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I My Me Mine 或いは届かないSehnsucht.

 物語るとは、神に自分の存在を証明すること。
 わたしはここにいる、ここで、息をしている、今ここにいる、ここにいる、ここで生きている、生きている。わたしの生を、この呼吸を、存在を、全力で訴えるため声を上げるもの。

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歌手 鬼束ちひろについて書きました。
10,000字を超えるという自分でも引く結果になったうえ多大な妄想と誇大解釈オンパレードの力技で押し切っています。
フィクションとしてお楽しみください。


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「自分を、たかが歌手風情が〈絶対者〉〈救済者〉などと思いこんだ場合、それは自己イメージの形を取り、撞着的にならざるを得ないので、とんでもないことになる。新宗教であり絶対宗教であるオリジナル宗教のイコンになるわけだから。」


 音楽家で文筆家の菊池成孔さんがかつて「育つ雑草」がリリースされたときのタワレコのコラムで鬼束ちひろのことをこんな感じに書いていた。「育つ雑草」のリリースは2004年だから、もう13年前のことになる。このコラムがまだインターネット上に残っていたことにもちょっと感動したのだけど、改めて読んでみて、もちろん全文通して不快なんだけど(まずタワレコに載せるコラムで書き出しが「僕はこの人がデビューしたときから、裸にしか興味がなかったから(体が異常に良く思えたからだ)、とにかく一日も早くおかしくなるか落ちるかして脱いで欲しいとばかり願っていた。」は完全にアウトだろう。率直な意見、ディスりを恐れぬ物言いが売りなのかもしれないけれど言っていいことと悪いことがあると思う。100歩譲ってもタワレコに載せる文章ではない)それでも鬼束ちひろについて何か書いてみようかなと思い今までぐるぐると彼女のことを考えていると、菊池さんがこのコラムで書いたことにも一理あるような気がしてきた(いまだに理解できない部分の方が多いけど)。
このコラム自体が短いものだから、いろいろ書きこぼしもたくさんあっただろうしこの分量でまとめちゃったからあとあと反感を招いてちひろファンから「殺すぞ」メールが届くことにもなったのかもしれない。でもどれだけ分量書いてもこのスタンスだったら結局過激派の逆鱗に触れることは避けられなかっただろうなとも思う。だけど、ファンから「殺すぞ」メールが届いたということが、その事実こそが、鬼束ちひろが「絶対者」「救済者」「オリジナル宗教のイコン」であることの証明になってしまったというのが、なんとも、皮肉。宗教というのは教祖と信者の二者があって成り立つもので、どこの宗教にも過激派もいれば原理主義派もいる。歌手とそのファンの関係も、なんとなくそれに似ている。


序章 わたしに見える世界だけがすべて

 とはいえ、ちひろが自分のことを<絶対者><救済者>だと認識していたのかどうかは、そんなこと本人に聞いてみないとわからないことだし本人に聞いたところで知らねえよそんなのって感じだろう。ただ、私の感覚では、とりわけ東芝EMI在籍時代の彼女は「わたしに見える範囲の世界のみが全てである」という世界に生きていたように思う。鬼束ちひろほど、「私(あたし)」が最上位に来る歌詞を書いていた人も珍しいんじゃないだろうか。

貴方は期待をして 負担をかける
巨大な揺れに
貴方は期待をして 誤解をする

私も期待をして それを待つ
愚かな揺れに
私も期待をしては また駄目になる

 漂流の羽根 / 鬼束ちひろ

彼女は、彼女の目に見えない範囲のことを徹底的に無視した。そして、彼女に見える範囲というのはただただ、「私」だった。彼女の興味は常に自分(私)に向いていた。そして、その「私」の立ち位置を相対的に確認し、「私」を引き立たせるためだけに「貴方」というワードを使っていた。だから、ちひろの書く「貴方」に実体はないのだと思う。ちひろの歌詞では「私」を否定的に書いていたり弱い存在として書いていたり、自ら貶めてみたりネガティブな「私」像が多いけれど、同時に「そんな弱い私が存在することは誰が何と言おうと正当である」と全力で主張する。彼女は、自分の中のいろいろに悩むことはあっても自分の存在という根本的なところは何ひとつ疑っていないのだ。そのあり方は見る人が見れば圧倒的な様に映るだろうし、そのあり方=「絶対者」ということなのかもしれない。

