街地再開発事業」が進んでいます。また北詰(神田寄り)の中央通りではCOREDO室町1(20

          日本橋川と日本橋 その伍