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ハーマン・メルヴィル『バートルビー』について

ちょっとでも本や映画が好きだったら、ほとんどの人は心の支えとなっている作品があると思う。ぼくにとって、ハーマン・メルヴィルの『バートルビー』はそれである。道から少しでも外れて不安に思ったとき、『バートルビー』はいつも考える方向を示してくれる。

少し『バートルビー』の内容を説明すると、ウォール街の一角の法律事務所で雇われた「バートルビー」という名の青年の話である。最初は普通に仕事をしていたが、突然「しないほうがいいのですが」と言い何もしなくなり、最後は生命を失ってしまうのだ。

この作品はぼくにとって「世界の外部はいかの構想されるのか」というテーマをはらんでいる。この外部へは何かすることでいくことはできない。「何もしないこと」により外部へ到達することができるのだ。しかし、その外部へ到達した瞬間に人は生きることはできなくなってしまうのだ。

キルケゴールは『あれか、これか』で以下のような言葉を残している。

 ぼくはぜんぜんなにもしたくない。ぼくは馬に乗りたくない──これは激しすぎる運動である。ぼくは歩きたくない──これは骨がおれすぎる。ぼくは身を横たえたくない。なぜなら、ぼくは横たわったままでいるか──これはいやだ──、それともふたたびおき上らなくてはならない──これもいやだ──からである。けっきょくのところ、ぼくはぜんぜんなにもしたくない。

ぼくは自分の時間を次のように分ける。半分は眠って過ごし、半分は夢みて過ごす。眠っているときにはぼくは決して夢をみない。そんなことをするのはもったいない。なぜなら眠りは最高の天の賜物だからである。

キルケゴールは「なにかすること」と「なにもしないこと」との間を出発点とし、そこから思考を展開している。ぼくは、ここでの眠りが「死」と同意義だと考えている。一番深いノンレム睡眠時、体の動きは少なく夢も見ていない状態、キルケゴールはその段階を至高とみなす。

本当はみんな「なんにもしたくない」のではないか。しかし、なぜかすべての行為が「なにかすること」に含まれてしまうのだ。それは、だらだらYoutubeを観ているときだって、ただ横になっていることだって、全てがなにかしている。それら「なにかすること」は、すべて評価されてしまうのである。そんな世界に嫌気が差す。

『バードルビー』が魅力的なのは、ぼく自身生きることなんてしたくないと思っているのかもしれない。ただただ、無になりたい。生きる世界になんていたくない。

5年前ぐらいに『バートルビー』についての解説動画?のようなものをyoutubeに上げたことがある。よかったらどうぞ(40分ぐらいあるけど)

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