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Lily 2022

 ちょっとゆうちゃん、なんでこんな変な動画ずっと流してるの? こんなの変えちゃってくださいよお姉さん!
 二軒目に訪れたのはカウンターだけの、真新しい中華の店だった。先客であり店長の友人、端の席に陣取って甲高い声でのべつ幕無し喋り続けていた杏奈が、もう片方の端に座った私とゆりに声をかける。ゆりは苦笑しながらリモコンを手に取り、テレビに映っていた画面を止める。動画をザッピングするゆりが見つけたのは宇多田ヒカルの作業用BGMの動画だった。
 あっ、宇多田があるよ。と、ゆり。
 いいね。と、私。
 いいですねお姉さんそれにしよ! ていうかカラオケしよ! と、杏奈。
 宇多田は俺も女性アーティストの中では唯一聴く歌手ですね。と、店長。
 一曲目が流れ出す。

(ありがとう、と君に言われると なんだかせつない)

 聴き慣れたフレーズを、誰にも聞こえないように口ずさみながら、今年は宇多田ヒカルが流れるのだなと思った。
 去年、私とゆりの間を流れたOasisのことも思う。オアシスだね、と、流れる音楽を捕まえようとするかのように天井へと顔を上げた、クリスマスの日のゆりのことを思い出す。去年、向かい合って座った私たちは、今年、肩を並べてカウンターに座っている。

(The flavor of life.)


「初めて会ってからもう一年経つんだね」
「そうだね」
「あっという間だった。今年は何してたんだろう、息してるうちに終わっちゃった」
「小説を書いたでしょ。それに、住む場所を移すことはとてもエネルギーがいることだよ。息してただけなんてそんなことない」
 一年ぶりに会ったゆりは髪が伸びて、深いキャメル色をしたイヴ・サンローランのコートを着ていた。神楽坂のスターバックスで待ち合わせ、二人で坂を上り、私がずっと行きたかった一軒目のバーのカウンターにて、私には葡萄のお酒を、ゆりにはジントニックを。
 地元での暮らしはどう? と聞かれて、私はお酒を一口飲み下す。口の中に葡萄の香りがいっぱいに広がる。
「私の良さが一切生かされない感じかな」
 答えると、ゆりは少し顔をしかめて、わかるよと大きく頷いた。
「持って生まれたものを褒められる場所と、後から獲得したものを褒められる場所の二つがあって、田舎は多分持って生まれたものを褒められる場所なのね。だけど私たちにとっては、後から獲得したものの方が大事でしょう。文章を書くことだってそう」
 そう言って、ゆりはジントニックをくっと呷る。
「私が都会にいて、大事だと思っていたことは、あの場所では何にも、取るに足らないものだった」
 カウンターに肘をついて、私はぽつり呟く。
「東京に来たらいいじゃない」
 ゆりが軽やかに言った。私は振り向いて、えー? と笑う。するとゆりは、いや冗談抜きでさ、と返してくる。
「家賃がそんなに高くなくて、都心にも行きやすい物件ならいくらでも紹介してあげるよ」
 悪戯っぽく笑うゆり。


 文章を書くこと。
 もうどれだけの時間、その行為から遠ざかっていることだろうか。どれだけの間、私は私の手足を封じられ、東京にまで行って初めて本音も喉から出て来れるような、こんな状態になってしまっているのだろうか。故郷の冬に体は冷えて、感情も、思考も、言葉も、喉元と心臓で凍りついてしまう。心は重くなっていくばかり、まるで傘に雪がゆっくり降り積もっていくみたい。
 夏の盛りに、私は故郷の町へ戻ってきた。望んだ異動だった。望んで帰ってきた場所だった。家族との時間は穏やかで、あたたかい真水の中に体を浸しているようだった。ここで私は生を取り戻すのだと思っていた。
 けれど、どうやら違ったようだった。日を追うごとに私は真水の底へと沈み込み、ぷくぷくと泡を吐いて、吐き出せなかった酸素の分だけ息が苦しくなっていく。手足には錘がついて、水面に上がることも難しく、……

 ガタン、と突然音がして、私は体を震わせてキーボードを叩いていた手を止める。
 屋根から落ちた大きな雪が窓にぶつかってきたようだ。
 東京から戻ってきてすぐに故郷の天気は吹雪に変わった。今年いちばんだという寒気が空に留まり続けて、雪は夜の間も降り続き、この朝を起きると世界は真っ白になっていた。その世界の中をなおも埋め尽くそうとする灰色の雪の群れに視界は烟る。浅いホワイトアウトの予感にも人間一人ではなす術もない。

