仕事から考える
上司に「もう少し責任のあるところで働いてみない?」みたいなことを言われたが、お断りさせていただいた。
聞いた瞬間から今のゆるい働き方はできなくなるなと思ったので、すぐ断るのがよかったのだけど「どんな仕事内容なのか?」とか詳しく聞いた上で断った。やっぱり即答で「できません!」と断るのは抵抗があった。
長年、労働者の立場で働いていると、主体性が失われていく。どんな仕事が来てもなるべく「はい!できます!」と言った方がいいんだろうなと思ってしまう。もし、その仕事がどうしても難しかったとしても、「その条件だと難しいが、こうこするとできます」みたいな代替案を提示してなるべくできるように交渉する。
なんでこんな人間になってしまったのか、時々悲しくなる。相手の求めるものを先回りして答えるようになってしまった。あと、即答で返事しないと「相手が不安に思ってしまうのでは」と心配になる。
大澤真幸は『資本主義の〈その先〉へ』の中でマルクスの「ブルジョアジー」「プロレタリアート」の意味を「資本家」「労働者」から拡大し、「その場がイノベーションという形で外部(未来)へのアプローチが可能な階級」「その場を否定することでしか外部(未来)へのアプローチできない階級」という言い方をしていた。
例えば、ブルジョアジーの場合イノベーションにより、社会を変える業界に投資することにより、未来へアプローチすることが可能になる。しかし、プロレタリアートの場合、ある専門的な知識を身に着けたとしても、イノベーションによりその知識が無効になってしまうことがある。要は「資本家」「労働者」という立場の問題ではなく。その場が外部(未来)へのアプローチ可能かどうかでブルジョアジー、プロレタリアートを分けている。
この分け方をもっと拡大解釈すると、イエス・ノーを判断することで未来にアプローチ可能なのがブルジョアジーで、ただイエスマンはプロレタリアートなのかなと思う。イエス、イエスといい続けるのは未来へのアプローチを相手に委ねているだけなのだ。
ぼくの場合はノーを言えるような人間になりたいが、それは未来へのアプローチではない。今自分が重要なのは家族と関わること、そして、書いたり読んだりすることで何かを回復することだ。
もしかしたら、「ゆっくり本を読む会」の活動が社会運動の一貫になっているかもと思うことがある。「ゆっくり読む」ことでファスト社会から離脱できる人を増やしていけばどんどん社会が良くなっていくのではと。
でもそんなおこがましいことは言えない。
いやでも、そう思って活動するのもありなのかな?わからない。
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