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アウトサイド・モノクローム/4話

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―――――(17)―――――


見慣れない玄関。嗅ぎ慣れない匂い。耳慣れない柱時計の音。他人の生活と記憶が染み着いた空間。この場にあっては、自分はどうしようもなく異物で余所者なのだ。恭仁は居間の畳に正座して二階堂家と向き合い、自覚した。

「肇(はじめ)だ、肇が帰って来た!」

パジャマ姿で白髪の初老男性が、呆けた顔を喜びに歪めて言った。その隣で丸顔に眼鏡の初老女性が、諦め疲れ切った顔で、男の背を摩っている。男は二階堂奨(すすむ)。女は志信(しのぶ)。恭仁の祖父母だ。その周りには夫婦と思しき中年の男女と、その子供であろう少年と少女が座って、どこか居心地の悪い様子で顔を見合わせた。恭仁は畳に三つ指をついて平伏す。

「お祖父様、お祖母様、お久しぶりでございます、と申すべきでしょうか」
「肇! 何か食いたい物はあるか。お前は蕎麦が好きだった。そうだよな」

認知症から恭仁を息子と錯誤している奨の言葉に、中年男が怪訝な面持ちで恭仁を一瞥し、何者か問い質すように志信を振り向いた。志信は頭を振る。

「倉山恭仁と申します。生まれは東京、育ちは竜ヶ島。二階堂肇と早紀恵の倅にして、今は亡き母の兄である倉山利義の養子と相成りまして、倉山家の姓を名乗り竜ヶ島に暮らし、もう直ぐで16年となります。近頃、僕の出自と両家の絶縁という話を伝え聞き、願わくば亡き父と、お祖父様とお祖母様のお顔を一目窺いたく、遠路はるばる竜ヶ島よりこうして参った次第です」

恭仁が立て板に水の口上を述べると、志信は奨の背中を摩り、何度も頷いて涙を滲ませ、顔を袖で拭う。傍らの少女が堪え切れない様子で噴き出した。

「めっちゃ訛ってるし。ウケる」

少女より背の高い兄と思しき少年が、血相を変えて少女の頭を叩いた。

「バカッ! お前、茶々入れてる場合か!」
「だっておかしいんだもん!」
「もう16年になるのね。長く見ない間に大きくなったけど、その目鼻立ちは肇にそっくり。お父さんが当たり前だった時、もっと早くに来てくれたら」

言い合いを始めかけた兄と妹が、祖母の沈痛な語りを聞いて口を噤む。

恭仁は床の間に行って仏壇に線香を上げ、合掌した。頭上の壁からせり出す梁に掛けられた写真の額縁を見遣り、最も新しいカラー写真に映る、若くて野性味の強い男に目を停めた。恭仁は確信する。自分の父、肇に違いない。

振り返ると、反対側の壁際には介護用の寝台。草臥れた掛布団や擦り切れた手摺から、使い込まれた様子が見て取れる。恭仁は双眸を窄め、仏壇に再び視線を戻して一礼すると、ぎこちない空気の居間に戻り、腰を下ろした。

テーブルには、歓迎の茶一杯も出てくる気配は無い。お前はここに居るべき人間ではないのだ、と暗示するように。志信が伏し目がちに恭仁を見遣る。

「肇のしでかしたことで、私たちがどれほど周りから責められ、辛い思いに耐え続けて今まで生きてきたか。恭仁、貴方には想像もつかないでしょう」
「僕の電話を悪戯だとあしらい続けたことに、今までの苦労が偲ばれます」

恭仁が頷いて答えると、志信は片手で顔を覆い、長い長い溜め息をついた。

「肇の罪は、私たちが背負い償っても償いきれるものではないわ。それでも私たちは犯罪者の家族という十字架と、一生分の苦しみを背負ってどうにか今まで生きて来た。今の願いは静かに暮らし続けたいだけ。分かるわね」
「お会いできただけで嬉しいです。それ以上は何も望みません」

恭仁はトランクを開け、持参した茶菓子をテーブルの上に差し出す。月桃の甘い香りがふわりと漂った。月桃の長い葉を折り畳んで包み、紐で縛られた粽(ちまき)に似た形状の物体。中身は、恭仁お手製のヨモギ団子だ。

