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Lily

「あなたの文章はどうしてそんなにも内側に向かおうとするのかな。私だったら小説に形を変えてしまうところだけど」
 私がオレンジワインを片手に尋ねると、彼女は両手で髪を押さえるようにして、うん、そう、そうしていることは分かっていると俯きがちに、数回頷いた。それから彼女は視線を斜め下に逸らして考えて、一つ一つ言葉を選ぶように、答えを出していく。
「多分、自分の内側を見つめて、向かって、それを書き出すことによって、それは最終的には普遍的な詩になると思うから」
 彼女は続ける。
「小説は、私と、読者の間を接続する、今、接続させるものでしょう。そうではなくて、私はもっと普遍的なものを書きたいのかもしれない。リルケの詩だってとてもパーソナルなことを書いているのにそこには普遍的な響きがあるでしょう」
 なるほど、私は頷いた。銀座の雑居ビル、イルミネーションの世界から切り出されたような空間、その片隅で、小さな照明に照らされたワインは美しいオレンジ色に光っている。
「さみしいと思うことはない?」
 そう言って彼女は、悲しいでもない、少し切ない、手を離せば割れてしまうガラスのような目で、私に微笑んだ。


 2021年12月25日、東京の街で出会った彼女は、金色に淡く光るコートに黒いワンピース姿で、首元に鮮やかなスカーフ柄の飾りをつけていた。ゆるくパーマのかかった髪は肩に届くくらいで、ふわふわと、柔らかそうな髪だと思った。
「本当にいたんだねえ」
 私がその姿にしみじみと詠嘆すると、彼女は目を細めて悪戯っぽく「いるんだよ」と笑った。
 彼女が予約してくれたギリシャ料理のお店は街を見下ろせる席に案内されて、こんな席に通されたのは初めてだと彼女は目の前に広がる銀座の街を見下ろしながら言った。
 互いにストレートアップを注文して、銀座の街に、互いに、乾杯してグラスを合わせた。
 メリークリスマス。そう、今日はクリスマス。

 概念としての彼女はずっと、何年もの間、私の中に存在していたけれど、その彼女と仲良くなって、こうして実存と実存同士、顔を合わせて語り合う機会が来るとはまさか思っていなかった。彼女にとっても私は概念であったかもしれない。けれど、インターネットに文字を打ち込んでいるその主体は当然ながら私も彼女も人間であって、そして、ずっと年上だと思っていた彼女は同い年で、誕生日が一日しか違わなかった。そんなこともあるのかと驚いたものだ。けれどそれも、ずっと昔のことのように思えてくる。
 不思議だ、インターネットを通して頻繁に話すようになってから、まだ一年も経っていないのに。
 概念としての彼女は、もう消えて、行ってしまった。二度と戻らない。
 目の前にいるのは人間としての、同い年の、一つ一つ言葉を選ぶ、時折屈託無く笑う、聡明で朗らかな彼女。鋭さと優しさの両方を秘めた視線を持つ不思議な目はふとさみしげに伏せられる瞬間があって、その横顔を、私は美しいと思った。



 店の中を、Oasisの”Stand By Me”が流れている。
 オアシスだね、そうだねと私たちは天井を見上げる。あなたは口ずさむ。
 Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be.

「さみしいと思ったことはない?」
 問われた私は、「さみしい」とおうむ返しに呟いて、ふと、イーユン・リーの言葉を思い出す。
「状態としてのSolitudeはあると思う。でも、感情としてのLonelinessがあるかどうかは分からない。ああ一人だなって思うことはあるけど、それがどっちなのかは」
「草原に一人って感じ?」
「そうだね、そうかもしれない。でもそれがLonelinessかどうかは分からない」
 そっか、とあなたは頷いて、否定もせず、熱燗を猪口に注いだ。
「あなたは、あっけらかんとしているよね」
「そう見えているの?」
「そう。さみしくても、あっけらかんとしているの。私はやっぱり、さみしいんだよって訴えてしまうから、そういうLonelinessを抱えた人たちを引き寄せてしまうんだね。きっと互いに気高いんだけど、私の方が、ちょっと弱いの」
 そうなのかな? と言葉を濁しながら、私もワインを飲む。私に気高いという形容をくれる人は、きっとあなたくらいだろう。