だけど菊池さんが「絶対者」と「救済者」を横並びにして書いてしまったのはちょっと大きくまとめすぎじゃないかなと思う。これは私の完全な主観であるけれど、ちひろは「絶対者」(あくまで彼女の小さな世界の中での)ではあったかもしれないが、「救済者」ではなかった。少なくとも、彼女に他人を(しかも「ファン」という全く対等な立場ではない人たちを)どうこうする、導こうという気はさらさらなかったように思われる。東芝EMI在籍時代の彼女のインタビューで「よく『癒し系』って言われるんですけど。違う。癒してないし」とばっさり切り捨てていた記憶がそれである。(もう私小学生とかそのくらいの記憶なので細部は曖昧、出典忘却、なのであまりあてにはしないでほしいのだけど、だけど「癒してないし」のあの言い方はまだ耳に焼き付いている。この発言だけは確実)

まあ、「癒してない」けど「ひれ伏せ」くらいは思っていたかもしれない。「わたしに見える範囲の世界のみが全て」、そして「その世界をこの視界で見るわたしこそ全て」であって彼女は君臨しているから。結局自分以外は自分以外でしかなく、視界も違う、見え方も違う、感じ方も違う。そんなものに用はないのだ。

だから彼女は発露しながらも内に向かう。どんどん掘り起こす。掘り起こした分だけどんどん出てくる。自分も周りも、これはすごいんじゃないかと思い始める。そして、ぽんと出てきた「I am GOD’S CHILD(私は神の子)」という一言に、彼女自身も、彼女の周囲も、壮絶なカルマに巻き込まれることになる。


第1章 神の子が『神』になるまで

I am GOD'S CHILD
(私は神の子供)
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)
こんなもののために生まれたんじゃない

  月光 / 鬼束ちひろ

 個人的には、東芝EMI在籍時代のちひろの楽曲群、主にアルバムの話をするけれど、インソムニアからSugar Highにいたるまでの一連の流れはひとつの物語になっており、そこでは「神の子として生まれ落ちた彼女が自ら『神』に取って代わろうとする過程」が描き出されているのだと思っている。

その流れは見事だ。父である神に捨てられ、腐敗した世界に落胆し絶望し、いじけて自暴自棄になったり、ひたすら自分は被害者だと訴えてみたり、とりあえず、世界に対して受身な姿勢からちひろの楽曲の世界は始まる。それが腐敗した世界の住人たちに受け入れられる。住人たちもまた腐敗しているので本気で神の子が来た! と祀り上げてしまう。すると彼女、最初はわけがわからなかったけれどそのうち「わたしはもしかすると、すごい存在なのかも」と考えが改まっていく。自分が他者に対して何らかの影響を、それも小さくないレベルのものを与えることができるということに気づいたとき、彼女は自分の能力を「使う」ことを覚える。

ここは腐敗している、かかわりたくない、わたしはひとりなんだ、はやく助けてよ、とばかり思っていた彼女がおずおずと立ち上がり、周囲を見回し、歩き出し、次第に「能動的に」世界と関わっていくようになる。

そうして行き着く先が「わたしはもはや『神の子』ではなく、自力で神の世界に戻ってそこで神そのものになる」という結論だったのではないか。


と私がぼんやりと思う根拠となるのがSugar Highの最後に収録された「BORDERLINE」という曲なのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=Ve1JSZH1S_8


