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8/11 早朝読書会 宮沢賢治『なめとこ山の熊』2 レポ

読書会をやってみて

宮沢賢治『なめとこ山の熊』の読書会を7名でやりました。

今回は先週の続きで、「ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆きもを売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。〜」から最後まで読みました。

この作品はなめとこ山にいる熊とマタギの淵沢小十郎の話です。
一般的にマタギと熊は敵対関係にあると思われてます。が、この作品の熊と小十郎の間には緩やかな関係がある。熊たちは小十郎のことがすきであるが、銃を向けられるのはすきではないと、あったり、小十郎の方は熊を憎くて殺しているわけではないとあります。傍からみると殺す、殺されるの関係ですが、お互い憎めない関係をみると良好だと思われます。
むしろ、小十郎は人間、とくに資本主義の世界で搾取する側のほうに嫌悪を示しています。荒物屋の旦那と小十郎の会話は、経営者と労働者の階級の差が現れています。このシーンの中で以下のような記述があります。

僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。

「僕」とは「なめとこ山の熊」を書いた作者で、「二度とつらも見たくないようないやなやつ」は荒物屋の旦那、経営者です。「僕」も小十郎も経営者に対して嫌な気持ちがあるようです。それは、熊に対する視線とは全く別のものになります。

荒物屋の旦那と小十郎の会話の次に、熊と小十郎とのふしぎな出来事が語られています。小十郎は谷で熊と出会い銃で打とうとしましたが、熊が「二年だけ待ってくれ。」と言い小十郎は変な気持ちになりましたが、2年後、約束通り熊は血を吐いて死んでいる所を小十郎が見つけるというシーンです。ここは資本主義の世界と自然の世界の対比が語られています。
資本主義の世界では搾取する側とされる側、勝ち負けで語られますが、自然の世界では決して勝ち負けに収まらない部分があることを表しているシーンです。
ぼくとしては自然の世界は個や共同体をこえた感覚があるのかなと考えました。最後のシーンもそうですが、死んだら負けという価値観ではなく、自然とは生きるも死ぬも超えた所にあります。質量保存の法則はある密閉された空間内でいくら時間がたったとしても質量は増えたり減ったりせずそのままの質量を保つという原則です。般若心経の〈不生不滅、不垢不浄、不増不減〉(生まれもせず、衰えもせず、綺麗でもなく、汚くもなく、成長もせず、死滅することもしない)という言葉にあるように、もしかしたらビックバンから宇宙は全く変化がないといえます。

熊や小十郎にもそういった大きな感覚があるから、一般的な人間が持っている死生観であるような、死に恐怖し、生に喜びを感じるようなことはないのかもしれません。

ご参加いただいた方の感想

ゆうさん
考え、思いが拡がりました。宮沢賢治作品の以外と思われる側面が(個人的に)しれたかな、と思いました。

Mimiさん
この物語は子供の時に読んだことがありましたが、大人になってから読むとかなり深いメッセージがあったんだなと思いました。
他の人の感想、着眼点にいつも学ばせてもらっています。 数学を学ぶ目的はは論理的思考を育てるためだと言われます。
しかし私達は理論の通用しない不条理な事態にも多く直面します。
そんなとき文学を読んで考えたり、他者の意見を知ることは何らかの力になるような気がします。
このような機会は本当に貴重です。 有難うございました。

次回


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