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剣士と鍵師と不夜城の主

月夜の邸宅は、静けさと得体の知れない暗闇に包まれていた。
月光の差す廊下。壁際に等間隔で並ぶ燭台が、湿っぽく淀んだ空気の翳りにぽつぽつと仄赤い灯火を揺らしていた。
観音開きの扉の前に、人影が二人。背高の人影は扉と正対して身動きせず、背の低い人影は頭を振って、不安そうに辺りを見回していた。
肩までかかる人参色の髪、掘りの深い髭面の奥に無感情な濃緑の瞳が光り、色褪せた暗褐色のマントに身を包み、澱んだ雰囲気を放つ男がニール。
男の隣には、恐々と周囲を見回す若者。革の肘当てがついた腰丈のコートを羽織り、栗色の髪を両もみあげから三つ編みで垂らして、少年とも少女ともつかぬ顔に青灰色の瞳を躍らせた、猫を思わせる若者がヨランダ。
男・ニールは、若者・ヨランダの様子に目もくれず、観音扉を押し開けた。


食堂だった。戸口の壁を短辺とした、奥行きのある長方形の空間に、同じく長方形の長机が渡され、白いクロスとテーブルセットが設えられていた。
「うっわ~、時が止まってるみたいで不気味ィ」
ヨランダがニールの脇を潜って忍び足で歩み入り、無人の食堂を見渡しては沈黙に耐えかねたように言った。ニールはマントの襟を正し、足音を殺して食堂に歩み入ると、無数の燭台が仄明るく照らす晩餐の間を見渡した。
「ラ・フォルジュの銀食器だ。ナイフも、スプーンも。うへェ、これだけの量を揃えると、途方もない金額だろうな。一本持って帰っちゃおうかな」
「手癖の悪いガキだ。迂闊に触るな、罠かも知れん」
ヨランダが食卓の銀食器をおもむろに取り上げるのを、ニールが窘めた。
「チッチッチッ。まあ慌てなさんなオニーサン。ラ・フォルジュには贋作が多いことで有名さ。紛い物はプルーフマークの刻印の再現が甘いんだよ」


新しい玩具に熱中するヨランダを放置し、ニールは食堂を見回して考えた。
準備の整えられた食堂。見せびらかしの銀器。白磁の皿には何もなし。
こいつが意味するものは――頭上に無数の気配。見上げ、ない。
ニールはマントを左手で払って、左腰に佩いた刀の鞘を握る。複雑な意匠の篭鍔の柄を右手で握ると、魂を吸われるような悪寒が全身を貫いた。
「すッ、すすっごーい! オニーサン、このラ・フォルジュ本物ヒッ」
ヨランダが狂熱に浮かれた口調で振り返り、絶句して銀器を取り落とした。
ニールの双眸は暗緑の十字光を放ち、全身から瘴気を漂わせていた。
「つまり、俺たちが今晩のメインディッシュってわけさ。そうだろう」
苦み走った顔でニールが吐き捨て、刀を一息で抜き放った。ざらついた音を立て、鞘から抜き出される錆色の直刀から、どす黒い瘴気が溢れ出す。


呪いの刃"無血刀"。勇猛果敢、残虐無比なる"鷹眼王"アレクサンダー三世が夥しい捕虜の首を刎ね、最後は自分の首すら刎ねたと伝説に謳われる刀。
ヨランダは妖刀の毒々しい佇まいに魅了され、思わず生唾を呑んだ。伝説に名高い呪具。その資産価値たるや、ラ・フォルジュなど目ではない!
「そこを動くな!」
ニールが叫び、ヨランダが凍りついた瞬間。天井に満ちる暗がりが、暗黒の人型を成して凝り出て、ヨランダの後頭部に貫手を掠めて飛び去った。
ニールは振り返らず、左肩越しに妖刀を背後へ突いた。ずぶずぶと砂を刺す感触。弧を描いて刃を振るうと、暗黒の人型が頭を裂かれて転げた。全身の輪郭を黒煙めいて揺らがせ、燻るような音と共に爆散して消え失せる。


驚いて振り返ったヨランダの眼前、轟音と共に長机が爆ぜ飛んだ。
天板が跳ね上がり、無数の白磁が割れ砕け、無数の銀器が宙を舞う。
ヨランダは眼前に立ち尽くす人型そっちのけで、軽業師もかくやの手捌きで中空のラ・フォルジュを拾い集め、フォークの一本まで口で咥え取った。
「おい馬鹿逃げろッ!」
コートのポケットに銀器を詰め込むヨランダが、こちらを見る無貌の暗黒にようやく気がつき、悍ましい唸り声に会心の笑みを凍りつかせた。
「うわあああッ!?」
ヨランダは口に咥えた銀フォークを反射的に握り、人型の無貌に投じる!
人型の顔にフォークが刺さり、飛び出さんと力む姿が一瞬たじろいだ!