「墓参りに寄って、竜ヶ島へ戻ります。つまらない土産ですが、どうぞ」

恭仁が腰を上げかけると、奨が呆けた顔で恭仁を見上げ、唇を蠢かせる。

「肇、どこに行くんだ、肇!」

恭仁が穏やかな笑みで祖父に歩み寄ると、鼻を衝くアンモニア臭を感じた。

「ご心配なく、お祖父様。僕はご先祖様の墓参りに行ってくるだけです」
「おお肇、肇だ!」

奨は恭仁の言葉を無視して、恭仁の顔を両手で無遠慮に撫で回す。その手が恭仁の側頭部をガッシリと掴み、十指が万力のような圧で挟み込んだ。

「鬼、悪魔、人殺し、この親不孝者! 人でなし、肇、この人でなし……」

恭仁は無表情で奨を見つめる。奨の手から力が抜け、彼はガクリと項垂れて涙を流した。志信がそっと寄り添って肩を貸し、立ち上がらせて床の間へと歩むと、寝台に横たえた。恭仁は残された叔父一家を一瞥し、腰を上げる。

「お邪魔しました。それでは失礼します。どうかお元気で」

叔父から墓所の在り処を聞いた恭仁は、同伴を丁重に断ると、独り家を出て北へ歩んだ。小さな寺院、池上院の角に立つ、深大寺南参道の石碑を目印に路地へ足を踏み入れる。住宅の密集する坂道を登ると、無機質な街が開けて木立が姿を現す。蕎麦屋を横目に丁字路へ出れば、そこは深大寺通りだ。

褐色の舗装道路に沿う並木道の歩道を、恭仁は南東へ進む。曲がり道を抜けバス停が姿を現すと、北東に折れて石畳の参道へ。蕎麦屋を横目に門前町を行けば、正面に石段と朱色の山門、その奥に聳えるは……古刹、深大寺。

恭仁は境内に足を踏み入れると、常香炉に歩み寄って線香を立てた。本堂に立ち寄って合掌し、元三大師堂と開山堂を横目に境内を抜け、北門から出て神代植物公園と隔てる十字路を西へ。2軒の蕎麦屋が並び立つ横を通り過ぎ森の道を行く。右手の公園敷地を閉ざす鉄柵に沿って暫し歩くと、その先で木立が途切れて空が見えた。都会の空隙に潜んだ、静かなる墓地が現れた。

恭仁は墓所に並び立つ卒塔婆と墓石の中から、二階堂家を探す。それらしい墓は直ぐ見つかった。墓前に投げ出された猫の死骸が、8月の午後の熱気に腐敗臭を漂わせていた。墓石は切られ穿たれた古傷が夥しく刻まれ、家名の上に赤黒い血で人殺しと大きな文字で書き殴られ、墓石を滴り落ちて乾燥しへばりついていた。菊花と供物は地に打ち捨てられ、踏みにじられている。

無言で立ち尽くす恭仁の背後を、他の墓参者が薄気味悪そうな顔で通り過ぎひそひそ話を交わす。恭仁は唖然と立ち尽くし、猫の死骸を片付ける手段を先ずは考えた。動物の轢殺体は市役所が処分してくれるという話をどこかで聞いたことを思い出し、スマホで市役所に電話する。応答する気配は無い。

「そうか、お盆だから役所も休みなんだ……」

呼び出し音が無情に鳴り続ける電話を、恭仁は呆然と切った。トランクからビニール袋を何枚か取り出し重ね合わせて、猫の死骸と菊花と供物の残骸を詰め込む。恭仁は墓前に膝を折って途方に暮れ、墓所への道中に動物霊園を見たことを思い出す。恭仁は一縷の望みを託して、袋を手に墓所を出た。

「事情は分かりましたが、当園といたしましてもご遺体を受領するためには所定の料金を拝領しなければなりません。一番安価なプランですと、複数のご遺体をまとめて火葬する合同葬がご案内できますが、いかがでしょうか」