今や「わたしこそが神である」とでもいうようなあり方だ。それは成長であり、かつて自分を捨てた父への復讐であり、声明である。


 聞こえるか。と。わたしの声が聞こえるか。と。わたしはここにいる。この世界に堕としただけでわたしを殺した気になったつもりか。わたしはここにいる。お前はもはやわたしを殺せない。さあ、お前はまだ、そこにいるか。わたしを見ているか。待っていろ、今そっちへ行く。


 私はこの曲を聴くと、本当に痛快だといつも思う。そして、鬼束ちひろ至上最もヤバい曲は「月光」とかではなくこの「BORDERLINE」だなと改めて思う。これは、彼女が神を引き摺り下ろそうとする曲だ。口元に笑みを浮かべ、ひたひたと忍び寄る、あるいは、階段を一段一段のぼっていく。よじのぼっていく。インソムニア「月光」で始まった彼女の物語は、Sugar Highのまさに最後に「神の爪先に手をかける」ところまで到達するのである。

FEEL ACROSS THE BORDERLINE
NOW YOU’RE SAVED AND YOU UNDERSTAND
さあ 神の指を舐めるの
FEEL ACROSS THE BORDERLINE
NOW YOU’RE SAVED AND YOU WAKE UP
さあ この運命を辿るの


 この詞が表す”YOU”の意味するところが「自分を捨てた父」だと読むと、もう完全なクーデターであり彼女は叛逆者ということになる。極論、神がちひろによって救われる構図となり、神の指とはちひろの指、この運命とは「わたしによって神の座を追われる運命」と読むこともできる。「わたしにその玉座を明け渡せ」と言っているのだ。この読み方は個人的な趣味としてはもう最高に燃えるのだけど、そんな変な読み方をしなくてもこの「BORDERLINE」が東芝EMI在籍時代の鬼束ちひろのキャリアにおいてとても大きな曲であることは確かだ。初代プロデューサー羽毛田氏もこの曲については「こんな歌もうJ-POPじゃないよ」と語っていたし(たぶん日本武道館ライブのドキュメンタリー番組にて)、それこそ菊池さんのコラムにもあるように「たかが歌手風情が」書く曲ではなかったのかもしれない。


第2章 バベルの塔は崩壊する

だから物語はここで終わらない。Sugar Highの発表後、声帯結節を患ったりなんだりいろいろあって、「私とワルツを」を最後に東芝EMIでの彼女の創作活動は終わる。
そしてSugar High以降のシングルたちで面白いなと思うのが「嵐が丘」。


この曲は、ちひろがふと正気に戻った、我に返った曲なんじゃないかと思っている。
それまでひたすら前へ前へ、上へ上へと拡大しつづけていた彼女がここで足を止めてしまう。自意識の肥大へのコントロールがだんだん利かなくなり、わたしはひょっとすると神ではなく、ただそう思い込んでいる狂った人間に過ぎないのではないか、だけどもとに戻ろうにも、もう自分で自分をコントロールすることもできない、聴衆(信者たち)もまたわたしを神の子だと信じて疑わない。後戻りができない。だったら今のわたしは何なのだろう。神でも人間でもない、
もはや、ただの「怪獣」、なのでは、ないか。

「月光」のときとはまた種類の違う絶望が少しずつ忍び寄ってきているようにも読める。個人的には、こっちの絶望の方がしんどいだろうなと思う。信じていたことが自分の中で少しずつ崩れ落ちていくのをどうすることもできず、ただ見ていることしかできないというのはとてもしんどい。いや、めちゃくちゃ好きなんだけどこの曲。鬼束ちひろが歌う「山月記」みたいな曲。そして彼女の軋みや揺らぎは音を立てるまでになり、とうとう事務所を移籍、最初のシングル「育つ雑草」で「私は今死んでいる」と歌うに至る。ここまで含めて、彼女の最初の、一連の物語が完結するのだ。

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なあんて完璧な展開なんだろう!

