【けものフレンズ2】は視聴者=『ヒト』を行動展示するライブ型アートである(9話感想)
けものフレンズ2の第9話「おうちにおかえり」を視聴し、またネットの反応などを観察することで考えたこと書いていきたいと思います。
第9話の反応 「キュルルは酷いのか問題」
まず私のこれまでの立ち位置としてですが、
第6話までの感想として以前のnoteにて本作では演出、脚本についてはかなり問題があるのではないか?という意見を述べております。
その上で今回第9話に関しては3回通して見て以下のような感想をもちました。
●初見の段階(ニコ生コメ付きは未視聴です)
わりとドラマ性があっていままでの中ではマシな回?(7話、8話は虚無感があった)ただし1話からの伏線回収としては拍子抜け。イエイヌは可愛いし可愛そう。
↓
●2回目の段階(ツイッターなどの意見をみて)
「いわれてみるとキュルルちゃんが酷いやつに見える・・」
↓
●3回目の視聴(さらにツイッターの意見を見て)
「キュルルちゃんが酷いとは一概には言えない。しかしこの作品は何かが足りない。そしてそれはネット上で荒れるように「意図的に雑」に作られているのではないか??」
という感想になりました。
そして最終的に今回のタイトルである【けものフレンズ2】は視聴者=『ヒト』を行動展示するライブ型アートであるという考えに至ったのですが、細かくは後ほど説明いたします。
世間の反応は炎上レベル
一方、世間の評価として今回のけものフレンズ2第9話は炎上レベルで叩かれているとのことでした。
この中で多いクレームが「イエイヌ」可愛そうなのは物語上アリだとしても、主人公のキュルルちゃんが命がけで守ったのに対してまったくその後配慮していない、「キュルルはサイコパスなんではないか?」というような意見が多かったです。
私は9話を見返す中で、確かにキュルルはイエイヌに対して配慮に欠けるような気がしました。ただサイコパスといわれるほどキュルルはひどくはないと思います。ひょっとするとシナリオというより演出でカバーできた問題なのかと思います。
私としては今回の制作側の誤算としては、
・思った以上にイエイヌちゃんがカワイすぎるキャラだった
・思った以上に泥だらけで傷ついているのがショッキングだった
・思った以上にキュルルちゃんのイエイヌへのスルー対応が冷淡にみえた
という点にあり、これらは質の面もありますが、量(さじ加減)の意味も大きかったのではないかという感想を抱きました。
そんな中でこちらのブログの意見が擁護派の意見として大変参考になりました。
こちらの方はある意味ユーモアのセンスをもって書かれており、作品を100%擁護する立場というより考察の結果として世間とは別の視点を提示しています。
いずれにしても非常に興味深い内容でした。
記事の内容は結構まじめに制作側の意図を突いており、あくまで「制作側の意図の読み解き」としては私も同様な感覚を受けました。
ただしそれが受け手に伝わっている表現になっているかというと色々と難しい面があったかと思いますが、あまりに極端な意見は控えたほうが良いのではないかと思いました。
とはいえ『ヒト』の意見はさまざまである
しかしながら本作品はご存知のように前作けものフレンズからの監督降板騒動や、旧作にあった「やさしい世界」との乖離があり、twitter内でも、さまざまな文脈から多様な意見が出されているのを多く目にしております。
うーんよくわからない…。正しさを口にすればヒトはみな傷ついていく…。
しかし!
わたしはここまで色々な意見をみてある真実に気が付きました。
それは
9話本編の内容よりも『ヒト』の感想の方がめちゃくちゃ面白い!