恭仁が動物霊園に猫の腐乱死体を持ち込むと、葬儀屋は譲歩に譲歩を重ねて引き受けは出来るという態度を示した。恭仁は懐具合を確かめ、渋々頷く。

「よろしくお願いします」

選択肢は無かった。恭仁は身銭を切って猫を葬儀屋に託し、荼毘に付した。

恭仁は墓所に戻って共同の掃除道具を拝借し、死臭の染みついた手で柄杓を振るって墓石に水をかけ、丹念に磨いて落書きを洗い落とす。奥歯を噛んで手を動かす恭仁の目に、悔し涙が滲んだ。清められた墓石の傷ついた地肌に陽光が乱反射し、鈍く照り返す。花と供物は取り返しがつかないが、これで一応の面目は立つ。いずれにせよ、恭仁の自己満足だ。隙を見て墓荒らしは繰り返されるだろう。二階堂家はこの仕打ちにずっと耐え続けてきたのだ。

恭仁は墓参りの戻り道、並び立つ蕎麦屋の暖簾に目が留まり、祖父の言葉を思い出して暖簾をくぐった。どうやら蕎麦は父の好物だったらしい。恭仁は生粉打ちのせいろそばを大盛りで頼み、黙々と腹に詰め込んだ。父の遺影と墓前の猫、人殺しの血文字が頭に次々と過ぎり、恭仁は声を殺して泣いた。


―――――(18)―――――


盆が過ぎ、竜ヶ島。恭仁は高校の射撃部に入り、補修の傍らピストル射撃に打ち込んだ。入部を勧誘した先輩部員、岩切や地頭園の見立て通り、恭仁は射撃の基礎を教わると、短期間の反復練習で上達し、素質を開花させた。

夏休みが終わり、9月が過ぎ、10月の半ば。来る11月中旬の射撃競技大会を見据え、恭仁は射撃部の先輩からビームピストルの段級位に挑戦することを勧められた。段級位の取得にはライフル射撃協会に加入が必要で、検定料を支払って段級審査会を兼ねた競技会に出場し、段級ごとに所定の射撃成績を達成できれば、晴れて段級位が得られる。ビームで高段位を得れば協会から低年者推薦が受けられ、エアピストルへとステップアップする道も開ける。

「そのためには、最低でも初段ぐらいは持ってなきゃ話にならないな」

地頭園が黒ビニールの射手手帳を開いて見せ、恭仁に告げた。地頭園は既に3段まで持っている。恭仁が訝しんで地頭園を見返すと、彼は肩を竦めた。

「3段の合格ラインは40発で360点だ。これって、結構凄いんだぜ。それでも協会は俺に推薦を出しやがらねえときた。この国でエアピストル所持許可が出る人数は500人限定なんだ。並大抵の上手さじゃ推薦は出ねえらしいな」
「地頭園先輩は、4段にも挑戦するんですか」
「は? たりめーだろお前。エアの推薦が認められりゃ、竜ヶ島で初めての少年エアピストル所持者だぞ。3段で駄目ならもっと上手くなるまでさ」

地頭園は苦笑に悔しさを滲ませて手帳を仕舞い、恭仁を見上げて肩を叩く。

「ま、お前の腕なら初段ぐらい直ぐだろ。5級から始めて、1級までは同時に試験が受けられる。1級は40発で330点が合格ラインだ。それと学科試験な」
「学科試験?」
「確か5級と初段の2回、学科もやらされたっけな。銃は撃てても頭が弱いと段級は渡せないってこった。まあその辺は教えてやるから心配すんな」
「お疲れちゃーん。地頭園クンも倉山クンも、楽しそうにやってるじゃん」

制服姿で様子を見に来た岩切が、ニヤついた顔で地頭園と恭仁に歩み寄って2人を交互に見る。3年生の彼女は夏の大会を最後に射撃部を引退していた。

「お疲れ様です、岩切先輩」
「お疲れっす。お陰様で、仕込み甲斐があるヤツですよ」
「4月から始めてたら、夏の大会を足掛かりに出来たのにねー」

恭仁はぎこちない笑みで岩切と地頭園に応えた。彼が数ヶ月の間にどれほど血の滲む努力を重ね、結末に何を見たかは、胸の内に隠された秘密だった。

部活を終えた恭仁が帰宅すると、居間から義母の話し声が聞こえた。恭仁は緊張に全身を強張らせ、玄関のドアを静かに閉ざし、何度か深呼吸する。

居間の戸口から恭仁が顔を出すと、義母の香織と霧江の会話が途絶え、変な静寂が生まれる。香織はぎこちなく恭仁から顔を逸らし、声を吃らせた。

「お帰りなさいませ、香織さん」

恭仁は平静を努めて香織に一礼した。香織は押し黙ったまま、恭仁を尻目に見るばかり。互いの緊張感を解そうと霧江が口を開こうとした時、電話機が呼び出し音を響かせる。恭仁は踵を返し、廊下の電話機の受話器を上げた。

