ハンニバル・レクター博士に関する考察

序文という名の言い訳

 まず最初にお断りしておきたいのは、私がハンニバル・レクターという人を知ったのはほんとにここ数ヶ月、GyaOにて無料で一話ごとに配信されてるドラマ版「ハンニバル」の吹替版をジークフリートさん、いや違った井上マッツレクターにつられて見始めてから毎週の楽しみにするようになってのことで、ハンニバル・レクターファンとしてはニワカの中のニワカ、例えるならば狐の嫁入りならぬ狐の地味婚レベルの雨しか降らないくらいのニワカである、ということである。大変申し訳ないけどマッツレクターしか知らないんだ…ブライアンレクターはおろかギャスパーレクターもアンソニーレクターも知らないんだ…ていうかアンソニー・ホプキンスってオーディンお父様もやってたのかよ、とういうことすら今調べてて初めて知った。
 もう、あの、ほんと、そういうレベルのニワカなんです。そもそもの話三次元の人の顔と名前がなかなか一致しなくて、好きなはずの俳優の名前を覚えるのすら毎回苦労しているので実写映画やドラマになかなか手が出せない。そういうレベルのニワカがドラマ版「ハンニバル」のシーズン1だけ見て思ったことを延々と話したくなってこのエントリに至るんです。思い込みとか一足飛びなこととか多分かなり言うし、少なく見積もっても八割が妄想だと思う。
 この時点で「イヤ!無理!耐えられない!マッツ以外の役者を見てもない奴にハンニバル・レクターを語られたくない!」「バカヤロウコノヤロウふざけんなコノヤロウ、トマス・ハリス全作読んでからそういう話をしろバカヤロウ」と思われましたらそっとこのタブを消してください…。
 いい?いいの?もう始めるよ?はじめていいのかい?

ホッブズ父娘とハンニバル・レクター

 ハンニバル・レクターの行動には、時々動機がよくわからないものがある。父ホッブズに「FBIがきみのところに来る」と電話をかけた理由をアビゲイルから訊かれた時には「これからどうなるか興味があったから」と答え、アビゲイルがニコラスを刺殺してしまった時も「遺体を隠すのを手伝おう」と言い「共犯者」になる。まともな大人なら「ニコラスが取り乱して飛びかかってきた」と言うアビゲイルに「それなら正当防衛になる。きみは未成年だし、名前を変えて引っ越してやり直すチャンスはある」くらいは言うようなものだろう。死体を隠せばバレた時さらに厄介になって、いよいよアビゲイルが更生するチャンスがなくなることくらいレクター博士にわからないはずはない。つまりこの「共犯」は、アビゲイルと「秘密」を共有することで自分のサイドに引っ張って信頼させるためだったと考えられる。
 しかし、しかしだ。ホッブズにしてもアビゲイルにしても、レクター博士にとってわざわざリスクを引き受けてまで助けてやって仲間に引き込むメリットのある存在ではない。彼も彼女も社会的に高い地位や強い権力を持っているわけではないし、罪を犯して放っておいたらすぐバレるようなレベルの犯罪者なわけで、毎回まあ鮮やかに逃げ延びるレクター博士から見たら二人ともズブの素人だ。スペックだけを見ると、距離をとった付き合いで「道具」にするならまだしも「仲間」にしたらレクター博士にとって足手まといにすらなりかねない。なのになぜホッブズに「警告」をし、アビゲイルの「共犯」となったのだろう。
 ホッブズは娘によく似た少女たちを殺しては食べ、もしかすればだが家族にも食べさせていた。レクター博士にしてみれば滅多に遭遇することはなかったであろう「二人はタベトモ(=人を食べる友達)」となりうる可能性がある人で、故に「ここで捕まって(=終って)しまうのは惜しい」と考えたからこそ「これからどうなるか興味があった」ために警告の電話をしたのではないだろうか。
 しかしホッブズはレクター博士ほどの知能や大胆さは持ち合わせていなかった。精神的に追い詰められたホッブズは娘アビゲイルを殺そうとして、ウィルに撃ち殺される。そうして一命をとりとめたアビゲイルは、父が今までやってきたことの全容を察して「自分が父の言いなりに囮をしていたせいでたくさんの少女たちが死んだ」という事実と「自分が今まで食べさせられていたのは人間の肉だったのではないか」という可能性に苦しみ、ニコラスに掴みかかられた時には咄嗟に刺し殺してしまう。
「ついに(父に巻き込まれてではなく)自分が人を殺してしまった」という事実に恐怖し混乱するアビゲイルにレクター博士は接近し、「罪に問われないよう」遺体を隠す手伝いをした。これによってアビゲイルはレクター博士に心を開いて頼りにするようになり、病院を抜け出してレクター博士と話したり、レクター博士から手料理やシロシビン入りの紅茶を振る舞われたりと、どんどん「秘密」が増える。
 レクター博士がアビゲイルにしてきたこれらの行動は、アビゲイルの精神的な回復を手助けするというよりも「アビゲイルが自分だけを信頼するように囲い込む」行動のように見える。なぜレクター博士はアビゲイルを囲い込もうとしたのか?
 タベトモ候補だったホッブズは死に、ホッブズの娘アビゲイルは父によって知らないうちに人肉を食べさせられ、弾みとは言え既に人も殺している。レクター博士にとってアビゲイルは、死んだホッブズに代わる第2のタベトモ候補だったのではないだろうか?