起こるべくして起こり、なるべくしてなっている。まさにバベルの塔が崩壊したのだと言ってもいい。すごい。鬼束ちひろという人は確かにこの世に存在する、同じ人間であるのにその軌跡はもはやフィクションか? と疑うくらいに良く出来ている。まさに物語、それも聖書にでも出てきそうな類のものなんである。読みたいように読んでいるだけでものすごく都合のいい解釈ではあるだろうけど。

(菊池さんも似たようなことを書いている。「歌を歌う、特に女性が、自意識を覚醒者、絶対者、降臨者、霊能者、後なんでもいいけど、そういう風に感じて疑わないことがどれほど罰当たりで危険なことか、ほとんどの人が知らないのではないか?」)


Intermission 1

それ以降、「LAS VEGAS」から「DOROTHY」収録のシングルたちは買ったけど「DOROTHY」自体は買ってないし、「剣と楓」も視聴はしたけど別にこれは買わんでもええなと思ったり(結局レンタルしてすらない)、自分の進学とか転居とかそういう環境の変化もあってちひろの活動や楽曲とは結構距離を置いていたので、この期間のことはよく知らない。私自身、派手な格好とか変な格好とか好きだし、月光のイメージもついていたことだし(そういえば常にAラインの服もしくはシンプルなTシャツにジーンズとかそんな格好ばっかり着ていたね)その反動も絶対あっただろうなと、服装やメイクについてはまあ好きなようにやれるようになってよかったねくらいにしか思っていなかったし、暴行事件のときもそれはプライベートなことだしほっといたれよという感じだったし、だけど確かに社会的に鬼束ちひろのイメージが180°変わっていくのを見ているのは少ししんどい気持ちもあった。「神の子が転落」というバベル崩壊のイメージは付きまとっているし、それがネタになるときもあったし、その、ちひろがネタとして扱われるというのがしんどかったし、でも本当はこれが彼女にとって自分を偽らなくてもいい最良のあり方なのかな、とも思ったし、ということでまあ外見については別に横に置いてもいいでしょうというのが私のスタンスではあったけど、たまたま(多分ほんとうにたまたま)「This Silence Is Mine」を視聴したことがあって、そのときはブチ切れそうになったのを覚えている。「なんやその声はァ!」という感じの。やっぱり歌手であるからには、たとえ外見がどうなったとしても声を死守してほしかった。この時期の彼女については、そのくらいの印象しかない。ので、割愛。


第3章 この世界で生きていく

 そして去年の秋に、メルマガで新曲を出しますというお知らせをもらい、トレイラーが公開されていたので試しに見てみた。「good bye my love」だった。


最初に見た印象は、おっ声に弾力が戻っているぞ、みたいな感じだったかと思う。「鬼束ちひろ完全復活」「昔からの鬼束ファンにはたまらない感じ」というプロモーションの仕方だったので、そうかあそこまでいうなら買ってもいいかなあ、でも本当なんだろうか…と半信半疑でアルバム「シンドローム」を買ったのだった。どうせならライブ音源ついてる方が得だと思い初回盤を。


聴いてみた感想としては、たぶんこう思うだろうなと思っていた「よくぞ戻ってきてくれた…!」という感激、というよりは、「あっ、折り合いがついたんだな」という不思議に得心したという感じだった。

この人は、自分はこの世界で生きていくしかないこと、自分は確かに「神の子」であったこと、だけどもう二度と神の国には戻れないのだということ、その心すべてをこの「シンドローム」でもって総括したんじゃないだろうか。

わたしは、ここで、生きていく。腐敗した世界に落とされたと自ら嘆き、怒り、憎み、蔑み、絶望し、自ら神にとって代わろうと天に手を伸ばし続けた軌跡に、今度こそ自分できちんと区切りをつけた。ように見えた。以前私は「東芝EMI時代のちひろは自分の世界の枠組みの中で恒星のごとく爆発していたのに対し、休止後はかつて自分が作った世界を俯瞰して包み込んでいる。次元がひとつ上がって自分の世界の神になった」みたいなことをtwitterに書いたことがあるのだけど、その延長で考えるとするならこの「シンドローム」は自分がかつて神として包み込んでいたはずのものは自分が思っていたよりずっとずっと小さな世界であったこと、自分だけの世界であったこと、を受け入れてひとりの「歌手」として、それ以上でも以下でもない自意識でこの世界に足をつけたその一歩目とでも表現できるだろうか。

