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quiqui「もう少しの暦」を紐解く 前編

今年最も心酔しているバンド、岐阜を拠点に活動しているquiqui(キキ)について、自分なりにずっとちゃんとしたものを書きたいと思っていたのですが、にわかファンである自分にはうまく書けないなと諦めていました。しかし、1stアルバムもサブスクで解禁され、より多くの人が手軽にこの"世紀の名盤"を聴けるようになったこともあって、この機会に思い切ってこの素晴らしいバンドと作品について思いの丈を書いてみようと思います。

ただ、これを書いているのは若い音楽好きな青年でも女子でもなく、ただの変なおじさんです。「そうです、私が・・」と言いたくなる、ただの会社員の変なおっさんです。変なおっさんなのにメンバーがまだ20代後半のバンドの熱烈なファンになりました。

誰でも若い時は年下の奴の音楽なんて聴かねーとか、どうせ自分より音楽聴いてない若僧のやってる音楽なんて聴く価値ないわとか思ったりすると思うのですが、30歳を超えるとそんなことはどうでも良くなり、良いものは良い、年齢なんて関係ないってことを認め出します。

そして、quiquiのメンバーもそうですが、若くても音楽に詳しい人は沢山いるし、自分よりいろんなジャンルを聴いてる人も沢山いる。そういう人は年齢関係なく年下でも普通に尊敬しています。全然自分は音楽語っちゃいけないな、もっと学ばないとな、と思い知らされます。

話しが逸れましたが、この記事は脈絡の無いめちゃくちゃ長いものになって、面白くないし読むのもダルいものになるかと思いますが、もし読んで下さる方がいて、彼らの良さが少しでも伝われば幸いです。伝わる伝わらないにこだわらずただ書きたいから書いているという面が大きいですが。

quiquiの来歴については↓の彼らのレーベル元、ディストロ3LAのインタヴュー記事に詳しいです。

1stフルアルバム 「もう少しの暦」

quiquiにハマるきっかけになったのは今年の2月くらいにこのアルバムを買って聴いたことからです。激情ハードコア界隈の方達には昔から馴染みのあるバンドだと思いますが、そういうのを全く聴いてこなかった自分には完全に未知の音楽と対面した気がしました。よく分からないけど、訴えかけてくるものがあるのはわかる。だからこそ余計に、この音楽はなんだ?このアルバムはなんだ?と10回くらい繰り返し聴いたことから、だんだん良さがわかるようになり、どんどん好きになってのめり込むようになりました。

これ以前に今作までの音源をまとめた編集盤「町の鈴生り」という作品は聴いていたのですが、正直そこまで良いとは思いませんでした。カッコいいとは思うし、何曲か最高だなと思う曲はあったのですが、それ以上の感想は持ちませんでした。

それなのに、「もう少しの暦」で完全に魅了された今では、日常的になんでもquiquiに結びつけて考えてしまうほど、quiqui熱に侵されています。

「もう少しの暦」を聴いた感想は以前noteに書いたものが割りとよく感動を表現出来ていると思うので、転載しておきます。↓

アルバムの内容に関しても完全には消化しきれていないのですが、何百回繰り返し聴こうが、何年かかろうが、今作を紐解きたいと思ってしまうほど、心に訴えかけてくるものがある魅力のある一枚です。受けている感動を上手く言葉に変換出来なくてもどかしいのですが、聴く人の根幹を為す物凄く繊細な部分、日々生活していく中で誰しもの心の中に澱のようにたまっていく"ナニカ"に触れてくる作品だからだと思います。曲単位で聴くというよりもアルバムとして通して聴きたくなる作品ですが、個人的にはラストの「部屋に戻る」という曲が最高に好きです。物憂げで感傷的でどこか温かみもある歪んだノイズをずっと聴いていたくなりますね。将来自分の息子にも「これだけは聴け」と受け継がせたいアルバムの中の一枚に加わりました。