ハンニバル・レクターはなぜ人肉を食べるのか?

 ハンニバル・レクターは人肉を食べる。食べるんだけど、その時対象の年齢や性別に一貫性がない。7話で次々出てきた名刺には老若男女の区別がないし、大体みんな弁護士だったり医者だったりと社会的地位が高めの人ばかりだ。おそらく「かねてから『邪魔だからそのうち始末したい』と思っていた人のリスト」があの名刺の束だったと考えられる。名刺をもらってるってことは面識があるってことだし。ここから考えると、ホッブズの模倣犯として少女を殺害して肺を奪った時も「少女の肉が美味しそうだったから」ではなく「今こういうターゲットをこのテリトリーで狩れば連続殺人犯に罪を着せて安全に食べられそうだ」と思ったからではないか。仮にそうだとすると、ハンニバル・レクターが人肉を食べるのはグルメのためではない、ということになる。
 年齢・人種・性別・体格・体重・生活スタイルなどによって筋肉と脂肪の比率や筋肉の性質や臓器の状態は大きく変わってくる。つまり「食材としての魅力」を人肉に感じているのならば、「この状態の肉が最もおいしい」という法則性や好みがでてくるだろうから、それこそターゲットの属性はホッブズ同様固定されてくるはずだ。
 ところがハンニバル・レクターの殺しと食人にはそれがない。どちらかと言えば「邪魔だから殺して除外する」方が優先で、食べる方がオマケのようだ。だからこそホッブズのように「食べなければただの殺しであり侮辱にしかならない」という信念のもとに食べたり食べさせたりはせず、ほしい臓器だけをとって残りは適当に晒し者にしたりする。このやり方を見てウィルは「今までの犯人(ホッブズ)とは違い、死者に対する敬意がない」「犯人にとって人間は牛や豚と同じ」と読み取ったのだろう。
 ハンニバルの殺しには「相手を自分と対等だと思えない・思いたくない」という侮蔑の感情がある。それが「牛や豚と同じ、言葉の通じない生き物」という感覚になるから「食肉」として扱うようになる。ハンニバル・レクターにとっての「人肉食」は「食道楽」ではないし、敬意や同一化願望でもない、「こいつは人間未満の家畜だ」という侮蔑の意志の表現なのだろう。
 ハンニバル・レクターが相手を殺して食べようと思うに至る理由が、相手に対する侮蔑にある、というところからもうちょっと掘り下げてみたい。
「相手を自分と対等だと思えない・思いたくない」時何を考えるかというと、まず「共感できない」というのが最初に来るだろう。相手の価値観や考え、言動が理解できない。その上でその価値観や考え、言動が自分から見て「とても上等に思えない、野卑で下等で野蛮である」と思った時に「そんな人物が『まっとうな人間』として振る舞っている」のを見たら怒りを覚えるのではないだろうか。「こんなに野卑で下等で野蛮な者が『人間』として扱われているなんて、自分と同族だなんて屈辱的だ」という怒りであり、同時に「野卑で下等で野蛮な者を『人間』として許容する周囲の鈍感さ」に対する怒りであり、「許容できる周囲」に馴染めない疎外感と孤独感があるのではないだろうか。
「切り裂き魔」としてのむごたらしい殺し方は怒りの発露であり、食人(=『下等』とみなした人間を食肉とする行為)は野卑で下等で野蛮な本人とそれを許容する周囲の鈍感さへの復讐だったのではないだろうか。

