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芸術家の最果て −室内オペラ『サイレンス』

2020年1月18日、ロームシアター京都にて室内オペラ『サイレンス』を観た。

『グランド・ブダペスト・ホテル』にてゴールデングローブ賞最優秀作曲賞、『シェイプ・オブ・ウォーター』でアカデミー作曲賞を受賞し、その他映画音楽も多数手がけるアレクサンドル・デスプラ氏によるオペラであり、川端康成の短編小説『無言』を原作とする。
舞台奥にオーケストラが配置され、彼らは色とりどりの袈裟姿で現れる。オーケストラの上部には横長のスクリーンが配置されており、劇中の要所で抽象的にも日本的な映像が映される。
オーケストラたちの衣装が色彩豊かなものであるのに対し、主要人物たちの衣装に色は少ない。訪問者である三田は茶色、病に倒れた作家大宮氏は白に近い灰、娘の富子は黒。
そんな彼らの背後で演奏しているオーケストラたちは、まるで家の窓から見える揺れる紅葉を表していたのかもしれない、と、これを書いている今ふと思った。

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美しいポスターだと思う。

鎌倉から逗子に向かうトンネルの手前には火葬場があり、逗子から鎌倉へ向かう空車のタクシーには女の幽霊が出ると言う。火葬場で焼かれた女はきっと鎌倉に住んでいて、鎌倉へ帰りたがっているのだろう。黙って、黙って、ただ鎌倉へ連れて行ってやればいい。

不朽の名作をいくつも残した小説家は病に倒れ、それ以来一文字も、ただの一文字として書くことをやめた。自らの精神が展開させる創作の世界を文章によって表し、世に問うことを職とする小説家、そのうちの一人、逗子の小説家は職を放棄し、沈黙の世界に入った。
長女の富子は毎日献身的に父の世話をし、沈黙する父の表情、体温から彼の意思を読み取って訪問者へ語る。父の意向を訪問者へ語る。父があなたにお酒をと、父があなたにお食事をと。

病んだ文学青年の話。
小説家の熱心な読者であったその青年は、しばしば小説家に手紙を送る。しかしその手紙の内容は次第に支離滅裂になっていき、青年は気を狂わせて精神病院に入ることになる。鉛筆もペンもインクも危険だと、病院で彼は全てを取り上げられる。与えられたのは、ただ白紙の、まっさらな紙、紙、紙、これが彼に与えられた全てであった。

「ここまでが実話です。そしてここから先は、父の創作です」

ペンを持たない青年は日がな真っ白なままの髪の束を母に差し出し、これが僕の物語だと言う。どうぞお母さん、読んでください。読んで聞かせてください。
母は息子の姿に悲しみの涙を浮かべながらも、真っ白な紙を見ながら「そこに書かれている物語」を読んで聞かせる。彼の幼少期や思い出話など、様々な要素を交えながら。やがて母は、白紙の物語を「本当に」読んでいるような気がしてくる。
その物語は、息子のものか母のものか。


父から差し出されるものは沈黙という白紙であり、娘はそれを読み取ろうとする。
もしも父が沈黙の中で未だ創作を続けているのだとしたら。
父の物語を私が書くことは、それは父の物語ではないのだろうか。
そうだ、父は昔、自らの恋愛話をよく私に話してくれた。今では私は父と同等、あるいはそれ以上に彼の物語を覚えている。
私が書くことができたら。


「過去」は、その人が生きているうちはその人のものだ。
完全に沈黙しても、それはその人のものだ。
しかしそれを完璧に書き起こせたならそれはその人の物語なのか。
沈黙から見出される物語は、白紙から見出される物語は、誰のものなのか。
ねえ先生、せめて一文字だけでも、水が欲しいなら「ミ」と、お茶が欲しいなら「オ」と、ただ一文字だけで伝わるのですどうか書いてください、富子さんに日々の献身にお礼を伝えるのです、「メルシィ」の「メ」だけで良いのです、それはあなたの、練りに練られた小説の一文よりもはるかに価値がありはるかに心に響くものです、どうか書いてください、一文字でいいのです、さあ筆を握って、練習をするのです、「ミ」!「オ」!「メ」!
「ワ」 「タ」 「シ」!

どうかこれ以上の沈黙は辞めてください!