 So what’s the matter with you?
 Sing me something new
 Don’t you know the cold and wind and rain don’t know
 They only seem to come and go away

 自分の書くものに普遍的なものを求めるあなたは、自分がこの世に永遠にも残ることを、誰かの心に生涯残ることを望むのだろうか。まるで自分が永遠にもここにとどまることができるなら、きっといつか孤独から自由になれるのかもしれないと夢見るみたいに。きっといつか、実存がもういなくなってしまっても、誰かが自分を見つけてくれると、その誰かの心に残ることができるならもうさみしくないのだと、祈るみたいに。
 自分を普遍化したい、永遠にもここにいたいと願うあなたのさみしさの深さを、私はきっと推し量ることはできないだろう。あっけらかんとしていると言われてしまった私では。あなたのさみしさの深さに手を触れてみたいけれど、きっと私では。触れたところで理解することができないのなら、それはあなたの澄んださみしさをただ汚してしまうだけ。
 私はあなたのさみしさを、その深さを、生涯理解することはないでしょう。あなたが私を私のSolitudeから引き上げないのと同じように。

 あなたが私を見つめる。
 目を合わせることが苦手な私はすぐに目を伏せてしまう。
 とても綺麗な目だねとあなたが言う。


「どうしてあなたの人生はそうも過酷なのかなって、あなたの文章を読んでいると思うよ」
「うーん、それは、私が自分の人生を逐一言語化しているから、可視化されているだけであって、人はみんなそれぞれに過酷なものを持っていると思うよ。でも私は言語化して、意味づけをしてしまうんだな。例えば私が年上の男性に惹かれるのは、家族環境のせいだって。せい、と言ってしまうと語弊があるけれど、そうやって、意味をつけるのね。もちろん私は家族に恵まれて、愛されて育った自覚はあるけれど」
 愛されていたと、あなたはそう語るけれど、それでも私には、あなたは自分に注がれる愛すらも振り払って、たった一人で、深いさみしさに涙を呑みながらであろうと、この世に、まるで荒野のようなあなたの世界のどこかに咲いている、一輪の美しさを求めて歩き続ける人に見える。裸足で、着の身着のままで、髪を乱してでも、どこかにきっとある一輪の美だけが、あなたを突き動かしているように見えるのだ。
 その姿こそが一輪の花だろう。

(stand by me,)


 めくるめく、まばゆいイルミネーションの街を、人いきれをすり抜けるようにして二人で歩く。高級ブティックたちの長蛇の列を横目に見ながら、私たちは二人で歩く。
「これが和光ビルで、向こうにあるのが三越よ」あなたは言う。「銀座の中心地だね」
「和光ビルって時計台があるじゃない。あれをさ、ゴジラがぶっ壊しちゃって、それで和光の社長がキレて、ゴジラは長いこと銀座を出禁になってたんだよ」
「許可取ってなかったの?」
 私のくだらない話にあなたは笑う。あなたのコートが翻る。
 真冬の人いきれは賑やかに浮き足立つ。だって、今夜はクリスマス。
 私たちはイルミネーションの中、写真を撮ることもなく、あなたは私を改札まで送ってくれて、また会いましょうと、抱き合って別れた。



 あなたに会うまでに、何を話そうとずっと考えていたのに、結局半分も、伝えられたような気がしない。あなたの文章をずっと好き、あなたの文章に憧れている、あなたの文章にきっと恋をしている。
 私はきちんと伝えたんだろうか?

 あなたとの、この不思議な夜を思うとき、きっと耳に蘇る”Stand By Me”。懐かしそうにあなたが口ずさむ、唇のかたち。小さな照明ひとつに照らされたテーブル。
 私を見つめるあなたの瞳。深いさみしさを抱えながら屈託無く笑う人。私と同い年で、誕生日が一日違いで、柔らかい髪を持って、横顔の美しい人。
 孤独でなければ、さみしくなければ、書けないものがある。それを追いかけて、自分のさみしさを埋める人がいる。あなたは自分の孤独が他者に流れ込んでいく、他者の空洞を埋めることを引き受ける。そしてまた自分の孤独を糧にして、書いていく。
 あなたの名前は一輪の花。

(If you’re leaving will you take me with you?)


Lily / 20211226


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2021年12月25日にけれどもさんと初めてお会いした時の記録です。


読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。