現代魔術入門

魔術とは

フレイザーは、呪術を「類感呪術(または模倣呪術)」と「感染呪術」に大別した。
類感呪術(模倣呪術、英: imitative magic)
類似の原理に基づく呪術である。求める結果を模倣する行為により目的を達成しようとする呪術などがこれに含まれる。雨乞いのために水をまいたり、太鼓を叩くなどして、自然現象を模倣する形式をとる。
感染呪術(英: contagious magic)
接触の原理に基づく呪術である。狩の獲物の足跡に槍を突き刺すと、その影響が獲物に及んで逃げ足が鈍るとするような行為や、日本での藁人形に釘を打ち込む呪術などがこれに含まれる。感染呪術には、類感呪術を含んだものも存在するとフレイザーは述べている。呪術を行使したい対象が接触していた物や、爪・髪の毛など身体の一部だった物に対し、類感呪術を施すような場合などである。
フレイザーは進化主義的な解釈を行い、宗教は劣った呪術から進歩したものであるという解釈を行ったが、エミール・デュルケームはこれを批判的に継承し、本来集団的な現象である宗教的現象が個人において現れる場合、呪術という形で現れることを指摘した。さらにマリノフフスキーは、機能主義的な立場から呪術や宗教が安心感をもたらしているいうことを指摘し、また動機という点から人に禍をもたらすそうとする呪術を「黒呪術 black magic」といい、雨乞いや病気回復など公共の利益をもたらそうとする呪術を「白呪術white magic」とした。しかし超自然的なものである呪術だとしても、意図的なものと非意図的なものがあるとして、エヴァンズ=プリチャードは前者を邪術、後者を妖術として区別する必要性を主張した。
ビーティ(J.Beattie)は、呪術を象徴的な願望の表現とした。
レヴィ=ストロースによる指摘
クロード・レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探るものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした[15]。
「野生の思考」は、素人が「あり合わせの材料でする工作」(ブリコラージュ)のようなものであり、このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも日常的にはそのような思考方法を採っていることを指摘し、それまでの自文化中心主義的な説明を根底から批判した。

魔術と科学との違い

wikipediaの再現性の記事から引用する

再現性は、科学実験に限定すれば、「実験を繰り返したときに一貫した結果が得られる程度」とされる。 例えば(あくまで 「例えば」であるが)ある科学雑誌Nに、科学者Pによって発表された ある科学論文に「対象XをxグラムおよびYをyグラム用意して(Cという条件や手法を用いて)aという温度まで加熱するという実験を行ったら、Mという物質がmグラム生成した。」などと書かれていた場合に、(別の実験者Qが)XやYを同量用意し、Cやaを当該論文と全く同一になるようにして実験を行った場合に、Mという物質がmグラム生成する結果が得られたのは、何回中何回なのか(100回中96回なのか、100回中10回なのか、100回中0回(1回も再現しなかった)なのか)という程度を示す概念である。(また、Mという物質がmグラムでなく、nグラム生成し、論文とは何パーセント異なる量で生成したのか、何割程度異なる量でしか生成しなかった、というような程度も指しうる)

さらにここから科学の根幹の定義の一つである、より一般化した自然の斉一性を引用する

自然の斉一性原理(しぜんのせいいつせいげんり、 principle of the uniformity of nature)または単に斉一性原理とは、科学哲学の世界で用いられる言葉で「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という仮定[1]。推論の一種である枚挙的帰納法を成立させるために必要な前提として、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームによって導入された概念。自然の一様性原理[2][3]とも訳される。

斉一性は再現性とほぼ同じである。再現性があるということは機能法がなりなっており、機能法があるから斉一性を成り立っていると保証するものにもなってしまっている。(これが大プリンシパル)

帰納(きのう、英: Induction、希: επαγωγή(エパゴーゲー))とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。
なお数学的帰納法・構造的帰納法・整礎帰納法・完全帰納法・累積帰納法(英語版)・超限帰納法などの帰納法は、名前と違い帰納ではなく演繹である。

ここから外れた技術の総称を魔術と定義可能そうである。類感呪術は演繹的には一見正しそうに見える。再現性が観測されない時点でそれは科学の定義がはずれ、魔術として分類されるという事実に鑑みても破綻がない。

改めて見直す魔術の価値

科学の中で強い再現性を求める世界である統計を持ち出すと、ある個人や組織をラベルエンコードすることがある。ラベルエンコードすると、その個人や組織など最小の単位について定量化が可能になる。

このとき、個人や組織は現象だけ見れば、再現性のある強さなどを数値として持つが、全くその内部は不明である。この内部を解体して詳細に定量化してみていくアプローチがあるが、わけのわからない再現性の薄い領域と個人が接しているという点を見逃してはならない。

これは複雑系と呼ばれて、演繹的な導出自体は可能だが、再現性が限りなく薄い領域のことである。生物や自然界には多数この構造が存在する

複雑系(ふくざつけい、英: complex system)とは、相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質(あるいはそういった性質から導かれる振る舞い)を見せる系であって、しかしその全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなものをいう[1]。

複雑系のような精神が強く支配的であれば、そこには他者から比べてどうだとか、参考にするとか全く意味がない。なので他者や一般的に有効とされる施策も意味を持たないことがある。独自に個人の状態に対して何らかの施策して有効性をその限られた範囲で行って結果を得られた、それは現代の魔術である。

他の人には全く再現性がないし、一般化もできないが、確かにワークした、ということがあれば。

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