ということです。
ここで私は思いました
『逆に考えるんだッ!』と。
つまり本作の狙いは
・作品に(わざと?)ツッコミどころを用意
・ユーザーを巣穴(お家)からネットやSNSに引きずり出す
・そのことでジャパリパークの境界線を現実世界にまで拡大
・我々視聴者である『ヒト』をネットによって行動展示
ということにあるのではないかということです。
つまり我々は本作ではこの『ヒト』の行動展示こそを最大限に楽しむべきなのではないかという考えです。
なお行動展示についてはの説明は以下の通りです。
行動展示
行動展示(こうどうてんじ)または行動学的展示(こうどうがくてきてんじ)とは、その動物の生態やそれに伴う能力を、自然に誘発させて観賞者に見せるように工夫した展示。 日本では旭川市旭山動物園で有名になった。これに対し、生きた動物の身体的特徴を見せるだけの展示を形態展示という。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』※太字は筆者
この「自然に誘発させる」というところが肝で「視聴者がツッコミたくなる仕掛け」こそがけものフレンズ2の真髄をなすものといえるのではないでしょうか。
また、たつき監督作品の「ケムリクサ」と同時期に放映している点もまさにライブで我々『ヒト』の性質を展示するにふさわしい意義のある環境といえます。
なお行動展示とけものフレンズについては以下の記事が大変興味深い内容の記事があり、そちらも参考にさせていただきました。
この記事では「けものフレンズ2」は「初代けものフレンズ」おいて行われていた動物の行動展示がまったくできていないという指摘があり、それはまさにそのとおりなのですが、逆に『ヒト』に影響を受けたチグハグな動物描写だからこそ、ネット空間に存在する『ヒト』をライブ形式で行動展示を活性化させるという意味では優れているといえます。
ゆえにわたしは繰り返しますが、あえてこう言おうと思います。
【けものフレンズ2】は視聴者=『ヒト』を行動展示するライブ型アートである。
だからこそ「今」自らを使って楽しめと。
展示される『ヒト』とはなにかを考える。
しかし一方で、もしそういう意図であるならば、制作側はなぜファンに嫌われるようなやり方をするのだろうかという疑問を私は抱いていました。
彼らは『ヒト』は美しい面と美しくない面を両方持ち合わせており、だからこそそれが『ヒト』なのだ!という形で『ヒト』を行動展示しようとしているのではないかと感じます。
しかしそれは初代「けものフレンズ」の「やさしい世界」の手法とは異なるものでそこに摩擦が生まれていると考えられます。
それらの考えは以下の制作側のインタビューが参考になるかと思います。
<上記サイトより引用抜粋>※太字は筆者
質問2
(質問1に付随して)前作では「ヒトとは何か?」というテーマが内包されていましたが、それと同じ、または近い、もしくは発展したテーマが描かれますか? またそれはどんなものでしょうか?
木村監督
「ヒトとは何か?」というのは引き続きですが、『2』は「人間にとって家とは何なのか」を、様々なフレンズとの対話を通して描ければと思っています。
ますもと
今回は動物とのかかわりを含めたヒトが持つ社会性もテーマになると思います。キュルルはいわゆる「ホモ・ルーデンス」(※)でもありつつ、その遊びによっておうちの外で他者との関わりを学んでいきます。
また、ヒトの社会については広い目で見ると作品の中だけでなく『けものフレンズ』そのものをとりまく状況こそ、それをよく表していると思います。これは前作からの「ヒトとは何か?」というテーマにも合っていると思います。
※ホモ・ルーデンスとは20世紀の歴史学者・ホイジンガの著書で、人間の本質を“遊び”にあるとする考え方のこと。
このように脚本のますもと氏自体からも『ヒト』作品を超えた行動展示の示唆は既になされており、さらに興味深いのは『ヒト』を「ホモ・ルーデンス」(人間は遊ぶ存在)ということを言っているという点は見逃せないかと思います。
我々は『ヒトのやさしさ』を展示する”ゲーム”を仕掛けられている。
私が思うに制作者側は今回「やさしくない世界(甘くない世界)」というものを『ヒト』の行動展示として誘導しているように思います。