舌打ちしてニールが駆ける! ヨランダの肩を掴んで引き倒し様に跳躍し、体勢を立て直した人型目がけて毒刀を構え、入れ替わりに飛び込む!
「うおおおおッ!」
砂山を断ち切るような一撃に、鉤手を振り上げかけた人型が弾け飛ぶ!
暗黒の人型は、気づけば食堂の至る所に降り立っていた。
「命が大事! 逃げるが勝ち! ボクは帰りますさようなら!」
ヨランダが退路を求めて駆け寄った扉は、バタンと音を立てて閉ざされる!
燭台の炎がテーブルクロスに引火し、闇の食堂が炎の灯りに包まれた!
「また勝手に閉じた! くっそーボクを馬鹿にしやがってお化け屋敷め!」
ヨランダが観音扉を拳で叩き、やけっぱちに叫んで蹴りつける。
一方ニールは、中央で火の手を上げる食堂を円周状に駆け回り、先手必勝で暗黒の人型たちに包囲されるより早く、一体また一体と切り倒していた。


「ぐおおおおッ! 開けーッ! 開けってんだよこ、の、野郎ッ!」
この期に及んで扉を開こうと試みるヨランダに、暗黒の人型が迫る。
「何やってんだ坊主! 後ろに来てるぞ!」
ニールは半身を捻って振り返り、背後の人型の首を刎ね、その勢いを乗せて右手の刀を振り、正面に飛びかかった人型を斬りつつ叫んだ。
「ハイエッ!?」
ヨランダが振り返って観音扉に全身で貼りつき、追い詰められた猫のように顔面を引き攣らせると、こちらに迫り来る暗黒の人型を凝視した。
「おい馬鹿逃げろ! 逃げろったら、畜生!」
ニールが叫び、一人斬り、二人斬って歯噛みし駆け出す。背後に三人目!
あと数メートルまで近づかれたヨランダが、歯を剥いて鋭く息を吐いた。


ポケットの銀器を両手で掴み、暗黒の人型目がけてありったけ投げる!
ナイフやフォークが立て続けに刺さり、人型がぐらりと体勢を崩した。
うち一本のナイフが流れ弾となり、ニールの背後の人型を捉える!
「なッ……」
ニールは背後の気配を直感し、反射的に飛び込み前転して回避!
「フギャーッ!」
ヨランダは総毛立ち、銀ナイフを両手で逆手に握り、暗黒の人型に突貫!
人型に飛びかかり、胸板にナイフを突き立てながら体重で押し倒した。
同時にニールが起き上がり反転し、攻撃を外した人型を逆袈裟に斬った。
無貌の暗黒の最後の二体が、燻るような音と共に同時消滅した。


銀器が転げる音で、我に返ったヨランダが床に仰向けで転がり、息をつく。
「うらなり坊やかと思いきや、意外とやるな。見直したぜ」
ニールが周囲を警戒しつつヨランダに歩み寄り、左手を差し伸べた。
「ハァッ、ハァッ、どんなもんだい。ヨランダ様を舐めるなよ」
ヨランダが汗ばんだ顔で無理に笑い、ニールの手を取って起き上がる。
と同時に、テーブルの中央で燃え盛っていた炎が一斉に掻き消えた。
「ヒャッ!?」
咄嗟にニールの袖を掴み、身を寄せるヨランダ。二人の前で、つい先刻まで固く閉ざされていた観音扉が、軋む音を立てて開かれた。
「ここの余興は終わりってワケか」
ニールは左腕でヨランダを押し退け、刀を納めようとする手を停めた。
ヨランダは慌てて両手を振り払い、口笛を吹きながら廊下に歩み出る。


月光の廊下。壁際に並ぶ燭台を道標に、ニールとヨランダは歩き続ける。
「もうヤダ、このお化け屋敷。暗いし怖いし、命の危機だしもう最悪!」
もみあげから垂れる二筋の三つ編みが、月影に長く尾を引いた。
「俺は戻れと言ったはずだぜ。勝手口を開けるまでがお前の仕事だった」
「しょ、しょうがないじゃない! 扉がひとりでに閉じて、おまけに鍵まで閉まって、館に閉じ込められるだなんて考えもつかなかったんだから!」
背後から早口で捲し立てるヨランダに、ニールは顔を顰める。
「楽天的な性格だな。能天気と言うべきか。いずれ盗賊向きじゃあない」
「ボクは鍵師なの! 物取りと一緒にするなって何度も言ってるでしょ!」
ニールが緑目を十字に光らせ半身を捻る姿に、ヨランダは慌てて屈んだ。
天井の暗がりから、暗黒の人型が落ち様に貫手で襲撃!
闇よりも暗い瘴気が弧を描き、煙を払うように人型を両断消滅させた。


「また出たー! ウワーンもうヤダーこのお化け屋敷ー!」
地面に這いつくばったヨランダが、尻を突き出して頭を抱え、喚いた。
ニールは次の不意討ちに備え、妖刀を握って暗闇に視線を巡らした。
「そうやっていつまでも喚いてろ。嫌なら一人で逃げ道でも探すこったな」
「えーヤダヤダ、一人はもっとヤダー! オニーサン優しくなーい!」
ヨランダがじたばたもがくと、コートの下でがちゃがちゃと音が鳴った。
ニールが鼻を鳴らして歩き出し、姿勢がぐらりとふらついた。
「く、そっ、たれ。主に会うまで持ってくれよ、俺の身体」
骨肉を溶かすような疼痛が全身を駆け巡り、視界が白み意識が飛びかける。
ニールは奥歯を噛み締め、祟りに体を”乗っ取られぬ”よう呼吸を深めた。
辛うじて踏み止まった。しかし周期が早くなっている。早く何とかせねば。
「ちょちょちょ待って冗談冗談、冗談ですハイ行きます一人にしないで!」
ニールが歩き出すと、ヨランダが慌てて飛び上がり、後を追って走った。


