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朝の10分間読書について

中学生のとき学校で朝の10分間読書なるものがあった。これは、朝礼後10分間ただ好きな本をひたすら読むだけの時間だった。特に本の感想とかは求められない。調べてみるとこの活動は、「朝の読書運動」と呼ばれているみたいで、以下の4原則があるようだ。

  1. みんなでやる

  2. 毎日やる

  3. 好きな本でよい

  4. ただ読むだけ
    以上

さらに調べてみると、2001年に文部科学省が「21世紀教育新生プラン」と銘打って、あいさつのできる子、正しい姿勢と合わせて、朝の読書運動を3つの柱のひとつとして取り上げ、5年計画で1,000億円を図書購入の費用として支援したらしい(wiki情報)。20年ぐらい前の話だが、今もやっているところがあるのだろうか。
そう思っていたら、以下の記事を見つけた。まだやっているらしい。

毎日続けることで読書が好きになり、豊かな心を育み、読解力など学力向上のほか、生徒の問題行為が解消されるといった効果が生まれます。

朝の読書運動を続けるとこんな効果があるらしい。なるほど。

今ぼくはよく本を読んでいる方だとは思うが、「本を読むのは素晴らしい」とか「教養があるとどれだけ人生よりよく生きられるか」言われると居心地が悪くなる。

にしても、なぜ国や学校は生徒に本を読ませたがるのだろう。
そもそも国語という教科ー国語以外も教育も往々にしてそうだがーは国の統治のためにあった。
幕末に前島密が『漢字御廃止之議』を建白したときに「日本の国力の振興を図るためには、学習に時間のかかる漢字を廃止し、誰にでもわかる言語で早急に国民教育をしなければならない」というようなことを言っている。
また、最終的には口談と筆記を一致(言文一致)させることを提唱している。

結局、漢字廃止までには至らなかったが、ある程度簡素化されたものが「国語国字」として成立することになった。
元々の目的は国力の振興にある。そのためにみんながみんな同じ文章を読めるようにしなければならない。そのための言語改革であったのだ。

フーコーは『監獄の誕生』で近代の権力のあり方を「規律訓練(ディシプリン)」と表現した。これは直接に命令されなくても自発的に従属するように教育・訓育するという統治のやり方である。国語教育もこの一環としてある。

「21世紀教育新生プラン」のあいさつのできる子、正しい姿勢、そして朝の読書運動で得られる問題行為が解消、はまさに統治するために必要な要素だ。

だから読書論には罠が多い。読書論を追求していくと、人間の楽しみとは無関係な領域(道徳、頭の良さとか)に差し掛かる。本を読むことの自己言及ではなく、何を読んでどう感じているのか形にしていきたい。

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