「はい、倉山です」
「二階堂です。この声は、恭仁さん?」
「ええ、僕です」
「お父さんが体調を崩してね。入院したけど、日に日に弱っていくばかり」

二階堂の祖母、志信の言葉に恭仁は驚き、息を呑んで目を見開いた。

「お父さん、寝床で肇の名前をずっと呼んでたわ。お医者様の話では、もう長くないかもって。恭仁さん、最後に顔を見せに来てはもらえないかしら」

息子の代わりに孫の顔か、随分と勝手な話だ。恭仁は溜め息をこぼした。

「行けると確約することはできませんが、病院の場所は伺っておきます」

恭仁は傍らのメモ帳にボールペンを走らせ、受話器を置く。ふと視線を感じ振り返ると、霧江が戸口から顔を覗かせていた。物言いたげな義姉の表情に恭仁は淡々と背を向け、メモ帳からページを千切り取って視線を落とした。

「誰からの電話だった?」

歩き出そうとする恭仁の足を、霧江の問いが止める。

「……二階堂さんからです」
「何の電話だったの?」
「向こうのお祖父様が危篤だそうです」
「行くの?」
「分かりません」
「分からないってどういうこと?」

恭仁が手短な言葉で会話を打ち切ろうとする度に、霧江は呼び止めるように矢継ぎ早の質問を彼に浴びせた。恭仁は溜め息がちに霧江を振り返る。

「あの人たちに必要なのは、倉山恭仁としての僕ではありませんから」

恭仁はそう言うと、押し黙る霧江に背を向け、自室へ歩みドアを閉ざした。


―――――(19)―――――


11月初旬、文化の日が土日に付随した3連休。恭仁は朝の飛行機で羽田へと向かい、昼前には調布駅に降り立ち、京王線沿いの総合病院に向かった。

5階の相部屋に顔を出すと、寝台には祖父の奨が目を閉ざし、弱った様子で人工呼吸器に繋がれ、横臥していた。心電図の描く脈拍と心拍数、規則的な電子音までも、恭仁には弱々しく感じられ、紙一重の危うさに満ちていた。

「お父さん、肇が来たわよ。お父さん」

祖母の志信が椅子から腰を上げ、恭仁を座らせて奨の手を握らせた。暫しの時が過ぎ、恭仁の握る奨の手が微かに動いた。呆けた顔が唇を蠢かせた。

「ああ、お父さん。肇よ、お父さん。分かるのね」

志信は涙を滲ませて喜んだ。恭仁は死んだ眼差しでそれを見下ろした。彼が見ているのは、数ヶ月前に寝台に横たわっていた自分自身だ。生き意地汚い無様な姿がそこにある。生きるのは惨めだが、死ぬのは無様だ。死に切れず生き続けるのは何より情けない。恭仁は空想で刀を取り、今生にしがみつく未練がましい首を一息に切り落とし、介錯した。奨はか細く呼吸を続ける。

「……なぜ僕を呼んだんですか」

恭仁は鎮静剤を静脈注射されたような抗い難い無力感に苛まれ、掠れた声で消え入るように呟いた。奨の手から力が抜け、再び夢のまにまに忘我する。

いっそ心臓が止まり、ドラマチックに心電図が鳴り響けば良かった。最後に僅かでも綺麗な思い出が残れば良かった。寝台の祖父は生死も定かではない呆けた顔で眠り、辿り着くしかない旅路の終点を先延ばしにし続けていた。