絶えざる襲撃。閉ざされた無数の扉。行く手を誘う蝋燭の列。
突き当りの螺旋階段を、ニールとヨランダが見上げた。
「行くの? まさか。こんな所で襲われたらひとたまりもないよ!」
「恐らく、目的地はこの先だ。俺は一人ででも行くぜ」
「わかったわかった行きます行きますってば! どこまでもお供します!」
両もみあげの三つ編みを揺らし、ヨランダがやけっぱちで叫んだ。
ニールは鼻を鳴らして階段へ踏み出し、心臓に鋭い痛みを感じて唸った。
全身が冷たく、血の流れは燃えるように熱い。手摺を握って、耐える。
「ちょ、えぇッ!? お、オニーサン大丈夫!? ど、どどどうしよう!」
ヨランダが慌てふためく中、ニールは激しく咳き込んで身を起こした。
「何でも無い。全く、教会の鐘みたいに騒々しいヤツだな、お前は」
ニールは振り返らずに口元を拭い、油のように粘るどす黒い血を見つめた。


螺旋階段を昇り終えた先には、観音扉。しかしこれまでとは違う。
鍵だ。扉に備えられた、時計めいた機構『錠盤』が冷たい輝きを放つ。
左の扉に一つ。右の扉に一つ。扉の継ぎ目を跨ぎ、一対が隣り合っていた。
「どうやら当たりらしいな、坊主。鍵師の出番ってわけだ」
「坊主じゃないし。まあいいや、それじゃとくと腕前をごろうじろ」
ヨランダは得意げな顔でニールを押し退け、錠盤に顔を寄せた。
ニールは刀を握ったまま壁に背を持たれ、立て続けに咳き込んだ。
「オニーサン、本当に大丈夫なの? いきなり死なないでよ?」
「気にするなって。いいから仕事に集中してろ、坊主」
「だから坊主じゃないんだって……」
ヨランダは呟きつつ、コートの内側から鍵師の道具を取り出した。


ヨランダの三つ編みの両端が、蛍火めいて光を発し、手元を照らした。
先端を加工した金属棒、いわゆるピック。何種類か取り出して指でつまみ、ヨランダは錠盤を矯めつ眇めつして、首を傾げた。錠盤の表面には、鍵穴が見当たらない。抉じ開けようにも、鍵穴が無ければ手のつけようが無い。
ヨランダは傍らで苦悶するニールに心の中で謝り、彼を意識から追い出す。ニールの言う通り、集中せねばならない。自分は鍵師、相手は理知と技巧を凝らした錠盤だ。芸術品と謳われる”魔導錠”を相手取る時は、特に。
「この魔導錠もブレゲの”作品”か……何かの偶然? そんなまさか」
冷や汗を滲ませ、錠盤の表面を指でなぞるヨランダは、金属の表面に浮彫となったイニシャルを見て取り、溜め息と共に呟く。
触れる。押し込む。手を放す。指先に感じる僅かな、ほんの僅かな動作感。
錯覚か? いや違う、直感がそう言っている。鍵師には直感が大事だ。


ヨランダは飾り彫りで彩られた錠盤を押し込み、時計回りに捻った。
が、不動……やはり錯覚か、いや。ヨランダは頭を振って息を呑み、今度は反時計回りに捻った。すると音も無く、継ぎ目も無く、表層が反時計回りに上へとスライドし、隠された鍵穴が姿を現した。
ヨランダは大きく息を吐いた。まだ攻略の足掛かりを掴んだだけだったが、額からは冷や汗が滝のように流れていた。そう、まだほんの一歩だ。
直角に曲がった金属棒の短辺を、鍵穴の入口に沿えて捻り、力を緩める。
指に摘まんだピックのうち一本を、鍵穴に差し込んで内部を探った。
十、十一、十二……二方向に十二本。三度は数え直したが、それだけだ。
「待て、十二本? 勝手口の錠盤は、六方向に二十六本だったじゃないか」
ヨランダは首を捻った。隠し鍵穴の他は、明らかに単純な構造だった。


ヨランダは唇を舌で舐め、両手の指先に意識を集中した。恐らく、騙し針も無さそうだ。そう考えると、何だか開けられそうな気がしてきた。
ヨランダは両手で錠盤をまさぐり、そして呆気なく鍵を開けてしまった。
屋敷内の鍵だからと手抜きしたのか。馬鹿な。ブレゲという錠盤職人一族はそんな手ぬるいヤツらじゃない。何かを見落としている。だが何を?
「やったよ、オニーサン。片方開けた。もう片方だ」
「さすがは高給取りに違わぬ腕っぷしだな。ゴホッ、頼りになるぜ」
「ま、仕事ですから」
ヨランダは今や余裕の笑みを浮かべ、もう片方の錠盤も隠し穴を開いた。
ピックで探ると、構造はほぼ同じ。つまり簡単に開けられるということだ。
ヨランダはしかし手を抜かず、騙し針を入念に確認して、錠盤を開いた。