(さようならの後も消えぬ魔法 淡くほろ苦い)

 何の話をしていたんだっけ。


「今日はお友達だけの日だったんですか?」
「ああ、彼女たちは昔一緒にバイトしてた仲間で、もう10年くらい……あれ? みんなってもう30代?」
「にじゅうだいー!」
 店長が振り向いた先で杏奈が絶叫する。その声の大きさに思わず瞬きをしてしまう。それからワイングラスに手を伸ばして、ふっと、笑ってしまう。
 そんな20代ではなかった。杏奈と私では、過ごしてきた20代の模様は何から何まで違っていることだろう。綺麗な女友達に囲まれて、水を得た魚のように、機関銃の如く喋り続けている杏奈のことを少しだけ羨ましく思った。そんな20代ではなかった。だけどそれは、そうでしかあり得ないことだ。杏奈と私は違う人間で、違う体を持って、違う視界を持っている。足元に伸びている道も違う。私も杏奈もただ自分の道を通ってきただけで、むしろ、こうして同じ夜に同じ店で偶然にも出会ったことが、それが、奇跡なのだった。
「私ももう29だよやばいよ!」
 まるで30代が来たら世界が終わるかのように叫び続ける杏奈にまた笑ってしまう。別に30代が来たって、大丈夫だったよ。日々はただ続いていくだけだよ。そのうちに自分が30代であることにも慣れていくよ。
 そうしていろんなことを忘れていくよ。

 20代は10年全てを都会で過ごした。雪の降らない冬を知った。スニーカーで過ごせる冬に、からりと晴れ渡る冬に、心の底から感動した。都会に生きて、私が第一に得たものはこの明るい冬で、それが、最上にも近いほど大切なものだった。
 心にふたつの冬がある。これだけは、持って生まれないとわからないこと。
 都会の冬に身を置いて、その煌めく幸福を噛み締めながら、故郷の深い冬を思い、無心を目指して、私にはこれなのだと、これしかないのだと祈って、長い長い小説を書いていた日々。それしかいらないと思っていた私だけの時間。
 記憶の中の故郷の町をあんなに愛していたというのに、今はどうして。


「やっぱり思うんだけど」
 帰り道の神楽坂には冷たい雨が降っていて、私の傘にゆりを入れて、飯田橋駅へと向かう。雨音の中にゆりのパンプスが鳴る。歩き出してすぐに、ゆりが私を見ずに切り出す。
「文章を書くには心が動く必要があって、心が動くときっていうのは、人と会ったときなの」
 うん、と私は傘の中で頷く。
「だから、今日のことを書いてみて。それでもしも、書けたものが去年よりいいものじゃなかったら、あなたは都会に来ることを考えた方がいいと思う」
 ゆりはきっぱりと言い切る。
「自分の能力を維持するために、あなたはもっと苦しむべきよ」


 東京はどこに行ってきたの? と、両親の声がする。
 東京は、神楽坂に。私は短く答える。

(どうしたの? と急に聞かれると ううん、なんでもない)


 ゆりの言葉を手帳に書き記しながら、部屋の中に宇多田ヒカルが流れ続ける。
(降りつもる雪の白さをもっと 素直に喜びたいよ)
(自分のためにならないような 努力はやめた方がいいわ)
(I love you more than you’ll ever know)


 風の音に顔を上げる。立ち上がり、カーテンに手を伸ばす。
 雪が止むことはない。ここはもうすぐ閉ざされてしまうだろう。
 ふと、何もかもは夢だったみたい。神楽坂の喧騒も、赤い灯りも、お酒や料理の味も、杏奈の声も、ゆりの声も、あの夜の全ては、この灰色の雪にかき消されてしまう。
 “今日のことを書いてみて”
 だけどゆりの声がするのだ。
 何もかもを夢だったと、思ってはいけない。彼女のことを夢だったと、片付けてしまってはいけない。
 いつやめてしまってもいいと思っていた。もう書けないし、書くこともないと思っていた。私にそこまでの切実さはないと、本当はそんなもの始めから持っていなかったと、だから、私がやめてしまったところで誰も困らないし、誰も気に掛けることはないし、それでいいと思っていた。この真水の世界で私はどうにか私自身の方を順応させて、家族と共に生きていけるならそれでいい、それがいいのだと思っていた。
 だけど、まだこんなに、悔しいことが。
 悔しいことがたくさんある。


 消えていく音の中で、私はひとり、これしかないのだと祈っていた若き私を思い、書いてみてと声をかけてくれたゆりの横顔を思い、画面に向き直り、キーボードに指をのせる。
 まだ、雪が止むことはない。


Lily 2022 / 20221219

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