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I see nothing but Eternity.

20191125(Mon.)

会社が近く分かれることになるので、その準備を毎日やっている。経理に配属されて4ヶ月が経とうとしているが、会社というものは経理が動かしているのだと日々実感する。以前居た部署でも子会社の経営補助をしていたが、今は、近く分かれ、そしてわたしもまたその船に乗る会社のために色々と準備をしている。親元を離れるのと同じように、会社を分けるのにもいろんな準備がいる。届出とか、資産分割とか、何よりわたしは税金の話が苦手だ。税率、法人税と地方税そして消費税、中間申告確定申告、学ばなくてはならないことが多すぎて、日々、自分の弱さを痛感する。
今は決算整理の練習をしている。エクセルシートにずらりと並んだ数列は見ているだけで目眩がする。数字は嘘をつかないからねとわたしの大好きな少佐は折に触れ繰り返していたものだが、嘘をつかれているかどうか、わたしの頭では証明できない。できることといえば、鈍器のような過去の決算書類の数字を探し当てて、解読していくことだけだ。ひとつずつ、ひとつずつ。

先日観てきたゴッホの映画『永遠の門』のサウンドトラックを聴きながらこれを書いている。あんなに、ただ目に見える世界の美しさを愛し、自然の姿を「永遠」だと言い切った、永遠を永遠たらしめるために描きつづけた、ただ描きつづけたゴッホのようにはとても生きられないと、負けを認める意味ではないがようやく、腑に落ちる歳になったと思う。
画面から溢れてわたしの頰をも照らす太陽の光、すぐ耳元にまで迫ってくる葉擦れの音、ゴッホの指先に触れる葉の群れ、何もかもが、ゴッホを世界の芯に置いて鳴り響いていた。
あの世界の中心にいては、描かずにはいられなくなるのかもしれない。
けれど現代に生きるわたしはかのゴッホが不遇な生涯であったことを知っている。わたしはこの映画がたった2時間だったからこそ、彼の人生を祝福できた。
たった2時間だったなら、誰の人生も祝福に値する。
映画とはそういうものだ。演劇もまた、そういうものだ。

そのまた先日、わたしがよく訪れる映画館の支配人の女性と会った。大勢で映画の話をして、わたしは貝のように押し黙って眼前を飛び交う声を必死に追いかけながらビールを飲み、気づけば23時を回っていて、終電の近い人が走って帰っていった。
夜の深い大阪はどぎつく、色とりどりで、やかましく、寒かった。
今日は来てくれてありがとうねと、隣を歩く彼女に言われた。こちらこそ、随分前に一度お話しただけなのに覚えていてくださって。ふたりとも寒いので、自分のストールに顔を沈めていた。並んで歩いてみて気づく、わたしたちは随分と、背の高さに違いがある。
でもね、わたしあなたの映画の感想が好きでね、ついすぐいいね押しちゃうんだよね。あなたはものを書く子だったんだね。
ものを書く子。言われるたびに、後ろめたさと喜びとが混じり合って、マーブル模様が心に現れる。

自分のものを書かなくなって久しい。自分のフィクションが、今はどれも遠くに見える。
一心に追いかけていた自分だけのフィクションへの足取りが、今では本当に鈍くなってしまった。
フィクションを追いかけることは祈りに似ている。この世界が唯一わたしだけには、正しく信じられるものであってほしいという祈りに似ている。事実、書くことは祈りだ。書くことで浄化され、感情は切り離され、体は軽くなる。そして言葉はこの時間の中に永遠に残る。わたしが明日を迎えても、この文章は今日この時間から離れることは決してありえない。
永遠の門を開くのは人の手ではなく、人が生み出して過去に置き去りにしていく絵であり、音楽であり、言葉である。人間は不可逆的に歳を取り、永遠の中には生きられない。

自分のものを書かなくなって久しい。
今は映画や演劇を観て、自由に思いを巡らせること自体が楽しい。観ている最中からすでに言葉が水のように湧き出てくる映画に出会う瞬間に今のわたしの喜びがある。
演劇を観て、文献を読んで、作家の言葉を追って、下手の横好きでも考察を組み立てていくのが好きだ。それは蛇足であり野暮だと言う人はもっともだ。それでもわたしは考え事が好きだ。
観た映画や読んだ本の感想を残すようになってどれほど経つかもうわからない。それは習慣であり、感想までまとめて一連の鑑賞は終わるもの、という感覚があるので書かないことには心がなんとなく気持ち悪いのだ。そんな、生理的な感覚で書いているのがわたしの感想たちだ。
けれどふと、そんなわたしの感想が好きなんだよね、読むのが楽しみなんだよねと言われると、それは願わずしてやってきた副次的で、副次的なくせにあまりに深い喜びだと、心が震える。

わたしは自分のものを書かない。時が巡れば、叙事詩みたいな小説や演劇をまたいきなり書き始めるのかもしれない。それもまたわからないことだ。けれど今このときのわたしは生きていてもよくて、会社でひとしきり数字に目眩を重ねて、それでよくて、また明日を迎える。
わたしの手は永遠の門に触れることはない。けれどわたしは生きていてもいい。

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。