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『ヨブ記』12章 主催者の感想

虚構でしかない世界で人の痛みは伝達可能か

子どもとの生活から考える

ぼくの息子はもうすぐ3歳を迎えようとしている。息子は2歳3カ月ぐらいから言葉を急激にしゃべれるようになり、今では大人たちがびっくりするような複雑な文章もしゃべれてしまう。しかし、まだまだ饒舌には話すことは難しい。息子がしゃべる際は、何度も詰まり言葉を反復しながら、一生懸命何かを伝えたくて必死に話そうとする。ぼくら大人たちは何とか意図をくみ取り、応答しようとする。そんなことを繰り返していくうち、なにか息子と「つながり」を持てている気がして、深い満足感を得る。
新生児の段階ではしゃべることができない。その段階ではもしかしたら息子にとってぼくは存在しないのかもしれない。そこから目が合うようになる、そして笑う。そうなると、息子のなかに、ぼくの存在のうっすらとした灯火のようなものが確認できているような気がした。そして、しゃべれるようになると息子のぼくの存在はリアルなものとして確認できるようになる。それは深い満足感もあるが、それと同時に一抹の寂しさもある。
子どもと接していると「ことば」の魔術的側面について考えてしまう。自分のことばが伝わる、相手のことばが理解できるとつながりを得た気持ちになり満足感を得る。しかし、なぜ、ぼくらはことばを意味のあることばを発し理解できるのだろう。いや、その認識はもしかしたら罠かもしれない。むしろまず、こう問いかけた方がよいのかもしれない、なぜことばが理解できると、理解されると考えてしまう●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●のだろう。

ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』において、私的言語を批判している。私的言語とは、自分の心の中で思ったことを言葉によって表したものである。ウィトゲンシュタインはこの私的言語というのは不可能性であり、言語の意味とは、言語の内的なものからではなく、外部の言語ゲームによって規定されると言っている。ことばは言語ゲームに渡された後、意味が決まってくる。
言語ゲームは確固たる不変のルールがあるわけではなく、どんどんルールを変更、拡張される(それをウィトゲンシュタインは家族(居候、ペット、ヤクザの親分子分)のように拡張可能なことから「家族的類似性」という言葉で表している)、それゆえぼくらには言語ゲームのルールは認識できない。
ぼくたちは「他人の痛み」を感じることができない。もし「他人の痛み」を感じるとすれば、それはぼくらが認知できない「ゲーム」によって感じていると思わされる。
この考え方にぼくは困惑してしまう。なぜなら、ぼくたちは深いつながりを感じ、満足感を得るのは、ゲームで規定されたものではなく、相手の私的言語を理解する、理解される瞬間ではないだろうか。私的言語が不可能性であり、虚構でしかないと認識してしまったら、ぼくらは何もつながりを得ることができないのではないか。

虚構について

かつて人々はアメリカ同時多発テロー9.11が起きた時、「まるでハリウッド映画のようだ」といった。また、湾岸戦争の時は「まるでコンピューターゲームのようだ」といった。そういった例外状態に直面した時、人々は、虚構と現実を混濁しているのではと、自身の認識能力のあいまいさに困惑をした。
しかし、そもそもぼくたちは虚構でのみ、何かを認識しているのではないだろうか。
たとえば、写真よりも実際の顔をかなりデフォルメしたような漫画の似顔絵のほうが、誰であるか認識できる場合がある。また物は、物質の最小単位である素粒子で構成されているが、ぼくらは素粒子の集合体として人や物を見ていない。集合体ではあるが1個の個体として認識している。
そう考えると世界は虚構でしかない。インターネットにおいても真実をデフォルメしたフェイクニュースが流行ってしまうのは、そういう理由からかもしれない。
だが、アメリカ同時多発テロにはハリウッド映画とは違い、犠牲者がいる。虚構でしかない世界の中でワールドトレードセンターの中で亡くなった人々につながることは可能であろうか。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア友の会』

最近『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア友の会』(以下『逆シャア本』)という本を入手した。

この本は富野由悠季監督のアニメ映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(以下『逆シャア』)を観た『新世紀エヴァンゲリオン』監督の庵野秀明が、その映画に対していたく感動し、作成したファンブックである。元々は同人誌で売られ100部ぐらいしか刷られておらず、10万円以上する高値がついていたが、去年スタジオカラーから復刊された。ぼくはこの『逆シャア』に衝撃を受け、正直8回以上はこの映画を観ている。『逆シャア』を観ていると、ぼくの脳のなかに直接他人が入ってくるような、ある種の「きもちわるさ」を覚える。
『逆シャア本』は庵野と同じように『逆シャア』に感銘を受けた、押井守幾原邦彦へのインタビューや監督の富野由悠季にもインタビューをしている。この富野へのインタビューはマニアックなことも含んでおり、難解であるが、大枠は「紙の上にある絵(虚構)にいかに生命(現実)を吹き込むか」という話をしている。そして「私」と「性」(インタビューではあまり語られていないけど、もしかしたら「死」も)がアニメに現実を与えることができる。それを庵野が「富野監督がパンツを脱いで踊っている」という言葉で『逆シャア』を評している。(ちなみにパンツを脱がないアニメ監督として宮崎駿が批判される)
『逆シャア』はコミュニケーションの不可能性が繰り返し描かれている。自分の思い(私的言語)を伝えたいと思っている10代の少年少女たちと、人生経験へて自分の思いなど伝わるはずがないと思っている壮年の男性2人の対話と破綻の物語である。そして、富野のインタビューでも監督とアニメーターのコミュニケーションの齟齬について語る。作品を作り上げるには、自分の思いを伝えなくてはいけない、しかし伝えるのは難しい。

『逆シャア』及び『逆シャア本』は、ぼくの中で虚構と現実、コミュニケーションの不可能性について考えてしまう。もしかしたら、何も伝えられず、何も聞くことができず、孤独なのではと思ってしまう。

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