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「何もしない」ことの実践と居住環境のこと

オランダ語には「niksen」という単語があって「何もしない」という意味らしい。それを日本人も実践した方がいいんじゃないか、というようなインターネット上の記事を読んだ。

記事の中で、日本人が「何もしない」が苦手な理由として、夏休みに子どもに宿題が出されたり、もともと日本人には「何もしない」習慣がないんじゃないか、というような在オランダの日本人女性の意見が挙げられていて、一瞬納得しかかったが、やっぱりそういうことでもないんじゃないか、と思い直した。

それはおそらく日本人ひとりひとりの考え方というような内的要因ではなく、実際には日本人の生活スタイルというか、住居を含めた環境的要因なんじゃないかと思う。つまり、それはひとえに家の「外」に「何もしない」を許容できるような環境が備わっているか否かにかかっているのではないか。

かつてスウェーデンに住んでいたときのことを思い出すと、家のすぐ近くに公園や広場、カフェの併設された図書館があった。ときにはその広場に移動遊園地がやってきた。クリスマスの季節には、そこで小さなマーケットが開かれた。大学の敷地や学生寮には林檎の木が植えられ、芝生が茂っていた。古い教会の隣には、現代的なアートギャラリーが並んでいた。そういえばスウェーデンにも「fika」というお茶を飲んで一息つく時間というような意味の単語があった。おそらく感覚的にはniksenと共通するものがあるのではないかと思う。スウェーデンにいたときは、確かに東京にいたときよりも、確実にぼーっとする時間が多かったように思う。

結局住んでいる環境がよければ、人は自然と「何もしない」をするのだろうと思う。ただお茶を飲みながら、窓から木々が風にそよぐのが見えたとき、ふいにツリーハウスをつくる子どもたちの姿が見えたとき、ふらっと立ち寄ったアートギャラリーの絵が目にとまったとき。その瞬間その人ははからずも「何もしない」状態にある。

翻って、先日用事で埼玉のある街に行った。改札を出てすぐ、ああ、本当に何もない街だなと思った。それから、初めて来たはずなのに、もう何回もこういう街に来たことがある気がした。自分の地元にも似たような風景が広がっている。コンクリートで固められたロータリーには、誰も見向きもしないような妙なモニュメントと、几帳面にその説明が彫られた石が無機質に置かれている。薄暗いアーケードの中には、松屋とドトールとファミレスがある。空になった店舗の隣は、不自然に小さな駐車場になっている。不恰好に雑草の飛び出したどぎついピンク色のツツジの茂みがあり、劣化した緑色のワイヤーの塀がそれを囲っている。ブロック塀には無作為にやったとしか思えない色あせた選挙のポスターが何枚もべたべたと貼られている。路傍には壊れた自転車が投げ捨てられている。でもおそらく、ここに住んで実際的に困ることは特にないのだと思う。ここにはコンビニがあり、スーパーがあり、ドラッグストアがあり、銀行があり、郵便局がある。百円ショップもカラオケもパチンコもある。

だがここで「何もしない」ことだけは無理だろうと思った。国道沿いの薄汚れたハイツのワンルームで、窓の外に居酒屋の看板を見ながらただ何もせずぼーっとすることなんてできるだろうか? こんな環境では散歩すら難しいと思う。窓の外に向けられるはずの眼差しは、きっと自然にテレビやパソコンやスマホの画面に向かうだろう。

結局大多数の日本人にとっての「何もしない」は、そう考えると一部のかなり特権的な人たちだけに許される行為なんだろうなという気がしてくる。それはたとえば、あえてUターンで地方に家を構えているような、ある思想や教養をもつような人か、都内でも環境の良いところに居住できる(あるいは軽井沢あたりに別荘を構えたりできる)だけの経済力のある人たち。たぶん環境の良いところに住んでいれば、いくら夏休みに大量の宿題が出されても、誰しもそれなりに「何もしない」を実践するようになるだろう。

そういえばヨーロッパだけでなく、アメリカに留学していたときも、結構貧しい家でも、家の前には小さなポーチが設えてあって、そこに椅子なりが置いてあるのをよく目にした記憶がある。ヨーロッパほど美しい風景ではないにしろ、それなりに家の前には空間があって、人がなにもせずそこに座って涼んだりできるような場所があった。

でも、たとえば昭和初期以前の日本人は、結構縁側で盆栽なんかの世話をしながらぼーっとしていたんじゃないかと思う。縁側なんて「何をするでもない」場所の代表のような気がする。漱石を読んでいても、天気のいい日によく何をすることもなく縁側でごろんと横になる描写がよく出てくる。

だから、もちろん複合的な理由は色々あると思うけれど、結局縁側やポーチ、前庭のような中間的な空間をもたない一般的な建売住宅のような住居が戦後増えていったことが「何もしない」を日本人から遠ざけた大きな理由の一つなんじゃないかという気がする。

niksenに限らず「何もしない」ことの奨励が日本では近年盛んな気がするけれど、結局個人の心持ちの問題に回収できることはほとんど残っていないように思えてしまう。このことは今回のコロナの件でも浮き彫りになったような気がする。やはりある程度触れられる自然が身近にあるような場所、首都圏でも庭のある家に住んでいる人は、家の中に閉じ込められていても、どこかしら精神的な余裕が保ちやすいように思われる。

家の中で閉じ込められている状況をいかに快適に過ごすか、それは裏を返せば「なにもできない」(何もしない)中での過ごし方を考えることでもあるわけで、そう考えてみると実は根本的な解決は「何をするか」ではなく「どこに住むか」、つまり自分の住まう環境を見つめ直すことでもあるのだと改めて思う。


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