それは「けものフレンズ」ではない一般の作品では普通に行われていることであり、一つの考えてあると私も認めますが、あえて「けものフレンズ」の続編としてやっているところがかなり挑戦的ではあります。
一方で私が思うに『ヒト』が「ホモ・ルーデンス」という立場を制作者側がとるのであれば、このライブ型アートもある種の”遊び”になっていなければ筋が通っていないと考えます。
つまり制作側は視聴者に一種の”ゲーム”を仕掛けており、
そのルールは
制作者が「やさしくない世界」へ誘導する一方で、視聴者はこれに対抗して「やさしい世界」を展示することが視聴者側の勝利条件
というものではないでしょうか。
わたしは割とマジな話、最終回でキュルルちゃんが突然視聴者の方に向かって「視聴者諸君、君たち『ヒト』の愚かさをたっぷりと観察させてもらったよ」とメタ語りを始めるのではないかと恐れております。
そういったムカつく展開が仮にあっても、正々堂々といられるようなゲーム運びを視聴者がしていければ良いのになぁと考えている次第です。
だからこそ「スポイルスポート(遊び破り)」はすべきでない。
前出の「ホモ・ルーデンス」の著者ホイジンカは『ヒト』の本質は”遊び”にあるとしつつ、一方で遊びを破壊する存在(スポイルスポート)があることを指摘しています。
私はこの仕掛られた『ヒト』の行動展示という”遊び”の中では
”人格の否定を行う”ということが遊び破りに相当すると考えます。
私はそれこそがしてはいけない唯一のことであり、”遊び”の成立を妨げる最悪のものだと考えます。
逆に言えば、それ以外ならば作品自体への文句や、奇想天外な考察、ストーリー救済のための二次創作などはむしろ楽しんでどんどんやるべきではないかと思います。
たとえ意見の違いはあっても『ヒト』同士はゆるく「フレンズ」であることを示していく方がこの”遊び”はきっと楽しいのではないでしょうか。
(実のところそのような意志はけものフレンズ2の物語にも既に内包されているものと私は感じています。ただ不器用なだけで…)
『ヒト』は不足分を予測して補う能力がある
ちょっと話はそれますが、ちょうど9話放送直後の3/13にNHKで放映された
又吉直樹のヘウレーカ!「ボクらはなぜ“絵”を描くのか?」がけものフレンズ2を考える上で大変興味深い内容でした。
この番組の中では1つの実験が紹介されていました。
チンパンジーと人間の子供が顔の書かれていない猿の絵に対して追記する形で絵を描くという実験なのですが、人間の子供が書かれていない顔を描く一方、チンパンジーはどんなに賢くてもそういった「不足分を予測して補う」という能力をもたないということが結論としてわかるというものでした。
私はこれをみてけものフレンズ2があえて「不足分」を作ることで『ヒト』として何かを補うということを誘導していると改めて考えました。
それはまさに『ヒト』にしかできない行動であり『ヒト』の行動展示では欠かせないものといえるでしょう。
そして、人間は絵を見たままの画像としては捉えず、いったん言葉にしてそれを再度絵の形に構築すると紹介しています。(故に人物の目や口が記号的にデフォルメしてしまうということが番組内では紹介されています)
これはどうしても『ヒト』は他人の言葉によってバイアスがかかってしまうということを表しているともいえます。
また番組の中では『ヒト』は同じ対象を描いてもそれぞれが全くことなる絵になることを紹介しています。
その理由として『<みる>ということがそもそもクリエイティブだ』というアンリ・マティスの言葉を引用して『ヒト』の特徴を説明しています。
これは他人の影響だけでなく今までの人生の文脈自体が『ヒト』の表現には現れてくるということを意味していると思います。
だからこそ、私はけものフレンズ2の展示物である『ヒト』がよりクリエイティブな存在として展示されることを望みます。
まとめ
以上はかなり強引ではありますが、いい意味で作品自体の雑さをハックしていく手法として、自分なりに見つけた「けものフレンズ2の楽しみ方」をお伝えしたつもりです。
この記事自体もある意味『ヒト』のユニークな行動として展示されているならば私としては本望です。
書きたいことは以上です。
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