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ドミナントは趣味なのか?

モチベーション

最近は朝夕晩と、まむし女王様のおっしゃるところの性癖考察班モードになることが多く、手元のメモにはたくさんの殴り書きが増えてきた。

まむし女王様によるありがたいお言葉。拝聴!

自分なりのdom観の表明というのはsubを探す上でも、あるいは世界観の共有のためにも不可欠だと思い始めた昨今。しかし、Twitterでは考えをまとめて発信するのは難しく、ならばいっそnoteに書いてみようと思い立ってアカウントを作ってみた次第。

そんなわけでドミナントについて自分なりの解釈とか考察とかをツラツラと書き連ねて行きたい。

今回は「ドミナントは趣味なのか?」というテーマで話していく。

用語について

D/s・・・ドミナント/サブミッシブを指す。S/M(サディズム・マゾヒズム)と直行する概念。
ノーマル・・・D/sあるいはS/M性向きを持たない(あるいは自覚していない)人々を指す

すべからく、人は劇中に在る

人が、その人たらしめる振る舞いは、すべからく演技である。
親の前、子の前、上司の前、部下の前、恋人の前。
それぞれの顔は、他者があなたに期待する役割に応じて付け替えられる。

そのうちのどれかが「本当のあなた」なのではない。全てあなた自身であり、同時にあなたが演じている役割でもある。

実のところ、我々D/s趣味の人間だけでなく、社会一般の中でも、特定の役割について演じることは、特におかしなことだとは思われていない。

その証左として、普段の会話の中で「父親役」だとか「母親代わり」だとかいう表現をごく自然に使っている。
それらの役割を担おうとする人に「そんなの所詮ごっこあそびでしょ?」とは誰も言わないのだ。むしろ、その献身的行為に賞賛を送るケースがほとんどだろう。

つまり、その資格や資質のあるなしにかかわらず、誰かにとって必要な役割を演じるということは、一般社会においても概ね献身的行為とみなされている。

ドミナントというロール

一方、BDSM界隈のダイバーシティが担保された狭い世界においてさえ「主従」の関係は「所詮ごっこ遊び」と見做されるシーンも散見される。

いわんや、一般社会からの見方としては、歪んだ支配欲を持った性的倒錯の異常者、なんとなれば、人に危害を加える可能性が高い犯罪者予備軍とみなされている節さえある。

さて、人は他者の期待によって役割を獲得するという話に照らしてみれば、ドミナントという役割は誰の期待によるものだろうか?

当然ながら、ドミナントに「ドミナントたれ」と命ずるのはドミナント自身にあらず。そう、サブミッシブにほかならない。彼女あるいは彼の願いこそが、ドミナントを成立させるための唯一のパーツとも言えるのだ。

逆に言えば、サブミッシブがサブミッシブたれるのは、ドミナントがいるからとも言える。この関係は片務的ではなく、構造的に相互に依存している。

どんなにSNSでドミナント風を吹かせたところで、サブミッシブのいないドミナントは、風車に立ち向かうドンキホーテと同じなのだ。

D/sは趣味なのか?

"ノーマル"の人々とD/sの世界について話したときにしばしば気が付かされるのだが、彼らはD/sを「趣味」だと見做しているように思える。

たとえば「シングルマザーの友人のためにパートタイムで父親役を買って出ている男性」がいたとしたらどうだろう?
彼は自由意志によっていつでもそれをやめることができる。なぜなら、彼は本物の父親ではないからだ。あくまで一時的な代役を演じているにすぎない。

同様に、D/sにおける、ドミナントやサブミッシブは、本人の自由意志によってごっご遊びを演じているだけなので、いつでもやめることができる。だから趣味である、というロジックだ。

しかし、その父親役を1年、2年と続け、シンママの子供の笑顔をちょくちょく見続けたとしよう。当然、子供は彼になつくだろう。いままで手に入らなかった優しい父親。家族3人で遊びに行ける楽しい時間。

そんな折に、彼が「これは父親ごっこなのでもうやめます」と言ったとき、子供の悲しむ姿は想像に難くない。あるいはその行為に対して周囲の人々は何と言うだろうか?
少なくとも、子供にとっては、もはや彼は本当の父親となんら価値は変わらないのだ。本当に父親が殺されたにも等しい出来事だろう。

父親を父親たらしめているのは、まさに子供がそう合ってほしいと望み、誰かがそれに応えれば、その誰かは、もはや十分に父親なのである。


Twitterで「サブミッシブ希望」と検索すればわかるように、世間に隠れ、従者になることを希求する人々は枚挙に暇がない。
その覚悟、あるいはその思いの強さは、「趣味でちょっと奴隷ごっこしたい」とかいうレベルの人はほとんどいない。

彼、あるいは彼女らの声は、茫漠とした孤独という砂漠の中心で、力の限り助けを呼びつづけている悲鳴のようなものだ。

周囲を絶望に埋め尽くされながら、心から従者であることを望む人々の希求を前にしたとき、はたして、ドミナントという生き方、あるいはその献身は「ただの趣味」のままでありつづけることができるのだろうか?


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