「フフッ、フフフッ、ハッハハハ。まぁざっとこんなもんよ、オニーサン」
ヨランダは左右一対の錠盤を開錠し、額の汗を拭って扉の把手を捻った。
次の瞬間、金属音がガチャリと虚しく鳴って、開け放たれることを拒んだ。
「どうした。開いていないようだが?」
「えッ、ウソ、何で!? 錠前は両側ともちゃんと開いたのにッ!?」
ヨランダは慌てふためき、左右の錠盤の鍵穴を再びピックで探った。内部の魔導針の位置がリセットされている。ピックで弄った。難なく開錠する。
右、左。錠盤を開き、扉が……開かない。左、右……扉が、開かない。
「な、な、な……何でだ!? どうして開かない! 一体何なんだ!」
開くのに、開かない。一見すると単純な構造の錠盤。しかし、開かない。


「クソッ、何で開くのに開かないんだ、どうなってんだクソ、畜生!」
ヨランダは慌てふためき、扉の把手を揺り動かし、戸板を殴りつけた。
「おい、坊主落ち着け! 落ち着けって、聞いてるのか、坊主!」
ニールの言葉にも耳を貸さず、悔しさに唇を血が出るほど噛み締めた。
遮二無二ピックで錠盤をまさぐり、震える手で一本また一本と折る。
まるで、祖父や父親の傍で錠盤いじりを覚えた、子供の頃のように。
悔しい……悔しい……悔しい! 天才鍵師と謳われたヤンセン一家に生まれて鍵師を継いで、この体たらく! 草葉の影でご先祖様が泣いてるぞ!
「ゴホッ、ゴホッ! おい、いいから聞けってんだ、うらなり坊や!」
「もう黙ってろよ今考えてるんだ! 何も知らないくせに口出しすんな!」
ヨランダは半泣きで両腕を振るい、ニールを睨んで怒鳴り返した。


「こいつは俺の直感だが、その鍵、二つで一つなんじゃないか?」
「鍵はボクの領分なんだよ、ごちゃごちゃ言ってないで黙って見てろよ!」
ニールは口元から垂れる血を拭い、何度か深呼吸して壁から身を起こした。
「つまり、だ。その鍵、左右両方を、同時に捻って開くんじゃ」
ニールは喋りかけた瞬間、全身に走った疼痛に咳き込み、膝を追った。
「もういいよオニーサン! そこでじっとしてなって」
慌てて身を転じるヨランダを、ニールは咳き込みながら平手で振り払った。
「構うな、お前は錠盤に集中しろ! 左右両方を、同時に……ゴホッ!」
ヨランダはニールの言葉に動きを止め、脳髄に稲妻の走る感覚を覚えた。
新しいピックを握って、錠盤に駆け寄る。錠前を外し、力を緩めた。
そうして再び探り直すと、内部機構の魔導針は過たずリセットされていた。
左を確かめ、右も確かめる。構造は同じだ。ヨランダの身体は震え出した。


降って湧いた助言は、実物への確認作業を経て、殆ど革新へと変わる。
「か、か、考えてみれば、これは単純な技巧(トリック)なんだ。なんで、どうしてこれほど簡単な偽装(トリック)が見破れなかったんだ……」
ヨランダは左の錠盤の鍵穴を操作し、ニールを振り返った。
「オニーサン。手伝ってくれないかな。これを支えててほしいんだ」
ようやく正体を取り戻したニールが、ヨランダに歩み寄り手元を窺った。
「鍵は開けた。正確にはまだ開いてないけど。魔導針の配列を全て、正しい位置に並べ直しただけだ。この鍵穴の金具をちょっと捻れば、開けられる。でもオニーサンの想像を信じれば、これはまだ開けちゃいけない」
「つまり、そいつを俺が支えてればいいわけだな。もう片方が開くまで」
ニールが頷き、震える指を握り直して、慎重に鍵穴の金具を引き受けた。


「気を付けてね。力を抜けば魔導針がリセットされるし、力を入れ過ぎれば鍵が開く。指先に神経を集中させて、慎重に支えてなきゃだめだよ」
「あんまり長く持ちそうにない。なるべく早く頼むぜ」
ニールは朦朧とする意識に耐えて、自分を強いて指先を凍りつかせた。
「任せてよ。種さえ分かればこっちのモンさ。二十六針を使わなかったのがブレゲの運の尽きだ。待ってて、こっちも直ぐ開けるから」
ニールは奥歯を食いしばり、指先に神経を尖らせて耳鳴りに耐えた。地獄の一時だった。それは短い時間のようで、恐ろしく長い時間に感じられた。
「オニーサン、起きてる? こっちも準備できたよ」
ヨランダが鍵穴の金具を支えながら、ニールを気づかわしげに一瞥した。
「三拍子で開けよう。いち、に……さん!」
二人は同時に金具を捻り、そして――野太い金属音と共に、鍵は開いた。