恭仁は無言で椅子を立ち、志信に会釈し病室を出る。志信は恭仁のことなど忘れてしまったように奨の手を握り、眠り続ける顔に何事か語っていた。

恭仁は調布駅に戻り、駅ビルの花屋で白百合を買うと、北口にあるバス停の34番乗り場から出る京王バスに乗って、深大寺を目指した。二階堂家の墓を冷水で磨き、墓前に白百合と手製のヨモギ団子を備えて合掌する。帰り道に動物霊園で猫に合掌し、蕎麦屋で十割を食し、夕方の便で竜ヶ島へ戻った。

「へえ、倉山クン東京行ってきたんだ。いいなー」

翌日の学校で、恭仁は調布駅のプリンを手土産に、射撃部員たちへ侘びた。

「やる気あるんだろうな? 手を抜いて痛い目見るのは、お前自身だぞ」
「ちょっと家の用事で。忙しい時期に練習を休んですみません」

地頭園の叱責に弁解する恭仁を、伊集院が横目に見た。恭仁の横顔は暗い。

「家の用事って何だよお前。適当な理由こいて誤魔化してんじゃねえか?」
「調布のお祖父様が危篤だというので、見舞いと、ついでに墓参りに」

恭仁の言葉に、部室がシンと静まり返る。藪蛇を突いた地頭園が他の部員に咎める目で見られ、彼は舌打ちすると苛立たしい身振りで背を向けた。

「何だよ。だったら、初めからそう言えば良かっただろッ!」

地頭園は足早に射座に戻ると、ピストルを黙々と撃った。変な空気になった部員たちもまた、プリンを食べ終えて1人また1人と射座に戻っていく。

それから2週間が過ぎ、射撃競技会の当日。義母に頭を下げ、5級から1級の検定料を出してもらった恭仁は、緊張の面持ちでピストルを握った。点数は合格スレスレで、初心者ながら侮れない才覚を遺憾なく発揮する。地頭園は4段を目指すも僅かに点数が届かず、壁の厚さに歯噛みして再戦を誓った。

その翌日、二階堂奨は年越しはおろか12月も待たず、没した。電話を受けた恭仁は散々迷った挙句、見かねた霧江に促され、3度の東京行きを決めた。

利義と香織に頭を下げて旅費を都合し、学校に忌引の連絡をして、飛行機の空席を探し荷物をまとめると、取る物も取り敢えず調布へと旅立つ。恭仁は自分が葬式に立ち会うべきか否か、未だ確信が持てずにいた。葬儀場で棺に納まる祖父の姿を見た時、心に沸き上がったのは悼みとも憐れみともつかぬ形容不能な感情で、強いて言えば安堵に似ていた。やっと旅立てたのだと。

火葬を終えて、親族に混じってお骨を拾う恭仁の胸中は、どうしようもない場違い感で満たされていた。繰り上げ初七日法要を済ませ、親族が集まって精進落としを食する輪に混じって、恭仁は静々と料理を摘まむ。親戚たちも恭仁という見知らぬ少年の姿に戸惑い、進んで語らなかった。恭仁が視線に気づいて顔を上げると、二階堂家で見た従妹の少女が彼を見つめていた。

「あんたが来たから、お爺ちゃん死んだみたい」

恭仁はからかうような少女の顔を暫し無言で見つめ、無言で溜め息をついて視線を逸らす。少女の隣に座る兄の少年が、血相を変えて平手を掲げた。

「和葉ッ!」
「殴らないでください」

睨み合う従兄妹が、思わぬ言葉に驚いて恭仁を振り返った。恭仁は吸い物を飲み干し、器の底に視線を落とす。少年は毒気を抜かれたように振り上げた手を下ろすと、少女と互いに顔を見合わせ、神妙になり居住まいを正した。

「悪かった。こいつ、ちょっと空気読めないとこあるから」
「いえ。お気になさらず」

少年はやり辛そうな顔で少女を小突き、少女は不思議そうに恭仁を見た。

「何で敬語で喋るの?」
「結局、僕は余所者ですから」

恭仁が翳のある微笑みで告げると、少女は恥ずかしそうに目を逸らす。

「確か竜ヶ島に住んでるっつったな。東京、来るのに時間かかるだろう」
「飛行機で2時間弱ぐらいですよ。飛行場に着くまで1時間かかりますけど」
「ふーん、田舎じゃん」
「そうですね。近くの海に火山の島があって、いつも噴火してます。街中に火山灰が降り積もる時は、車が道路にブラシをかけて掃除するんですよ」
「田舎って長閑だと思ってたけど、意外とデンジャラスな所なんだな」

