レッド・ホット・ポーカー Red Hot Poker No.3
「出ないですね」
イチカが警戒しながらインターフォンを押す。雑居ビルの最上階。外から見ると住居のようだが人の気配がない。前回の遠くからでもわかる禍々しさなど皆無だ。
「空き家みたいに静かだけどいる」
「不法侵入しますか」
「ん?」
イチカはスマートフォンを開き、DMに記されていた電話番号を打っている。対象の案内に従って。黙って横目でシオンを見る。今日は赤いフレームの眼鏡だ。この眼鏡をかけているときのイチカはなぜか獣か小さな神のようだった。
「今回はね」
シオンがドアノブに手をかける。鍵のかかっていないドアをなるべく音を立てずに開けた。
カーテンのすきまから射し込む西日が灯りを消した部屋を照らしている。仕切りのないホテルのような造りだ。奥のベッドで誰か寝ている。
それは長い黒髪の女だった。
「押しますよ?」
「うん」
今回は実体を攻撃できない。二人の予想通り、実体の女が夢の世界にいたからだ。女を攻撃すれば、眠っている七人も、女自身も、永遠に目覚めなくなるだろう。イチカは通話ボタンを押した。
次の瞬間シオンとイチカは上下左右もわからない空間に浮いていた。
遠くに規則正しく列になり、男五人、女二人が胸に手を置いて眠っているのが見える。死角に気配を感じた。二人同時に空中で身体の向きを変えると女がいた。女はまだ二十歳くらいか。
シオンは女に向かって言う。
「夢使い本人が入室するなんて珍しいね。キミが俺たちを呼んだんだろ?」
女は眉間に皺を寄せ、素早くこちらへ手を翳した。
シオンのわき腹が吹き飛んだ。やや遅れてシオンも手を翳す。
女の左腕が飛ぶ。
女が手を払うようにするとシオンとイチカの両足が落ちた。それは空間の遠くへと流されて、やがて見えなくなった。
一旦撤退する、そう判断してイチカは自分のこめかみに指を当て電流を流す。
シオンは尻もちをつく格好で、イチカはうつ伏せの状態で目覚めた。
時間にしてわずか数秒でも疲労は大きかった。二人は荒く息をして顔を見合わせる。何も知らないかのような顔で眠る女を見てイチカは言う。
「シオンさん、攻撃は少しでも先延ばししてください。彼女が自分から目覚めないと、たぶん同じことを繰り返すと思うので」
イチカはあらためて先ほどの番号にかける。
今度は森の中だ。お伽の国のような深い森。
ふいに木の影から女が現われた。先ほどの怒りの表情から一変して、優しげで憂いのある笑みを湛えて。
「わたしは自分の夢に憑かれているの」
女は細く力強い声でそう言って、森の奥を指差した。
「向こうにみずうみがある。あそこに浸ると、すごく心地よくて、このまま消えてしまいたいって思うの」
それは夢の淵だ。
「名前を、教えてもらっていい?」
イチカが尋ねる。
「キョウカ」
目の前を数頭の牛を乗せた荷馬車が横切る。馭者は目深に帽子を被っているので顔はうかがえない。
「ありがとう。キョウカさん、そのみずうみで眠ってしまうと、もう目覚めなくなって」
「わかってる」
キョウカは白いワンピースを着ていた。樹々のあいだから射し込む光が薄い布地を透かしている。
「寂しかったの。ほんとはわたし一人で消えるつもりだった。でもね、誰かに見届けてほしかったんだ。人を殺した人間なら、戻れなくさせても罪の意識が薄れると思ったから」
するとキョウカの前から地面が割れ始めた。奈落は猛スピードでこちらへ向かってる。
シオンは一瞬、キョウカが声を出して笑った気がした。
ひび割れに飲み込まれる寸前、大きな風船の束が目に飛び込んできた。二人が咄嗟に紐を掴むと、そのまま空高く上昇していく。
「会えてうれしかったよ。そのままお星さまになって」
キョウカは銀色に輝く風船を見上げつぶやく。
「シオンさん、お願いします」
「ちょっと待って」
シオンは態勢を整え、ほぼ真下にいるキョウカへ向けて手を翳す。まだ地上が近いうちに。
「ごめんね、一旦消すよ」
キョウカは赤い絵の具となって弾け蒸発した。
すぐに上空にいたシオンとイチカはキョウカの部屋で目覚めた。
「ある意味予定通りだね」
「まあそうですね」
ベッドに眠るキョウカがゆっくり目を開けるのを、二人はじっと眺めていた。
イチカは、キョウカがまた怒り、夢の中へ引き込もうとする可能性を考え、そのときはこちらの夢に引き込もうと警戒していた。
「ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」
だがキョウカの憑き物の落ちたような顔つきを信じて、イチカはあっさり警戒を解いた。
「わたし一人で消えればよかった」
「キョウカさん、大丈夫だよ」
イチカはベッドの前に跪いてキョウカを見上げる。
「わたしも消えたいって気持ちわかる。でも、こうやって戻ってきて、どう? 前と同じ世界だと思う?」
「ほら」とイチカは手を翳す。
キョウカは一瞬、永遠のような夢を見た。
人知れず絢爛な花々が一斉に歌い始め、この世界の隅々まで覆い尽くす。目の前には光溢れるパレードがどこまでも続いていく。
「ほんとに綺麗」
キョウカの掌には夢に見た光の欠片が舞っていた。
「それはね、キョウカさんが優しい人になれた証しだよ」
「ありがとう」
今回は依頼者の記憶を消すだけに留めておいた。眠り続けていた七人は、夢の中でも人形のように眠っていただけだ。憐れな人形は目覚めても何一つ思い出せない。
キョウカが作り出し、そこに住んでいた夢はきっと、俺やイチカや、多くの人たちが必要としている夢なのかもしれない。彼女が明日から新しい夢を見れることを祈りつつ、今日はここまでにしておくよ。
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