東京Slowly²

2023年7月、東京を「ゆっくり(slowly)」「じっくり(slowy)」あじわい、…

東京Slowly²

2023年7月、東京を「ゆっくり(slowly)」「じっくり(slowy)」あじわい、愉しむための雑誌 「東京Slowly²」(トーキョー・スローリー・スローリー)を創刊しました。

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  • EDITOR'S NOTE

    雑誌「東京Slowly²」の編集こぼれ話的なことをまとめています。

  • Tokyo Slowly Story

    東京を「じっくり、ゆっくり」あじわい直す「東京Slowly²」からはじまる物語です。

最近の記事

日本橋本町 昭和通り界隈

スローリー余話 街の”なりたち”#37 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は東京の街を大きく変えました。特に日本橋は魚河岸が築地に移転するなどの大きな影響を受けました。街の区割りや町名の変更も行われ、それまで常盤橋の日銀あたりから江戸通りに沿ってあった本町1~4丁目は1932(昭和7)年の区画整理により、それまで「伊勢町」や「瀬戸物町」などと呼ばれていた「西堀留川」に面したあたりは本町1~2丁目になりました。何より震災復興計画により「西堀留川」は埋立られ現在

    • 美味しいものと”あきない噺”#1

      スローリー余話 いつ食べても”飽きない(あきない)美味しいもの”には長く続く”商い(あきない)の心得”があります。弊誌で取材したご主人や女将さんから伺った”あきない噺”を紹介します。 日本橋室町二丁目。2020年に「むろまち小路」から現在地に移転した創業1889(明治22)年の『蛇の市本店』。五代目のご主人が”伝承の美味しさ”を受け継ぐには「変えずに変える」ことが大事だと語っています。お米や魚、醤油や酢など鮨の食材や調味料は時代とともに大きく変わっています。言わば事業環境

      • 日本橋 むろまち小路界隈

        スローリー余話 街の”なりたち”#36 日本橋の中央通り、日本橋三越本店の向かい側(日本橋室町1丁目)から昭和通り(日本橋本町1丁目)までの通称『むろまち小路』。日本橋に魚河岸があった明治44年の古地図をみると、このあたりは「本小田原町」と記されています。関東大震災後の復興都市計画により魚河岸が築地に移転するとともに大規模な区割りと町名変更が行われ現在の住所表記になりました。現在計画されている「日本橋室町一丁目地区再開発事業」によると『むろまち小路』の中央通り側は近い将来、

        • 日本橋本町 時の鐘通り界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#35 江戸のまちに時刻を知らせるために約2時間おきに撞かれていた『時の鐘』。二代将軍・徳川秀忠の時代に当時の本石町三丁目(現在の日本橋本町4丁目・日本橋室町4丁目あたり)に『時の鐘』が創設されました。 その後、江戸府内の拡張により隅田川を渡った本所横堀(現在の墨田区)や上野寛永寺や芝増上寺、浅草寺などの寺社14箇所で時を知らせる鐘が撞かれていたそうです。なかでも本石町の鐘は「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳に詠まれるなど江戸の時刻を

        日本橋本町 昭和通り界隈

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        • EDITOR'S NOTE
          18本
        • Tokyo Slowly Story
          14本

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          日本橋二丁目 髙島屋界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#34 日本橋髙島屋がある日本橋の南側(日本橋一丁目~三丁目)は徳川家康が江戸の城下町開発当初から全国の商人や職人が集まる街でした。現在の中央通りに面するあたりは江戸期から「通二丁目」「通三丁目」と呼ばれており1947(昭和22)年の中央区誕生とともに「日本橋通」になりましたが1965(昭和40)年の住居表示変更で「日本橋」になるまで「通」の名は続きました。2009(平成21)年に百貨店建築では初となる国の重要文化財指定を受けた日本橋髙島屋の

          日本橋二丁目 髙島屋界隈

          港区 新橋赤レンガ通り界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#33 新橋2丁目の外堀通りから新橋6丁目の芝方面へ約1キロ続く『新橋赤レンガ通り』。江戸期にはこのあたりから愛宕山にかけて武家屋敷が並んでいました。その後、明治初期の大火により政府が推進した防火に優れた赤レンガ造りの『清隆館』という勧工場が出来たことが名前の由来といわれ当時は洋家具の問屋が軒を並べていたそうです。そして世紀を超え平成の時代に『新橋赤レンガ通り』の新橋四丁目辺りは大きくかわります。 関東大震災後の帝都復興計画にあった「東京都

          港区 新橋赤レンガ通り界隈

          港区 三田界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#32 港区の『三田』の地名由来は諸説あり「伊勢神宮の神田(みた)」や「朝廷の御田(みた)」などではないかと言われています。江戸時代には武家屋敷や寺社の街でしたが1871(明治4)年に「慶應義塾」がこの地に移転しました。福沢諭吉先生が築地鉄砲洲にあった豊後中州藩の中屋敷内に1858(安政5)年に蘭学塾を開き、慶応年間に新銭座(現在の浜松町一丁目)に移転(同地には攻玉社が移る)その後に島原藩中屋敷だった現在地となります。同窓会の名称が「三田会」