同時に、自分が「神の子」であることを改めて受け入れたようにも感じられた。これは神聖な意味ではなくて、その神の子というのは自分の妄想に過ぎないかもしれない他人の幻想の投影に過ぎないのかもしれない自分は祀り上げられているだけなのかもしれない名前ばかりで中身のない全くの愚かなハリボテなのかもしれない、だけどそれでもいい。という、ある種の決意のようなもの。

若かった日の彼女がぽんと口に出してしまったI am GOD’S CHILDという自認に対して、今の彼女が初めて責任を取ったように見えた。自分に見えている自分と他人が見ている自分を天秤にかけて、昔の彼女だったら迷わず前者を取ったのだろうけど、今の彼女は静かに後者を選ぶのだろう。と、思っていたらシンドローム発売に寄せたナタリーのインタビューにまたハアーッと感じ入ってしまった。

 「今は自分をガンガン出すっていうより、みんなが求めてる鬼束ちひろ像に応えるっていうことをすごく重視してます。」
 「私が作ってるのは商品ですから。」
 「ファンの人たちはどんな鬼束ちひろが好きなんだろうって、そっちのほうが大事だなって思いました。」

すごい。まさかあの鬼束ちひろからこんな言葉が聞ける日が来るとは夢にも思っていなかった。めちゃくちゃ失礼だけど本気でそう思った。だけどよく思い返したらこの人は昔から竹を割ったような発言しかしてないよな、と気づいた。だけどこれらの発言に至るまでに彼女はどれだけの茨道をくぐり抜けてきたのだろうかと思うと勝手に胸が痛くなってしまう。私は彼女の何やねんという感じだけど(そもそも何でもない)、しみじみと、頑張りましたね…と頭を下げたくなってしまうのだ。

つよい人だ。さすが一度祀り上げられただけのことはある。本当はこのインタビューを読んで、かつて自分>>>>自分以外で神にさえなろうとしていたかつての彼女はどうあっても戻ってくることはないんだな、とちょっと切なくもなったけど、それこそ新興宗教のイコンの押し付けになるのでそういう大人げない考えは抑えることにした。少なくとも自覚できる範囲では、この人は職業として歌手をしているわけだから、と考えるのに努めることにしている。


Intermission 2

というのも、かつて私は、少なくともリアルタイムで東芝EMI時代の彼女を追いかけていた頃はほとんど彼女を崇拝していたからだ。
それこそ神で、イコンだった。もう夢と現実の区別がついていなかったのである。
偶然にも私の本名が同じ「ちひろ」であるということも非常にまずかった。私は彼女を見つけるまで芸能人の方で自分と同じ名前を持つ人に遭遇したことがなく、テレビから「ちひろ」という名前が聞こえてくること自体がめちゃくちゃ不思議な体験だった。
ファーストインプレッションからもう無意識に引き寄せられていた私はインソムニアを手に入れたときにはもういよいよヤバいことになった。インターネットが広まり始めていた時代、公式サイトから意味不明なファンメールを送りまくり(あれ絶対フィルターかけられて本人まで届いてないと思う)雑誌が出れば買い出演する歌番組は全部録画しWOWOWでライブが放送されるとなれば家にWOWOWが通ってないため親戚に頼んで録画してもらい生まれて初めてPVビデオを買うということも経験し、シングルは必ず発売日に買いアルバムは予約する、とにかく小学生がやれる範囲で全力を尽くした自負はある。