「や、や、やヤッター! 開いた、開いたよオニーサン! へっへへ!」
ヨランダが開錠具を放り出し、感極まってニールに抱きついた。
そして、マント越しに感じるニールの身体の冷たさに、戦慄を覚えた。
ニールは力なく天を仰ぎ、ヨランダの身体の淡い温もりを感じ取った。
「坊主……いや、嬢ちゃん。あんた、女だったのか」
ヨランダはハッと息を呑み、密着する身体で言葉の意味を悟ると、反射的に身体を放し、顔を赤らめてニールの頬を張った。
「バ、バカッ! 当たり前でしょ! い、今まで何だと思ってたのさ!」
ニールの濁った双眸に光が戻り、彼は生気を取り戻した顔で微笑んだ。
「悪かったな。さて、行こうぜ。このお化け屋敷の主を拝もうじゃないか」
「誤魔化しても無駄だからね! ったく、これだから男ってヤツは」
ニールは鼻で笑ってよろよろと立ち上がると、観音扉を押し開けた。


月光の燦々と降り注ぐ一室。薄明は周囲の闇をいや増し、部屋の奥で燃える暖炉の灯りと、その手前で座る者、その隣に立つ者の陰影を濃く見せた。
観音扉の直ぐ先で人影が立ちはだかり、ニールとヨランダを出迎える。
豊満な長身を給仕服に包んだ、女。薙刀(グレイブ)を右手に携え、石突で床に支えて持ち、鋭く輝く白刃は天井へと真っ直ぐ伸びている。
「どうぞ、こちらへ」
門番めいた女がニールを鋭く一瞥し、ヨランダの手を取り先導して歩いた。
「ヘッ!? エッ、ああ……こりゃご丁寧にどうも」
先導する給仕、戸惑うヨランダと、その後に続いてニールが歩く。
薙刀の石突が規則的に床を叩き、ニールの意識を研ぎ澄ませていく。


闇の中で、燃え盛る暖炉が地獄めいた赤熱の灯火を放っていた。
「へへ、ようやく辿り着いたぜ……あれが”審判の巨釜(おおがま)”だな」
呟くニールを、ヨランダは手を引かれて歩きつつ、困惑して振り返る。
暖炉の前には、白いクロスのかかった丸テーブルと、肘掛け椅子が陣取る。
椅子に座る人影が一人、その背後に付き従う人影が一人。
給仕、ヨランダ、ニールの三人が歩み寄ると、気怠い拍手が出迎えた。
拍手の主は、椅子に痩身をもたれ黒い長髪を靡かせた、美青年とも美女ともつかぬ存在だった。魅惑的な美貌は冷たく、油断ならない存在感を放つ。
背後には、黒装束の執事が背筋を伸ばし、隙の無い佇まいで侍っていた。
「よくぞここまで辿り着いた。盗人にしてはよくやった、と褒めておこう」
館の主人と思しき美貌の存在が、無感情な言葉でゆっくりと告げた。卓上のグラスを手に取り、中身を一息に飲み干すと、執事が素早く注ぎ足した。


丸テーブルに対面する位置で、ニールは立ち止まった。
ヨランダはそのまま給仕に手を引かれて歩き、主人の眼前に引き出された。
「ブレゲの錠盤を破った鍵師はお前か、小娘。よもやあの男ではあるまい」
「え? ええ……え、ええそれは勿論! このヨランダ・ヤンセンの」
「ヤンセン。聞き覚えのある名だ」
品定めする目でヨランダを見ていた主人が、そう言って執事を振り返った。
「その筋では有名な鍵師ですな。もっとも開ける専門ですが。伝え聞く話によれば、十八代目で男子が生まれず、家系が断絶したということでしたが」
ヨランダは息を呑み、執事を見遣った。銀髪に、銀縁眼鏡。黒装束を隙無く着こなし、その顔は主人に勝るとも劣らぬ秀麗さ。
何より、彼の両腰には長短一対の鞘がぶら下がり……彼は帯剣していた。


「ブレゲの錠前が破られたのは何年ぶりだったかな」
「記憶違いでなければ、八十三年と六ヶ月、二十八日ぶりかと存じます」
「細かいな。あれを作ったのは何代目だったか」
「稀代の鍵師と謳われた十三代目、コンスタン・リシャール・ブレゲです」
その名を聞いて、ヨランダは再び稲妻に撃たれたような衝撃を受けた。
「魔術師・コンスタンの作、だって!? どうして勝手口なんかに」
「嗜みだよ。財と暇を持て余したこの私のね。あれは一度錠盤を弄らせれば脇目も振らぬ物狂いであったが、私の洒落を解する得難き友でもあった」
主人は物憂げに瞳を伏せると、グラスの中身を舐めて口内に転がした。
「時の流れは残酷だな。人の命は短すぎる。小娘、お前もまた、な」
主人は言い終えるとグラスを飲み干し、執事を尻目に見て顎で示した。
執事は不穏な薄笑いを湛えて、主人に深々と頷き進み出た。


