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不登校を受け入れることは簡単ではなかった

子どもが不登校になった初期の頃は、毎日が憂鬱で、子どもの様子に一喜一憂していました。
学校に行く日もあったり、行かなかったり。

子どもが安定してなかったので、私の気持ちも、行動も巻き込まれてしまって不安定でした。

不安定と言えばすごく落ち着いて聞こえますが、実際はイライラをまき散らしたかと思えば、不安に押しつぶされて泣いている日もあったり、まあ、家族にとっては「どうにかしてくれよ」な母でした。

当然そんな自分もしんどい訳で、どうにかしたくてもがいていたのです。

子どもの不登校がそんなに私を揺さぶるのは、私の中にあった当たり前が通用しなかったからなんです。

子どもは学校へ行くもの。
勉強して、友達と遊んで、習い事して、毎日忙しい。
家ではご飯食べて、宿題して、家族とおしゃべりして、ゆっくり休む。

忙しく、ワーワー言っているうちに月日が過ぎていく。

そんな毎日のはずが、朝から起きてこない。
学校に行かない。
勉強しない。
友達と遊ばない、、、。

この先どうなるんだろう?!と怖くなった。

味わいたくない怖さ。

「不登校」というものは、できることなら経験したくない。
想像するだけで、大変そうだから。

そう思う親は多いと思う。

この味わいたくない怖さも、大変そうって思うのも、根底にあるのは何だろう?

「子どもが学校に行かない」この現実を受け止めるには、感じている怖さから逃げていてはだめだなと思った。

世間からみられる「かわいそうに」みたいな視線も、何がかわいそうなんだろう?と自分なりに理解する必要があった。

これらをしっかりと言葉にすることができた時に、「不登校を受け入れる」ということが腹の底からできたように思います。

腹をくくったともいえるかもしれない。

ここから先は、記事にするのをずっとためらっていたことです。
いろんな考え方がある中で、きっと違う意見がある。
私なりに出した答えについて、意見されると自信を無くしそうだな、、、なんて恐れているからだな。きっと。
でも、気持ちがブレずに、私たちは大丈夫です!と胸を張れるようになったことなので、誰かのこころにプラスをあげられるかもしれないなと思ったので、書きますね。

不登校で悩んでいる人に対して、大丈夫だよと励ましてくれる人がたくさんいます。

「みんな違ってみんないい」
「それぞれの考えを尊重しよう」
「助け合って生きていけたらいいじゃない」

うん。そうだね。
学校に行かないという選択を責めていては先に進めないもんね。
学びは学校以外の場所でもできる。

こうやって前を向いてもまだ怖さは消えない。
やはり、できることなら学校に行ってほしい。
大変だな。という思いもぬぐえない。

不登校 イコール 引きこもり
なんとなくそんなイメージがある。
決してそうなるとは限らないのに。

でも、そうなることを恐れているのも確かなんだ。
どうにかして、避けたくて、学校に行ってくれたら、、、って望むんだ。

では、なぜ引きこもりになってほしくないんだろうか?

子育てに失敗したことになる?
母親失格だねって言われそう?
子どもが自立できなくて、いつまでも面倒を見続けなきゃいけなくなる?
働かないから生活できなくて生きていけない?

なんか、「子どもが引きこもりだから」という理由で、私が不幸になる。と言っているような気がして、これは上っ面な話だなと思った。

本当に恐れていることはこれではない。
子どものせいにしているのはどこか親子でネガティブな依存の関係がありそうだ。
私は子どもがどうであれ、幸せに生きることができるはず。

もっと自分の根底にある怖さ。
何だろう。

私たちが義務教育を受け、社会生活が送れるように学びの場があるのは、「役に立つ人になるため」「社会の中の一人として、ひとつの歯車となって社会全体を支える人になるため」なんだよな。

社会の一員になる。

人に優しく。
役に立つように。
喜ばれる人になりなさい。

そうなれるように、できる力を活かして生きている。

役に立つ側でいるんだよね。
そのつもりでずーーーーっと生きてきた。

これがひっくり返ることがあるんだけど、できればそうなりたくなくて、頑張っている。

だけど、子どもがもし社会の一員として役に立てないとなったら、、、、
社会を頼ることでようやく生きていける人となったら、、、、

受け容れることができるんだろうか、、、、。

役に立てていると思う時には、
それを受け取ってくれる相手がいる。

与える側と受け取る側
する人とされる人。

受け取る側、される人になることを想定して生きていないんだよね。

「みんな違ってみんないい」とか、
「支え合って生きている」
そんな言葉にどこか違和感を感じるのは、
する側、役に立つ側でいたいと思っているからなのかもしれない。

される側、与えてもらう側になった時に、
「ありがとう」と受け取れるんだろうか?