しかしある日テレビで芸人がネタで「月光」を披露したとき、怒り狂った私がテレビを壊さんばかりに喚き散らし挙句の果てには怒りで泣きだし、親からうるさいと怒鳴られるもいや今怒鳴られている場合じゃないこの事態がわからないのかちひろが貶められているのだこんなことがあってなるものか絶対に許さないこいつは死ね今すぐ死ね地獄に落ちろみたいな怒りがグワーッと渦巻いたあの感覚が未だに忘れられないし思い出すたびその気持ち悪さにぞっとする。完全にもうちひろを「歌手」として見ていなかった。


だから菊池さんがタワレコにあのコラムを書いたとき、殺すぞメールを送った奴の気持ちもわかるのだ。自分が崇め奉っていた存在を下界に引きずり降ろされたような感覚、汚い手でべたべたに触られてしまったような感覚、綺麗でなくては、完璧でなければならなかったものが無遠慮に汚されてしまったような感覚、わかるのだ。わかる。私だって持っている。だけどそれは危険な感覚だと、私は思う。別に何かを深く好きになること、特定のミュージシャンに傾倒すること、別にミュージシャンじゃなくても作家でも俳優でもなんでもいいけど、その気持ちを否定したいわけじゃなくてそれ自体は別にいいことだと思う。けど、それは柵の外にいる他者への攻撃、暴力を誘い起こすもの且つそれを正当化してしまうものでもあるということを、どこかで、1ミリでもいいから留め置きたい、私は。私が好きなのは、あるひとりの「歌手」であって、そのひとは決してこの世ならざるものではなくて、同じ人間だ。能力の差はあれど、存在のしかたは私と同じで、それ以上でも以下でもない。


第4章 2017全国ツアー「syndrome」

 と言いつつ思いつつ、先日全国ツアーの大阪公演に行ったんだけど、何気にはじめての鬼束ちひろコンサートだった。悲願といえば悲願だった。当日は楽しみというよりはめちゃくちゃ緊張していて、私はいったいこれからどこに行くつもりでいるんだろうと自分で自分が不思議だった。絶対に取り乱さない、絶対に変なテンションになってはだめ、絶対にちゃんと聴く、黙って聴く、集中して聴く、冷静さは失わない、みたいな妙な決意があった。

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でも、いざ暗転してステージに照明がついてgood bye my loveのイントロとともにちひろが登場して歌い出したとき、突然に、私は今ちひろと同じ空間にいるのだ! そこに! 彼女が! いる! という現実に圧倒されてしまって、泣いてしまったのだった。なんだよもう、みたいな。もうそろそろ私はこの人のことを人間として見れるようになっているだろう、もう小学生の頃とは違うんだ、と思っていたけど、それでもまだだめだったかあ、というか。両隣が女性でめちゃくちゃ静かな人たちだった(左側にいたお姉さん涼しい顔して酒飲んでた)の、今思えば助かった。とりあえず、ちゃんと聴いた。

終演後、帰り道がわからなかったのでとりあえず難波方面に行きそうな人たちについていったけど、周りで「すごかったね」「よかったね」「やっぱりCastle・imitation歌ってほしかったよねえ」「目が合ったときマジで涙ブワーッと出たわ、最後に手振ってる人とかいたけどそんなおこがましいことできんわ、マジ神じゃん」とか、いろんな感想をぼんやりした頭で聞いていたけど、じゃあ私自身の感想はどうだったんだろうと思うと、未だにこれという言葉で形容ができない。good bye my love歌い出しはさすがにピッチ怪しかったな、とか、まさかBORDERLINE歌うとは、とか、でもなんか不思議なセットリストだったな、とか、別にあそこまで照明の色ばちばち変えんでもよかったんじゃないかな、とか、単発の感想はわりとぽんぽん出てくるけど、じゃあ全体としてどうだったと聞かれたら、「夢だったな」という言葉くらいしか2ヶ月経った今でも出てこない。大してお腹も空いてないのにドトールに寄って、カフェモカ飲んで、チケットの半券と買ったノートとそれにくっついてきたちひろ直筆メッセージつきのポストカードをテーブルに並べて、もう3時間くらいそこに居てそうな隣の大学生たちの会話をただ聞いていることしかできなかった。夢だった。それだけだった。