          港区 三田界隈

          港区 赤坂通り界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#31 港区赤坂は一丁目から九丁目まで非常に広いエリアに渡ります。一丁目は虎ノ門と接するアメリカ大使館やANAインターコンチネンタルホテルのあるあたり、一ツ木通りなどの飲食店が集まる三丁目界隈。そしてTBS放送センターがあるのが五丁目で和菓子の虎屋赤坂店があるのが四丁目。乃木神社は八丁目で六本木の東京ミッドタウンは実は赤坂九丁目といったぐあいです。この住所表記は1960年代半ばに全国的に行われた改訂によるもので、戦前の1937(昭和12)年の

          港区 赤坂通り界隈

          港区 虎ノ門界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#30 交差点にある「虎の像」は「虎ノ門」という住所表示になった後に記念碑として建てられました。もちろん江戸時代にこのあたりに「虎の御門」があったことに由来します。この街も「虎ノ門ヒルズ」のステーションタワーが2023年にオープンしさらに外堀通りに面した「虎ノ門一丁目東地区」の再開発もはじまり、かつて財務省や文科省など霞が関の官庁に出前をしていた蕎麦屋や町中華があった街の姿は大きく変わっています。2023年7月には日比谷線虎ノ門ヒルズ駅の運用

          港区 虎ノ門界隈

          港区 芝神明商店街界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#29 東京都の「港区」は「旧芝区」「旧麻布区」「旧赤坂区」が1947(昭和22)年に合併し誕生しました。その際には「愛宕区」や「青山区」「青葉区」「飯倉区」「三田区」などの候補があったようです。「旧芝区」エリアは今も汐留エリアや埋立られたお台場など「海の港」のイメージがありますが坂の多い「旧麻布区」「旧赤坂区」エリアでは「”港”ってどうよ?」という議論もあったように推測されます。 その「港区」の区役所にほど近い『芝神明商店街』は「関東のお

          港区 芝神明商店街界隈

          浅草 オレンジ通り(旧区役所通り)界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#28 以前、東京都中央区は「日本橋」と「京橋区」が合併して誕生したと本稿でとりあげましたが、東京都台東区も1947(昭和22)年に上野を中心とする「下谷区」と浅草を中心とする「浅草区」が合併して誕生しました。かつて浅草区役所のあった場所は現在「浅草公会堂」になっています。 そして「浅草公会堂」前は路面がオレンジ色に舗装された「オレンジ通り」なっていますが「浅草区」だった時代、ここは「区役所通り」と呼ばれていました。 そして「区役所通り」

          浅草 オレンジ通り(旧区役所通り)界隈

          浅草三丁目 奥浅草界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#27 奥浅草エリアと呼ばれる浅草三丁目の言問通りからかつて遊郭のあった吉原(現在の千束四丁目界隈)までアーケードが1200メートル続く「千束通り商店街」。「千束」という地名はこのあたりが「浅草田圃」と呼ばれる豊かな田園地帯で「稲千束」に由来すると言われています。かつては遊郭・新吉原への通い道だった『千束通り』には鶏肉専門店や酒店、生花店や自転車店など地元に密着した商店をはじめ”町中華”や”うなぎ”などの飲食店が100軒あまり軒をならべ「奥浅

          浅草三丁目 奥浅草界隈

          浅草 伝法院通界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#26 浅草寺の本院「伝法院」は国の名勝に指定されている庭園や重要文化財に指定されている客殿や書院がありますが一般公開はされておらず不定期に公開されています。面する『伝法院通』は「仲見世」と交わる商店街。和装小物や伝統工芸品など観光客に人気の土産物店が並ぶなか、連日11時の開店から客の絶えない、あの独特の色合いと美味しさの『天丼』の名店があります。(以下、2023年7月発売『東京Slowly² vol.1』より) “この一杯を食べたい“ 世

          浅草 伝法院通界隈

          台東区 根岸界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#25 東叡山寛永寺のある上野の山の麓に位置する根岸は”春の鶯”や”夏の蛍”に象徴される四季を愉しむ場所として多くの文人墨客に愛され、初代・歌川広重によって描かれた江戸の名所ガイド本「絵本江戸土産 五編」にも「根岸の里」として紹介されています。1967(昭和42)年に台東区が刊行した「下谷・浅草町名由来考」には”上野台の崖下の地で根の岸”であったことが地名の由来と記され古くから自然の水と緑に恵まれた土地であったことが類推できます。今も寺院が多

          台東区 根岸界隈

          隅田川と言問橋

          スローリー余話 川と橋と美味しいもの#31 約1ヶ月ぶりの「川と橋と美味しいもの」です。 関東大震災の復興事業として1928(昭和3)年に竣工した『言問橋』。その名前の由来は平安時代の歌人・在原業平が詠んだ歌に因んだと言われているなど諸説ありますが、明治のはじめに現在の墨田区向島で開業していた『言問団子』が人気であったことから、この界隈を俗称として「言問ケ岡」と呼ばれていたという説もあるそうです。『言問橋』の向島側の「牛嶋神社」には、自分の身体の悪い部分と同じ箇所を撫でると

          隅田川と言問橋

          ”銀座の西”界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#24 外堀通り(通称:電通通り)に面したあたり”銀座の西”界隈は、関東大震災後の区画整理により江戸期からの町名「西紺屋町」「元数寄屋町」「南鍋町」などが「銀座西〇丁目」という町名に変更。その後その町名は1965(昭和40)年以降の住居表示変更まで続きます。1952(昭和27)年開始したNHKのラジオドラマ「君の名は」の舞台にもなった「数寄屋橋」が外堀川の埋立にともない1957(昭和32)年に撤去される頃は「銀座西」という町名だったのです。ま

          ”銀座の西”界隈