都会人には想像もつかないのだろう、従兄妹は困惑の表情を見合わせた。

「交通の便は悪いし、台風の通り道だから時期になると大変ですし、不便も多いですが、住めば都って言うんですかね。何だかしっくりくるんです」
「そんな話聞いただけで、田舎とか絶対ムリ。私は東京がいいもん」
「ほんの少し人生が違っていたら、僕もそう言っていたかも知れませんね」

恭仁が俯きがちに答えると、従兄妹はそれ以上何も言えずに押し黙った。

精進落としを済ませると、一同はお骨を伴い二階堂家へ戻った。床の間には後飾り祭壇に遺影と位牌と骨壺が安置され、二階堂家の親戚に混じり恭仁も線香を上げる。傍らに置かれた空っぽの寝台が、二度と戻らぬ存在の喪失を実感させた。いたたまれずに居間を出る恭仁の背中を、叔父が呼ばわった。

「恭仁クンだね。いつも竜ヶ島から東京まで来てくれて、ありがとうな」
「お呼びくださって感謝申し上げます。お祖父様が身罷り本当に残念です」
「最後のお別れが出来て、親父もきっと喜んでるよ」

恭仁と叔父は連れ立って歩み、玄関を出ると忌中の提灯を横目に庭を行く。

「この家は手放そうと思っている。思い出は色々あるが、叔父さんたちには嫌な思い出の方が多いから。こう言っちゃ何だが、いい機会だったんだ」

叔父は門扉へと続く飛び石の只中で足を止め、振り返って屋敷を示した。

「親父が死んでも、お袋は生き続ける。ようやく色んな悩みやしがらみから解放されたんだ。お袋には叔父さんたちの家に引っ越してもらって、自分の望むように生きて欲しい。お袋に手間かけさせたくないから、深大寺の墓も仕舞って納骨堂に改葬するよ。ご先祖様には申し訳ないが、死んだ人間より生きてる人間の方が大事さ。俺たちの人生を、やっと取り戻した気がする」

昼下がりの曇り空から、ぽたりと冷たい雨が滴る。叔父は恭仁に背を向けて腕組みし、片手で顔を拭って鼻を啜ると、無理矢理に笑って振り返った。

「やれやれ。高校生の子供に、俺は何を言ってるんだかな。しっかりしてるキミを見てると、自分の弱音を曝け出してもいいように思えてね。倉山家の教育の賜物ってことかな。家の子供たちにも爪の赤を煎じて飲ませたいよ」

恭仁は喉の奥に小骨が引っ掛かった心持ちで、肯定も否定もせず目礼する。

「キミも忙しいだろう。四十九日は無理して来なくて大丈夫だからな」
「ご心配いただきありがとうございます。それでは失礼します」

恭仁は一礼して踵を返すと、振り返らずに歩んで二階堂家の門をくぐった。


―――――(20)―――――


年明けの竜ヶ島に、珍しく雪が降った。霧江はセンター試験を目前に控えて神経を尖らせ、家庭の空気をひりつかせていた。恭仁は高校生活を送る傍ら積極的に家事も手伝い、義母の負担を減らして精神が安定するよう努めた。

「今日も遅くなりそうだから。夜ご飯は適当に自分たちで食べて頂戴」
「分かりました」

恭仁は受話器を置くと、キッチンに戻って包丁を握った。俎板で刻む途中の野菜をサクサクと刻んでしまい、鍋に放り込む。霧江が背後で足音を響かせ冷蔵庫の前に立つと、ゴソゴソと中身を漁って叩きつけるように閉ざした。

「お母さん、また帰り遅くなるって?」
「そう言ってました」
「自分ばっか遊び歩いて、何考えてんのよ。私も受験前だってのに」

苛立ちを露わにする霧江の言葉に、恭仁は背を向けたまま肩を竦めコンロの火を見守る。近頃、香織は恭仁に家事を任せて外出し、帰りが遅くなるのもしばしばだった。利義は警察の職務の忙しさで、今まで彼女に家事を任せて子育ても一手に押し付け、情緒不安定となって家庭不和を惹起した負い目もあってか、気分転換と称する香織の外出に、利義は口出しするのを避けた。