 歌を聴く、ということについてはほとんど文句はなかった。特にDOROTHY収録のシングル曲たちは、やっと声が曲に追いついたというか、今やっとベストな形で外に出るようになったと思うし、昔と比べて純粋に「歌」で勝負している感じがする。歌詞よりも音楽、声、パフォーマンスが上位に来たと思う。彼女自身も「歌詞のメッセージ性は薄れていっている」と語っているし。歌うために詞があるようになったんだろう。それでいいと思う。純粋に「歌う行為」に特化した今の姿は本当にプロだなと思うし、そうだよ歌詞の世界がどうとか神々しいとか癒されるとかそういう二次的な感想の前に、この人は純粋にまず「歌が上手い人」なんだった、というのを、今更に思い出した。そうでした。という意味では、ちひろがこのシンドロームを「原点回帰」と語ったのと同様に、私も根本的なところに立ち戻ったような気がする。


 ついでにこれは前から思っていたことだけど、東芝EMIから抜け出したあとの彼女の楽曲は、音楽の面で進化したと思う。扱う楽器の幅も増えた。「ラストメロディー」のイントロとかもう何度聴いてもすばらしいなと惚れ惚れする。今回の全国ツアーでも、超意外だったけど歌ってくれて嬉しかった。

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なので、これから誰かに鬼束ちひろを紹介するとしたら、「歌が上手いよ」とか「音楽がいいよ」という方面からおすすめしたい。昔の私だったら「救われるよ」とか「神だよ」とかふつうに言ってそうだけどそれはもはや、宗教だから。


終章 miss you forever

 これからのちひろに求めることは、特にない。正直、2017年に至るまで歌手を続けてくれるとは思っていなかったから(初代プロデューサー羽毛田氏も「いきなり辞めそう」と語っていたし)もう活動を続けていただけるだけでそれでいいです…くらいにめちゃくちゃハードルが低い。だけど今のコンディション、とてもいいと思うのでそれを維持してほしいというか、自分が思うところまで突き進んでいってほしい。好きなように。
あとは、元気でいてほしい。思い悩むことや嫌なことがあまり起こらないでいてほしい。もはや老人が孫を見るかのような心境に至っているけど(ちひろの方が10歳上である)やはり、健康第一で好きなことをしてほしい。好きな服を着て好きな化粧をして、好きな映画を観たりして楽しく生きてほしい。


だけど、それでもあえて言いたい。

あなたは神の子。

この呼び名がどれだけあなたを縛ろうとも、一度でも自分を「神の子」と規定してしまったその罪深さ、業の深さはきっと消えたりしないだろう。あなたはきっと本当に神の子なのだ。歌い続けてほしい。恋い焦がれ続けてほしい。もう二度と戻れなくなってしまったあなたの神の国への、父なる神へのさみしい憧れを手放さないでほしい。折り合いをつけても、受け入れても、ほんの少しだけ、missを抱えていてほしい。わたしはここにいると歌ってほしい。その姿に、私はこれからも強く惹かれるのだろうと思う。

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 物語るとは、神に自分の存在を証明すること。
 わたしはここにいる、ここで、息をしている、今ここにいる、ここにいる、ここで生きている、生きている。わたしの生を、この呼吸を、存在を、全力で訴えるため声を上げるもの。

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I my me mine 或いは届かないSehnsucht
A little story of “nobody”
20170717
(20200202 ちょっと修正)




▽参考にしたものと記憶
・菊池さんのコラム(2004/11/04)
 http://tower.jp/article/series/2004/11/04/100045805
・鬼束ちひろ「シンドローム」インタビュー(2017/01/25)
 http://natalie.mu/music/pp/onitsukachihiro05

・トップランナー(NHK、2001/09/21)
・ARTIST DOCUMENT 神が舞い降りる瞬間 〜鬼束ちひろ・22歳の素顔〜(NHK総合、2003/01/03)


読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。