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睡沢週報 #51 音楽とナイル川と時間的支流

忙しい中でも創作活動を継続している、ただそれだけのことで自分を褒めるのは堕落なのか、それともセルフケアなのか。すぐには答えが出そうにないが、いずれ結果にはなるだろう。

家族が食べていたのを見て久しぶりにカップ焼きそばを食べた。しばらく減量していたから本当に久しぶりのジャンクフードだ。濃くて強い味は好きだけど、半分でいいな。

カップ焼きそばを食べると必ず6時間以内に肌荒れと胃もたれと胸焼けと喉の痛みが発生するから、多分アレルギーがある。具体的にカップ焼きそばのどの成分なのかはわからない。

似た現象がインドカレーでも発生する。インドカレーの場合は高熱とめまいが主な症状。どのスパイスが原因なのか特定するにはインドカレーは複雑すぎる。

ジャンクフードを食べて、音楽を流して、溜めに溜めた家事をやっつけて、それで休日が終わる。

音楽を絶やさない

昔はガレージロックやパンクをよく聴いていた。2000年以降のガレージロック・リバイバルにも好きなバンドが多い。ジェット、ザ・ハイヴス、ザ・ホワイトストライプスあたり。

好きになる音楽は大体聴き心地のいい、場合によっては批評家に悪い意味でイージーリスニング的と評されてしまうようなものが多い。ライブが好きだからというのもあるかもしれない。

一方で、本当に刺さって抜けなくなる音楽は少し方向性が違う。感情を揺さぶってくるような歌詞、一人でしみじみと感じ入りたくなるようなメロディ、どこか記憶と重なるようなアトモスフィア。

この「夜明けまで」という曲はにじさんじに所属するVTuber緑仙のオリジナル楽曲で、私にとって特別なお気に入りだ。

必ずしもチル系とは限らない。温かみのあるシティポップにもお気に入りはあるし、昔から応援しているバンドはグルーヴィーなラテン要素の強いワールドミュージックをやっている。

近年は『ぼっち・ざ・ろっく』の影響か、音楽の話題があちこちにあふれている。世代を超えた音楽トークができるのは楽しい。

意外な発見もある。以前記事でも話題にしたが、サブスク世代にとってアーティストの時代区分は鑑賞の区分として必ずしも機能しない。同じプレイリストにイギーポップとザ・キラーズが入っていたりする。

私のお気に入り、sumikaの「Lovers」だ。sumikaは活動歴の長いバンドで、私もかなり前からファンだった。軽やかで、しかし奥行きのあるサウンド。歌詞のひとつひとつにも思い入れがある。

この曲を知った当時は周りに紹介するのが難しかった。こういうリズミカルなポップスはざっくりと「星野源的」でくくられてしまっていたからだ。

創作をやる身として、おすすめした作品が「〇〇に似てる」で片付けられるのは嫌だ。最悪の気分になる。最近は音楽の時代的越境が進んだことで「〇〇に似てる」を食らう頻度が減った。嬉しい。

ナイル川水源問題

ナイルの水源は19世紀の欧州列強にとって重要な問題だった。エジプトがヨーロッパ、アジア、アフリカの三角形を構築する、またはそれを阻害する上での要衝だったからだ。

当時、冒険家たちは名誉ある研究者だった。専門知と情熱を駆使して、「ナイル川は一体どこから来ているのか」という難題を追い求めていた。ときには互いの説を衝突させ、対立することもあったという。

月の山脈という伝説がある。ナイル川の源流とされる山脈で、万年雪を被った神秘的な銀色の霊峰だ。当時の伝承は古代ギリシャ人が記録に残している。彼らもまたナイル川の源流を探っていた。

水源が特定されるまで人々は真剣に月の山脈を探していた。当時残されていた地図では、現在のウガンダ共和国あたりにあるとされていた。後にその一帯はイギリスの帝国経済圏を構築する植民地のひとつとなるが、発見までにはそういう過程があった。

知ってのとおりナイル川というやつはとんでもない大河だ。支流も多く、「どれが本流のナイル川なのか」でも対立が生じた。

なぜ突然ナイル川の話をしたのか。この支流による対立の話がしたかった。回りくどい話をする私はもう老人なのかもしれないなあ。

時間的支流は択一ではない

どんな作品も既存の何かから影響を受けている。直接インスパイアを受けている場合もあるし、もっと潜在的で無自覚な場合もあるだろう。

私は時代小説的な属性の強い伝奇ファンタジーを好んで書いている。理想はダン・ブラウンのラングドン教授シリーズや、ジェームズ・ロリンズのシグマフォースシリーズ、映画で言えばインディージョーンズだ。

こういった「歴史的モチーフを重要なファクターとして扱いつつ、ドラスティックなプロットで鑑賞者をハラハラさせるエンタメ」を書こうとすると、どうしても意識せざるをえない市場がある。

型月。今や日本国内にとどまらず世界的シェアを誇る伝奇ファンタジーブランドは、私にとって嫌な思い出を想起させる。といっても、作品が嫌いなわけではない。一部のファンへの悪印象に由来する悪感情だ。

Fateで登場した英雄や偉人、特にその中でも人気の人物は「そのイメージ」で固定されてしまう。クー・フーリン、アーサー王、アントニオ・サリエーリあたりは作品で扱いにくい。大層扱いにくい。

これは流行作品につきまとう問題のひとつだ。かつてはジュラシック・パークで恐竜のイメージが固定されたり、幽幻道士でキョンシーのイメージが固定されたりした。

それ自体は別段なにか困るわけではない。魅力的なコンテンツが人目に触れ、人口に膾炙するのはいいことだ。

しかし、固定されたイメージから逸脱した類似作品を市場が受け入れてくれるかという問題が付随する。Fateのアーサー王は私も好きだが、元々アダルトゲームだったこともあってか大胆な翻案をしている。

ブリトン人らしい赤毛で髭面の戦士としてアーサー王を書いて出したとき、今の市場は受け入れるだろうか?

これが難しいところだ。源流は同じでも、より太い支流や先に灌漑された支流のほうが人々にとって「本流」に思えてしまう。そうなると、新たな支流の開拓にはかなりの勇気がいる。

物語性のあるフィクションは特に「本流」の主張が強い。影響の有無を証明できないというフィクションの性質上仕方のない防衛反応だとは思っているけれど、ファンのマナー評価とも直結してしまう部分だ。

音楽のように小説のサブスクが一般的になって、時代を超えた鑑賞体験が定着すれば本流と支流の区別がなくなるんじゃなかろうか。それが実現されるころには小説という文化も変容を迎えていそうだ。



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