表現手段を失ったアーティストは、どう表現していくか、どうコミュニケーションしていくか。というのも、芸術家は芸術を通してコミュニケーションするからです。私は言葉よりも音でコミュニケーションします。
(中略)
この短編には、心に響く深い内容があります。脳卒中などによる障害や麻痺というのは珍しいことではありませんが、しかし、やはりそれがクリエーター、アーティストに起こった場合、非常に耐え難い傷となる。というのは、もう芸術的に何も生み出すことができなくなってしまうからです。

 _アレクサンドル・デスプラ インタビュー

『サイレンス』は人間同士のコミュニケーション、その困難さ、不全にまつわる物語だ。今まで小説という手段によって世界と繋がってきた作家は病に倒れることにより、コミュニケーションという行為自体から締め出されてしまう。彼にとっては小説という媒体を通してでしか成立しないことだったからだ。
非常に耐え難い傷、それはそうだろう察するに余り有る出来事だ。
しかしそもそも表現とは、想像とは、コミュニケーションとは何なのだろうとも同時に考える。
最良の、これ以上なき完璧な創作とは。


物語を完全なものにする、完璧なものにするにはどうしたらいいのだろうと、舞台を観ながら考えていた。作家が未だ沈黙の世界の中で創作を続けているのだとしたら、そこに現れているものこそ完璧な物語ではないかと思っていた。
小説が、創作が最も完璧な状態であるのはいつか。それはすべてが頭の中にあるときだ。誰にも話さず、どこにも痕跡を残さず、ただ自分の頭の中だけに存在しているとき。物語はそのときだけ、純然として完璧なのだ。
けれど作家は、そこから一文字目を踏み出さなくてはならない。そこから物語は完璧さを少しずつ失っていく。言語の行間に沈み込んだ要素はもはや引き上げることはできない。推敲の過程で切り落とした文章は二度と戻って来ない。そもそも、「自分の文章」で表現できないことは決して、表現できない。いくら頭の中にそれが確かに、確かに存在していてもだ。
書くことは完璧な物語を自ら切り刻んでいくことだ。
白紙の世界に生きる青年、沈黙の世界に生きる作家は、ある意味では、満たされているのかもしれないのだ。
後に残される人間たちにできることは、ただ想像することだけだ。しかしそれもまた完全ではない。彼らはあなたではない。彼らは私ではない。
完璧な物語には誰も触れることができない。芸術家が自らの表現によって自らの物語を切り刻んでいくのと同じように、そもそも本質的に、他人のことはわからない。

芸術家の最果ては沈黙なのかもしれない。

鎌倉から逗子に向かうトンネルの手前には火葬場があり、逗子から鎌倉へ向かう空車のタクシーには女の幽霊が出ると言う。火葬場で焼かれた女はきっと鎌倉に住んでいて、鎌倉へ帰りたがっているのだろう。今、あなたの隣に座っています。
誰もいない。いいえ確かに。それでは話しかけてみようか。お辞めなさい、祟られることでしょう。彼女はただ鎌倉へ帰りたがっているのです。黙って鎌倉まで連れて行ってやれば良いのです。
黙って、黙って、黙って。


そう、すべてはイマジネーションの産物なのであって、現実派で合理的な考えの持ち主である三田には、帰りのタクシーに出た幽霊が見えないのも道理なのだ。『サイレンス』は、こうした原作の持ち味、面白さ──想像力を働かせて答えを導き出そうとしても常に不明の宙吊り状態に立ち戻ってしまう、けれども想像することをやめられないという実に人間的な営み──を歌唱、語り、演奏、スクリーンに投影される映像を通じて見事に描き切ったといえるだろう。

 _見えないもの、聞こえてこないものを考える
  青野賢一(ビームス創造研究所クリエイティヴディレクター/文筆家)


舞台装置の鏡に一瞬、指揮する姿が写り込んでいるのが見えたのでひょっとしたら、と思っていたらカーテンコールでデスプラ氏とソルレイ氏が出てきてびっくりしてしまった。
ウワー、アカデミー賞の人や! と、最後の最後でミーハーと化して私の観劇は終わった。

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京都の美しい夕暮れと、

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近所の炭焼きイタリアンとワインのお店で酒を飲んで帰った。


読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。