ハンニバル・レクターの孤独感

「周囲に馴染めない」というのは同時に「自分はみんなと同じ『人間』になれない」という孤独感でもある。
「人間とは何であるか」という定義を、外科医として他人の体を観察・分析して手術することで確認し続けるも「医学的定義としての『人間』」を理解するだけでは、彼の孤独感は癒やされなかったのではないか。「他の人間の体の仕組みがいくらわかったって、自分も同じ『人間』であることの証明にはならない」というところに至り、故にウィルの家で釣り針を指に刺して出てくる自分の血を眺めたりしていたのではないだろうか。今まで殺してきた「人間」と同じ赤い血が自分にも流れている、自分は「化け物」ではなく「人間」だ、ということの確認として。
 外科的アプローチによる「人間」の定義の把握では孤独感が癒えなかったので、精神医学的なアプローチを取ることにした、という可能性がレクター博士にはあるのかもしれない。
 カウンセラーにかかる患者の多くは「孤独感」に打ちひしがれて来る。どうしてわかってもらえないのか、こんなに苦しいのは自分だけなのか、この苦しみを誰かに理解してほしい、という動機で専門家に話を聞いてもらいに来るのだ。第8話のフランクリンは極端な例だけど、彼がレクター博士に語ったことが一番わかりやすい、典型的な訴えのような気がする。誰かにわかってほしい、親しみを持って接してほしい、自分の胸の内を聞いてほしい、あなたと友だちになりたい・あなたになりたい(=自分を否定しないという安心感がほしい)、というのは「誰にもわかってもらえていない」という孤独感から発生する望みだ。
 勿論ハンニバル・レクターはカウンセラーの資格を持つくらいだから心理学にも精通している。そこで「人が人を完璧に理解しうることはない」ということは嫌というほど叩き込まれているし、患者が来たら「人それぞれでいいんだから、わかってもらえなくても否定されてもあなたが悪いわけじゃないし、勿論他の人たちが悪いわけでもない」ということを辛抱強く伝えるのが仕事の一つであると考えているだろう。だからこそフランクリンの訴えに対して「きみは私に執着しすぎて、治療の妨げになっている」と言い、他の医者を紹介しようとする。
 しかしフランクリンの「あなたと友だちになりたい」「あなたになりたい」という訴えや、トバイアスの「あなたとは友だちになれるかと思ったのに」という言葉は、長らくレクター博士の内にうずくまっていた「誰かにわかってほしい」「自分も一人でないと思いたい」という隠れた欲求を自覚させる呼び水になったのではないだろうか。
 誰かにわかってほしい、友だちになりたい。でもその相手はフランクリンのような依存症患者ではいけない、しかしトバイアスのような劇場型連続殺人犯でもない、唯一タベトモになれそうだったかもしれないホッブズはもう死んでいるし、アビゲイルは正当防衛でニコラスを殺しただけで憔悴している。じゃあ誰か?

「そうだ、ウィルがいるじゃないか」

 ウィル・グレアムには特殊な能力がある。現場を観察することで犯人の思考や心理をトレースする、本能レベルのプロファイリング能力。ウィルなら私の思考をトレースできる、わかってくれる。私が何に怒り、何を嘆き、何を求めているのかわかってくれる。ウィルなら友達になれる、ウィルと友達になりたい。
 これに気づいた時のハンニバル・レクターの歓喜を思うとそりゃあ…8話でウィルに向けたあの人懐っこい笑顔にもなるだろうと思う。そうだろうな、幸せだろうな、嬉しいだろう。わかってくれる人が、わかってくれそうな人が身近にいる。ずっと誰にもわかってもらえなくて寂しかったけど、これからはもうそうじゃないんだ、自分は一人じゃないんだ。そう思ったらそりゃ表情も明るくなる。
 ここまで書いててふとこれによく似たパターンを見たことがある気がした。『日出処の天子』の厩戸皇子だ。彼もまた特異な能力を持つことで孤立していたところに、自分を信じて支え、しかも時には同じような能力を発現させることができる毛人に出会って「彼とひとつになりたい」と願うようになる。ウィルと毛人だと性格のベクトルがほぼ真逆なんだけど、孤立している本人(レクター博士/厩戸皇子)にとっては唯一の理解者たり得そうな相手なんだよなあ。

サポートをいただけると、私が貯金通帳の残高を気にする回数がとっても減ります。あと夕飯のおかずがたぶん増えます。