「あんたは何とも思わないワケ?」
「何ともって、どういうことです?」

霧江はペタリと足音を鳴らし、恭仁に向き直ると蔑むように笑った。

「どこかで男でもできたんじゃないの?」

霧江が口にした疑念に恭仁は答えず、衣を塗した鯖の切り身を揚げ物鍋へと投じていく。沈黙する両者の間で、油の爆ぜる音がやけに大きく響いた。

「どうして何も言わないのッ!?」
「事実がどうあれ、僕には見守ることしか出来ませんから。僕が悩んだって何かが解決するわけでもない。それより出来ることを頑張った方がいい」

淡々と語る恭仁の背後で、グシャリと紙パックが握り潰される音がした。

「あんたは倉山の人間じゃないから、そんな呑気なこと言えるんでしょ!」

霧江の投げつけた紙パックが恭仁の後頭部を直撃して跳ね返り、床に転げて鈍い音を立てる。恭仁が溜め息と共に振り返ると、霧江は涙を滲ませる顔に憎しみを湛え、大股で歩み寄った。霧江の突き出す右手の喉輪が恭仁の首を捕らえて、彼女の左手が恭仁の右手を掴み、油の沸く揚げ物鍋に近づけた。

「こんな生意気な右手、壊してやる。お前も苦しめ……もっと苦しめよ!」

霧江が覆い被さる姿勢で両手に力を籠め、恭仁は背後で沸き立つ2つの鍋を避けるように背を逸らした。恭仁が力を込めて、霧江の力を押し留める。

「霧江、さん……義姉(ねえ)さん……ッ!」
「姉さんって呼ぶなッ! 血が繋がってない、赤の他人の癖にッ!」

霧江が怒りとも笑みともつかぬ顔を恭仁に近づけ、滂沱しながら叫んだ。

「他人だなんて……そんなこと、そんなこと僕だって分かってますッ!」

恭仁は顎を押し上げられた体勢で、左の拳を振った。霧江の側頭部に当たり彼女の力が弱まると、霧江の下腹部へと膝蹴りを入れる。手加減したものの霧江は腹を押さえて蹲り、意味不明な言葉で恭仁を罵り泣き喚くと、緩慢に起き上がって自室に歩み戻る。恭仁は当惑して彼女の後姿を見つめていた。

その晩、霧江は晩餐の場に姿を見せなかった。恭仁は大皿に盛った揚げ物にラップを被せ、1人分の食器を洗って居間を後にする。脳裏に谺する言葉と胸中を蝕む迷いを振り払うように、黙々と風呂を掃除して熱い湯を溜めると凍るように冷たいシャワーで身を清め、熱い湯船に胡坐を組んで黙想した。

恭仁は風呂から上がり、自室で宿題を済ませると寝台に潜り込む。明かりを落とすと、忘れていたはずの言葉が思い出され寝付けない。静まった部屋に刻々と時が過ぎて、恭仁は瞳を強く閉ざして、早く眠れるように願った。

夜半。ようやく眠りかけていた恭仁は、ドアノブが回されて押し開けられる微かな音に目を覚ました。寝返りを打って戸口を向き、目を開ける。暗中に誰かが立ち、微かな金属音と共に扉を閉めた。恭仁は息を殺して、その姿に目を凝らした。鯉口を切る音の後、涼やかな鞘走りの音を響かせて闇の中に白刃が姿を現した。居合の型稽古に用いる模造刀か。亜鉛ダイキャスト製の刀身が朧な人魂じみて揺れ、足音がひたひたと恭仁のベッドに忍び寄る。