「稀代の鍵師の血筋を引いた小娘よ。あれが、貴様の保証人というわけだ」
「えッ!? え、ええッ!? いや、ボクはあいつについてきただけで」
ヨランダは言い澱んだ。咄嗟に思考を巡らし、ニールがどうしてこの屋敷に押し入ろうと思ったか、その理由を聞いていないことに思い至った。
「まあいい。理由などあっても無くても良いのだ。ワシは退屈している」
残忍な笑いを浮かべる主人の視線を追って、ヨランダが振り返った。
執事はニールを横目に通り過ぎると、部屋の中央に立って彼を手招きした。
「あのボロ雑巾のように薄汚い男にも、まだ使い道はあるというものだ」
「ちょ、えッ、ええッ、それってどういう……」
「余興だよ、鍵師・ヤンセン。物のついでだ、よく見ているがいい」
ヨランダは狼狽し、傍らに立つ給仕を見上げた。
給仕は厳めしい顔で薙刀を携え、無表情で”戦場”を見据えていた。


ニールは獰猛に笑って執事と向き合い、瘴気を振り撒く毒刀を構えた。
「呪具か。もしや噂に聞く、”鷹眼王”の忘れ形見……呪われし”無血刀”か」
「ご名答だ。執事ってヤツぁ、何でも知ってるんだな。頭が下がるぜ」
ニールの軽口に、執事は冷笑するどころか、ますます疑念を深めた。
「その一振りで国すら買える。稀代の秘宝を、なぜ貴様のような溝鼠が」
「知るかよ。偶然、懐に転がり込んじまっただから、仕方ねぇだろ」
ニールの返答に、執事は気に入らぬ様子で眉根を寄せた。
「男! 一応聞いておく。貴様の望みは何だ!」
「俺の望みはただ一つ、貴様の背中で燃えてるその”審判の巨釜”さ!」
執事はまたもや意外そうに、ハッと目を見開いてニールを見つめた。
主人もまた、意外そうな顔で給仕と目を見合わせ、痛快に大笑いした。


「ハッハッハ! ”審判の巨釜”か。お前、あれが何だか知っているのか!」
「痴れ者が。刀の毒で頭を冒されたか、汚い性病のようにな!」
「そうさ、伊達男。俺は骨の髄まですっかり腐っちまったんだよ」
ニールはよろけ、口から黒い血を流し、それでも笑って執事と対峙した。
「呪いはもううんざりさ。俺は全てを終わらせるためにここに来た」
執事は嘲るように鼻で笑うと、両腰の二刀を素早く抜き放った。
「ハッハッハ! 面白いやつだな、気に入ったぞ。お前、名乗っておけ!」
「ニール。ゴホッ、ゴホッ……ただの、ニールさ」
「剣闘で白黒つけようぞ、ただのニール。お前が勝てば、”審判の巨釜”でも何でもくれてやる! 但し、お前が負けたら、その刀も、お前の命も、この鍵師・ヤンセンも、全て! 全て私が貰い受ける! 分かったな!」
「ヘッ、強欲だねぇ。噂に違わぬ強欲ぶりだ、不夜城の主さんよ」


主は痛快そうに笑い、ひとしきり笑い終えると、給仕を見て顎で示した。
給仕は頷き、右手の薙刀を高く掲げる。
「それでは両者、位置について……剣闘、はじめ!」
主が告げ、給仕の薙刀が音高く床を突き、真っ向勝負が幕を開けた。
妖刀を構えて立ち尽くすニールの眼前、執事の身体が青い鬼火に包まれる。
火薬のように迸って消えた閃光の後には、二足で立つ狼が姿を現した。
「伊達男も人擬きだったってワケかい。だが妖刀は化け物も切れるぜ!」
「ほざけ!」
右手のレイピアと左手のマンゴーシュをX字に振り、二刀流の人狼が目にも止まらぬ速さで飛び出し、ニールへと間合いを詰めた。
ニールの髭面に浮かぶ濃緑の双眸が、毒刀の鼓動に応えて十字光を発した。
人狼が窄めた歯から鋭く息を吐き、凄まじい速さで二刀を突き出す!


金属音が立て続けに響いた。
人狼の執事は息もつかせぬ連撃を繰り出し、ニールを押して押しまくった。
ニールは右手一本で素早く妖刀を閃かせ、時によろけ、ふらつき、危なげに身体の重心をぐらつかせながら、人狼目がけて刃を斬り込んでいく。
「遅い、遅い、遅い! もう虫の息ではないか! 地獄の門が見えるぞ!」
人狼は挑発的に叫び、飛び下がって斬撃を躱し、再び間合いを詰めて突く。
ニールが一度斬りつける間に、人狼は八度、九度と両刀を突き出し、三度、四度と刃をニールの身体に掠めては、手傷を負わせた。
それは防戦一方という言葉すら生温い、獲物を嬲って遊ぶ鯱の狩りだった。
ニールは口から血を流し、手足を細かく突き刺されながらも、最低限頭への攻撃だけは躱しつつ、間合いを見切って人狼へと斬り込んだ。
人狼は嘲い、飛び下がって致命の斬撃を躱し、僅かな掠り傷に留める。