何にもできなくて、してもらってばかりで、
「ごめんなさい」
「申し訳ない」
そんな風に思ってしまうかも。

役に立てなくて、生きてていいんだろうか?
社会のお荷物なんじゃないか?
そう思ったら、消えてしまいたくなるような、存在することがいけない事のように思いそうで、怖い。

社会でなんの役にも立たない存在になりたくなくない。
そう思う私がいる。

そして、ハタと自分の考えの偏りに気づく。
なりたくないという考えを持っているということは、私は社会的な援助を受けて生きている人に対して、なんにも役に立てないと思っているのではないか。
その人の存在を気の毒なとか、かわいそうにという目で見ているんではないか。

これは、ひどい。
そんな最低な自分のことを直視することが嫌で逃げていたんだな。
今私の中でそんな最低な思いがあるから、「そうはなりたくない」と抵抗しているんだ。

だから、「みんな違ってみんないい」の言葉に「いいのか?」と疑問を持っているんだ。どんな人もいていいなんて思っていない自分がいる。

子どもの不登校をどこか受け止めきれなかったのは、そんな自分の中にある最低な考え方を揺さぶるからだったんだ。

よく考えてみたら、役にたつ側でいたいと願っていても、突然病気や事故で受ける側になることなんで誰にでも起こりうる。
そして、不登校だけじゃなく、こころのつまづきは大人になってからも起こりうる。
そうなった時に、私は「申し訳ない」「ごめんなさい」と謝りながら生きるのだろうか?

これはつらいな。

出来ない事は助けてもらって、出来ることを精いっぱいする。
そして、与えてもらったことに対して、「ごめんなさい」ではなく、「ありがとう」と感謝しながら受け取る。
そんな人になりたいなと思った。

申し訳ありませんではなくて、ありがとうで受け取る。
そんな人になるにはどうしたらなれるんだろう?

こんな風に考え始めたころから、子どもの不登校は私の人生の中で起きているほんの小さな出来事なんじゃないかと思うようになった。

役に立てているかどうかで人の価値を判断するような器のちっちゃい私から、そんなのどうでもよくて、みんな今生きていることが大事。
生きている”今”をどう過ごすかを考えられる人になった方がきっと豊なはず。

目の前に起きていることを、「出来てない」「やれてない」とみるよりも、「これができてる」「素晴らしい」と見れる人になりたい。

自分の中にあった最低な自分。それを見つけたことで、考え方の偏りを知った。
偏った自分をどうしたら真ん中に持ってこられるんだろう?こうやって考えることができたら、「みんな違ってみんないい」という言葉が、「確かに。そうなれたらいいね。」とすんなり受け取れるようになった。

不登校の子どもがいる。私はその親だ。
世間一般からズレている。
少数派の方になっている。
この事実を受け止めよう。
役に立つ側でなく、受け取る側になるとしても、それをも受け止める。
この覚悟が決まった時に、
「出来ることをやるしかないんだ」とこころが決まりました。

学校に行かないのなら、何をしようか?
そうやって素直に子どもに話が出来るようになってから、子どもとの関係もやさしいモノへと変わっていきました。

そして、その後、子どもたちは自分の出来ることを活かして仕事も勉強も頑張れるようになりました。
社会の中の一員として、自分の出来ることをしています。
これでいいんだなと思ってる。

学校に行くことは、そのこと自体当たり前じゃないんだな。
誰がどうなるために?を一度しっかり考えることがあってもいいのかもな。


自分の中にあったひどい自分。
これをさらけ出すのが怖かった。
偽善者だったんだな私。ひぃ。
でも今は、いい人ぶるでもなく、へりくだるでもなく、フラットにいられるようになれたんじゃないかと思ってる。

長々とお付き合いくださりありがとうございました。




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