紐解き1 skramz jazz

今作はskramz jazzと銘打たれています。そもそもskramzという言葉がジャンル名であるということすらも知らなかったのですが、作品を紐解くために今日まで可能な限り勉強は続けてきて、いまなお勉強中です。そしてわかったことは、わからないということだけです・・・。何をもってskramzというのか。音を聴けばなんとなくはわかるのですが、これはskramz、これはskramzじゃないとわけることはできません。という程度の知識しか身につきませんでした。

昨今幅広く使われている「エモ」の語源にもなっているハードコア・パンクの発展型=エモーショナル・ハードコア(エモティブ・ハードコア)から、カオティック・ハードコア、エモ・ヴァイオレンス、スクリーモ、リアル・スクリーモ、そしてskramzなどと細分化しているようです。この辺の違いが本当によくわかりません。

要するにskramz jazzのskramzの部分を曖昧な認識でしか把握出来ていないのですが、skramzとjazzの共通点を自分なりに考えてみました。ちなみに、音楽の知識が全くない素人の考察なので、ただ印象で語っています。

skramzに関しては3laのskramz講座が大変参考になります。私も各回5回ずつは観ているのですが、それでもまだ理解出来ていませんが・・・。

共通点1 精神性での互換

skramz(ハードコア)とジャズに共通する精神として、追究する・極めるという面があるなと思いました。ハードコアと言っても人によってイメージが違うかもですが、私の思うハードコアは反商業主義や反欲・克己心などの己の思想を体現するために自分(たち)の音楽を極める、とことん突き進める、自分自身に制約を設けたスタイルで活動する、などだと思っています。

jazzは自分(たち)の音楽の可能性を追究するもの、即興によってその曲の可能性を最大限まで引き出す・極めるもの、という認識を持っています。

よってskramzとjazzに共通するのは、己の音楽を追究する姿勢という点が挙げられるなと思いました。

共通点2 使用されているコードの多さ

曲中に使用されているコードの多さも共通点として挙げられるかなと思います。「ロック・パンクは3万人の前で3コードを使う、ジャズは300人の前で3千種類のコードを使う」というようなことを誰かがTVで言っていたのですが、skramzに置いてはその使用されているコードの特異さと多さがあるなと思いました。

と、書きましたが、このことは全くの見当違いの考察かも知れません。

まとめ ・・・・・・

この「もう少しの暦」を聴いて、無知な自分には正直どこにJAZZの要素が入ってるのか分からなくて自分なりに考え出し、音楽的な技術や知識ではなく、精神的なものなのかなと思い至って、あれこれ考えてみました。これからもまだまだ考え続けていきたいと思います。

紐解き2 「もう少しの暦」というタイトル

この難しくない言葉が繋がっているだけですが、にわかにはよくわからない「もう少しの暦」というタイトル。「もう少しの」は文字通りもう少しという意味だと思うのですが、それに連なる「暦」という名詞は多い少ないで表す物ではないため、よくわからない言葉になっています。

「もう少しの」に続いてしっくり来る言葉ならいくらでもあるのに、なぜ「暦」なのか。

歳月、年月を表す言葉として暦を時間と言い換えてみると、「もう少しの」時間となります。そうするとまだ理解出来る気がします。もう少し時間があれば、という後悔の念を意味するタイトルなのか。時間はもう少ししか残っていない、という過ぎ去りし時間(暦)を思い返しての、もう少しの暦(時間)なのか。

個人的に現状1番しっくり来ている解釈は、青春時代の終わりを悟って感じる、この世は常ならむの無常感、寂寥感を「もう少しの暦」という言葉で表した、というものです。

この作品を聴いた他の方がどういう解釈をするのか凄く気になります。座談会とかしたいですね。

前編の終わり​

一回で終わろうと思ったのですが、あまりにも長くなりそうなので、前編と後編に分けようと思います。後編は曲ごとに紐解いていくということをしています。このぎゅうぎゅうに固結びされた作品が本当に紐解けるのかはわかりません。良かったら後編も読んでいただけたら幸いです。ありがとうございました。

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