「ハッハハハ! 妖刀は化け物も切れると言ったのは、どこのどいつだ!」
膝、腰、肩、足の甲に脇腹、変幻自在の太刀筋がニールの体表を刺す。
いずれも致命傷ではない。じわじわと体力を奪い、反抗心を奪っていく。
ニールは頭部への一撃を躱し、半身で踏み込み緩やかな斬撃を放った。
否、緩やかに見えたのは幻覚だ。瘴気が像をぼやけさせ、毒刀が襲い来る。
「何ッ!?」
不安定な姿勢からの逆袈裟が、人狼の顔面に斜めの縦傷を走らせた。
だが、浅い。それは唇から鼻筋、額を僅かに抉っただけの、浅過ぎる傷。
「クソッ、遊んでいればいい気になりやがって、この身の程知らずめ!」
逆上した人狼が牙を剥き、唸り声と共に両刀を閃かし、飛び込んだ。
「そんなに死にたければ殺してやる! 死ね! 今すぐ死ね!」
右手のレイピアで、頭蓋を貫通! 左手のマンゴーシュで、心臓を貫通!


致命傷の部位を二ヶ所、一気に刺し貫かれ、その場の空気が凍りついた。
「終わったか」
主人が息をつき、給仕を一瞥して空のグラスを指で示した。
給仕が頷き、ルビーのように輝くデキャンタからグラスへ酒を注ぎ入れる。
「二、ニ、ニールッ! お、オニーサアアアアアアン!」
ヨランダが叫び、主人が肩を竦め、給仕が無表情で見遣り、人狼が笑った。
「ク、ク、ク……クへへへハハハハハハ」
ニールも、笑った。頭蓋と心臓の穴から黒い血を流し、愉快そうに笑った。
「全く、本当に、教会の鐘……みたいに、騒々しいヤツだよ……お前は」
ニールの濃緑の双眸がギョロリと人狼に焦点を合わし、十字光を放った。
「何だ貴様ッ!?」
咄嗟に危険を感じた人狼が、ニールから二刀を抜き様に飛び下がった。
ニールは二穴から穢れた血をしぶきながら、既に毒刀を振り抜いていた。


「グフッ、油断したッ!」
人狼がニールから距離を取り、マンゴーシュを握る左手で胸をなぞった。
肋骨まで達する切り傷が、鳩尾のすぐ下を走っていた。
だが、致命傷ではない。
「ケケケ、ゴボォッ! 辛いよな、不死の呪いってヤツぁよ」
「不死だとォ!? 笑止、人間の分際でそんなものがあってたまるか!」
人狼がニールを睨んで歯噛みし、再び戦闘の構えを取った。
突き突き突き突き突き突き突き! 斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り!
チャンバラごっこに明け暮れる子供のような、出鱈目な打ち合い!
ニールの鈍い斬撃は人狼を掠めるばかりで、人狼の鋭い打突は的確に人体の急所を捉えて、一打一打ニールを貫いていた。
「甘い甘い甘い甘い甘い甘いぃぃぃ! 甘いぜ、伊達男ぉぉぉぉ!」
しかし、ニールは穢れた血を振り撒きながら、倒れない。


ニールが田舎剣術めいて妖刀を振りかぶれば、人狼が素早く飛んで躱す。
人狼は肩口に走った傷を忌々しげに見つめ、この不毛で出鱈目な戦い、この不毛な剣闘がいつ終わるのか、その糸口さえ見つけ出せずにいた。
人狼の眼前に立つ、汚らしい人参色の髪の男は、緑の双眸を十字に光らせて全身から血をしぶきながらも、相も変わらず彼の前に立っていた。
傷だらけの身体からどす黒い血を流し、ニールは凄惨に笑っていた。
「さあ、殺れよ伊達男。俺を殺れるもんならやってみろ……さあ早く!」
「クソッ! 言われなくとも、今すぐに……」
人狼は言いかけ、身体の痺れるような感覚を覚えて二刀を取り落とした。
何だ? 足がもつれる。頭が回らない。目も掠れるし耳も遠い。
そうして人狼の視界がぐるぐると回り、彼は訳も解らずに倒れた。


「やれやれ、やっとか畜生。頑丈な野郎だったが、まあまだ生きてるだろ」
ニールは片膝を追って妖刀で身体を支え、黒い血を垂らして息を吐いた。
薙刀を構えて飛び出しかけた給仕を、主人が手を振って遮った。
「く、そ……まだ、だ。まだ……身体が、動かん……貴様、一体何をした」
「”無血刀”の呪いを知ってっか、博識なワンコロよ。こいつは、肉を切ったそばから、血を抜くんだよ。獲物の血を啜る刀、正に呪いの刃だ」
「う……息が、息が苦しい……くそ、あともう一刺しで、貴様を」
「馬鹿か手前は。殺ろうと思えば最初の一発でこいつをブッ込んで、手前の血をありったけ根こそぎ吸い尽くすことだって、出来たんだからな」
人狼は濁った瞳で舌を食み出させ、呼吸を荒げて空気を貪り続けた。
ニールは咳き込み、吐血して立ち上がった。身体の傷は既に癒えていた。


