未明と呼ぶには深すぎる / 20201020

夏の終わりから夕食という概念と行為にも嫌悪と拒否感を覚えるようになっていたけれど、それでもやっぱり、食べなければならないのかもしれないと母から届いた物資の数々を眺めながら思う。この日記は時に私の拒食記録の様相を呈するが、それもまた私の生活であり、夜である。
試しに、お湯で解凍するタイプの帆立粥を食べた。茶碗一つで済む分量に、母も薄々分かっているのだろうと思う。私がこれ以上の量を食べようとはしないであろうと。お粥は美味しかった。

腹痛で夜中の2時に起こされてからろくに眠れないまま朝になってしまい、今日の一日は流石にずっと眠かった。気を抜くとふと意識を失ってしまいそうな感覚を久しぶりに思う。

夢の中で、私は映画を観ていることが多い。俳優がいて、それなりに物語があって、展開があって、私はその映像を観ている。その映画がエンドロールまで行き着くか、きりのいいところに差し掛かると私は目を覚ます。未明と呼ぶには深すぎる夜に引き戻される。時間を確認してまた眠りについて、私はまた別の映画を観る。そしてこの映画もきりのいいところに来れば私はまた目を覚ます。末期の病を抱えた男が発作を起こし、彼の運転していたトラックが深夜の路肩に突っ込んでいくシーンと同時に私は目を覚ます。そして彼が抱えていた末期の病が私の腹痛に繋がっていることを知る。お腹の具合が悪くて夜中に起きるのは、子供の頃からずっと変わらない。



今日は詩人ランボーの誕生日だという。高校生で映画『太陽と月に背いて』を観た私はその足で本屋に向かい、岩波文庫の棚を左から右へ舐めるように探し『地獄の季節』を買った。私が買った初めての岩波文庫はランボーだった。そこまでランボーを想って、なぜ大学に進学した時に第二外国語を仏語にしなかったのかが不思議で仕方がない。それでも私が独語を選んだのは必然だった。きっと、必然だった。

「想えば身を裂かれる様な不幸」
私はこの一節を手帳に書き写し、何度も何度も、口ずさんできた。想えば身を裂かれる様な不幸。想えば。想うなら、それは不幸。


i want to be you
just like a leaf that has flown away with the wind and the rain
this "romance" is so mellow, and "so real"
just like a song that has died away with a flash in the night
_「現実を嗤う」/ 東京事変

誰かに焦がれることに「貴方になってしまいたい」という言葉を私に与えた東京事変は今尚健在で。
誰かに強烈に憧れること、強烈に焦がれること、強烈に慕うこと、それは辿って辿って辿っていけば、「その人になりたい」という暴力的な欲求が剥き出しになる。私の憧れは、恋慕は、執着は、貴方になりたいという暴力。
貴方の視界で世界を見たい、貴方の脳でこの世界を知覚したい、貴方の知性で万象を解き明かしたい、貴方の書く文章を書きたい、貴方の記憶をそのままもらってしまいたい、何もかもを、貰い受けて同化したい。私は貴方になりたい。

私は貴方になりたい。
(i want to be you)
私は貴方になりたい。
(ich will dir werden)

dichかもしれない。


それはできないから、私は私の声を探す。私は私が書く文章しか書くことができないのだから、私は私の声を探す。価値があるかもわからない私の声を探す。私の言語を探す。視力の悪い両目で見渡す。

ああ、暴力。私の中にある暴力。純然たる暴力。想うならそれは不幸。想えば想うほどにそれは不幸。身を裂かれて、私は不幸。



新月に向かうのか、抜け出してきたのか、今夜の月は赤く、細く、低空を滑り、それはとても美しい。ナイフで裂いた夜の亀裂のようだ。今はまだ、未明と呼ぶにはあまりにも浅い。これから迎える深夜の海を泳ぎ、夜の亀裂は高く昇ってゆく。低空を滑る赤い月が、自分が、どれほど美しかったかを忘れ、高く昇る。私は今夜こそ、溺死するように眠りたい。



読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。