ニールは覚束ない足取りで、何度もふらつきながらテーブルの前に立った。
「成る程、不死の呪いか。種を明かせばどうということはないな」
主人が黒髪を靡かせ、ニールへと祝杯を湛えたグラスを掲げ、飲み干した。
「だが、それも今晩今宵のこの時までさ、旦那。旦那で良かったかな?」
「結構だ。しかしもう少し、ワシに分かる言葉で説明してはくれぬか?」
ニールは不貞腐れた表情の給仕と、鷹揚に椅子へもたれる主人と、歓喜して飛び上がるヨランダとを順々に一瞥してから、背後の暖炉を指差した。
「あれ、見えるだろ。”審判の巨釜”、だよな」
「いかにも。その”無血刀”に勝るとも劣らぬ、古今東西類稀なる呪具よ」
「よろしい。では、この俺とこの”無血刀”を、そいつに放り込んでほしい」
ニールの言葉に、卓上の空気が、凍りついた。


「えッ!? えッえッ、そんな馬鹿な、嘘よ、そんなオニーサン」
ヨランダは狼狽していた。給仕の袖を引いては、ニールに喚いた。
その傍らで、主人が溜め息がちに妖刀を炎に透かし、頭を振った。
「ハァ。考えてみれば勿体無い話よの。本当に、本当に良いのだな?」
「構わねえよ。見ての通り、俺の身体は骨の髄まで腐っちまってるんだ」
暖炉の火を穏やかな眼差しで見つめるニールが、振り返って服をはぐった。
死人めいた青白い体には、疫病に似た黒斑が縦横無尽に這い回っていた。
「俺は死なねえ。今のところは死なねえ。死なねえが、そのうち鬼になる。妖刀を路辻で振るって、罪の無い人間を切り刻む殺人鬼になっちまうんだ」
「いかにもありがちな話だな。それを誰から聞いた?」
「三人聞いた。都で一番の占い師、辺境の部族の長、山奥の年老いた魔女。まー話の仔細は違うが、行きつく先はどの話も似たようなものだった」


「ご主人様」
給仕が酷薄な眼差しでニールを見据え、主人を一瞥すると、主人は頷いた。
「構わん。剣闘の結果は結果だ。ただのニールが言うままにさせろ」
主人は半ばやけっぱちな言い草で、肘掛け椅子にもたれて軋ませた。
「それに、この呪具は私が収集するには些か毒が強すぎるようだしな」
「そ、そんなあッ! な、何でッ、ニール、オニーサン! 世界中を探せば呪いを治せる手立てだって、あるかもしれないのに。諦めないでよ!」
「どうでもいいぜ、嬢ちゃん。俺はお前を金で買った。契約通りに、お前は技術を提供した。話はそれで終わりだ。後はどうなろうと知ったことか」
「今生の別れだ、ただのニール。最後に言い残したことはあるか」
「そこで突っ立ってる情けないガキは、ちゃんと生きて家に帰してやれよ」
主人は意外そうな顔をすると、やがて痛快な笑い声を轟かせた。


「ヤダッ! やだよッ! 放せッ! オニーサン! ニール! 何でッ!」
「さてまあ、じゃあ、さっさと入れちゃって」
豊満で長身の給仕女が、ニールを酷薄な目つきで見下ろした。
「痛めつけて悪かったな、お前のコレ。生きてるから安心していいぜ」
「地獄に落ちろ、人間」
女の美貌が凄絶な笑みを浮かべ、青い鬼火と共に山猫の顔へと変貌した。
「狼の次は猫か。全くどいつもこいつも……主人は一体何なのやら」
首根を掴んで持ち上げられたニールが、ヨランダを羽交い絞めにして押さえつけている主人を視線で見据えた。
「さてね。”審判の巨釜”から生きて帰ってきたら、教えてやらんでもない」
「不夜城の主さんよ。勝手に家に上がり込んで、悪かったな」
「構わんよ。おかげでいい見世物が見られた。最後までな」


山猫の給仕は、ニールと呪われし刀を”審判の巨釜”に放り込んだ。
長い長い悲鳴が屋敷を貫き、夜の闇を貫いて虚空に舞い上がった。
清浄なる炎に炙られた妖刀が、不浄なるどす黒い瘴気を撒き散らし、夥しい人間たち、夥しい犠牲者たちの呻き声を天まで轟かせた。
ヨランダは息を呑み、生きたまま焼かれるニールの姿に力なく膝を落とす。
呪いが消える。清浄なる裁きの炎に焼かれ、憑代もろとも焼け果てる……。
”審判の巨釜”、貪欲なる火炎は清濁併せ呑み、ぺろりと舌なめずりをした。
ヨランダは這いつくばったままその様を見つめ、無力感にただ滂沱した。
「お前、いつまでその顔で居るつもりか。怖くて敵わんよ、ハハハ!」
「申し訳ありません」
給仕は冷たい女の顔に戻ると、主人の手招きに頷き、火かき棒を手渡した。
主人は黒髪を靡かせて歩み出ると、底知れない笑みで暖炉の灰を掻き出す。
山の様に掻き出された灰は、やがて男を形作り……僅かに、蠢いた。


【剣士と鍵師と不夜城の主 おわり】

From: slaughtercult
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