「お前のせいだ、お前のせいで父さんも母さんも、みんな滅茶苦茶に……」

熱に浮かされた譫言のように、霧江はぼそぼそと呟いて歩み、刀を構えた。

「霧江さん、正気に戻ってくださいッ!」

恭仁は布団を跳ね飛ばして素早く半身を起こし、声を殺して霧江に告げると徒手を構えた。霧江は刀身を振り下ろし、恭仁は咄嗟に両手で顔面を庇うも金属棒の直撃を受け、焼けるように痛んだ。霧江は模造刀で恭仁を叩き伏せ寝台に上がると、仰向けの恭仁の上に馬乗りになり、柄を逆手に握った。

「死んで」

霧江は躊躇うことなく、模造刀を突き下ろした。月明かりに煌めく切っ先が恭仁の耳を掠めて、顔の直ぐ横を突き刺すと、霧江は腰の捻りと両手の力で体重を込め、マットレスをずぶずぶと貫き通していく。恭仁は全身が強張り冷や汗を噴き出して凍りついた。ぬばたまの闇に霧江の狂気を孕んだ双眸が照らし出され、至近距離で恭仁を見つめる。静けさに浅い息遣いが満ちた。

「お前なんか家族じゃない。お前が苦しむところが見たいの」
「霧江さん」
「あんたを傷つけたくて仕方がない。お前が一生苦しむような傷をつければ胸が晴れるわ。どうすればお前を傷つけられる? 私、方法を知ってる」

霧江はゆっくりと顔を近づけた。その顔は笑っているように見えた。

「霧江さん?」

問い返した恭仁の唇に、霧江は唇が覆い被せて黙らせた。恭仁は驚きの余り全身を強張らせた。霧江は上体を押し付け、恭仁の両手に指を絡めて握ると舌をねじ込み、荒々しく接吻した。鼓動が早鐘じみて打たれ、息が苦しい。

「やめ、やめて……」
「喋らないで」

今まで聞いたことの無い、獄吏めいて低く鋭い声で霧江が命じた。萎縮する恭仁に霧江は接吻を繰り返すと、半身を上げて右手を伸ばし、喉輪で恭仁の首を絞め上げつつ、左手で恭仁の手を引き寄せると、服の内側を弄らせた。

声を押し殺し、永遠にも思える時間が過ぎると、霧江はおもむろに腰を上げ不気味な笑みをこぼしながら、夢遊病者じみた足取りで部屋を出た。寝台に横たわる恭仁は恐怖に震え、何か大事な物が壊れた悲しみに泣き濡らした。

時が過ぎ、恭仁は冬のビーム射撃大会で初段に上がった。霧江は入試過程を着々と消化し、第一志望である首都圏の国立大学に合格する。彼女は母への疑念など忘れたように、新生活について2人で楽しげに語り合い、不動産の内見にも2人で仲良く連れ立って上京した。恭仁はあの夜に刻みつけられた恐怖を誰にも打ち明けられず、暗澹とした気持ちを抱えて日々を過ごした。

霧江が家を出て新生活を始める日が間近になり、恭仁の恐怖の記憶も薄れてようやく忘れられると安堵した夜、彼女は再び寝室へと忍び込んだ。霧江はじっくりと恭仁を甚振り、彼の治りかけた心の傷を二度と忘れられぬように深く刻み込むと、何事も無かったように清々しい顔で上京するのだった。


―――――(21)―――――


恭仁は2年に進級し、利義と香織との3人暮らしとなった。香織は己の子供が手を離れ、再び荒れ始める。家に帰らぬ日もしばしば見られ、利義が叱ると香織は凄惨な癇癪を起こして抗った。家庭は末期症状を示していた。2人は顔を合わせる度に口論し、恭仁は心を無にして耐え凌ぐことだけを考えた。

学校では射撃部に1年生が入り、恭仁も先輩となった。ライフルだけでなくピストルにも、女子生徒が仲間に加わる。3年生の地頭園は、女子の後輩を可愛がって先輩風を吹かせ、手取り足取り教えたがった。恭仁は女性に対し苦手意識を覚えており、率先して後輩に当たる地頭園に寧ろ感謝した。だが地頭園は、3段で足踏みを続ける焦りもあってか、後輩の前で恭仁を殊更に叱責したり、自分の腕前を鼻にかけたりと、態度の悪さが目に付いた。

「何か地頭園先輩、最近は倉山クンに対して当たり強くない?」

帰り道。伊集院が眉を顰めて言うと、恭仁は無関心な表情で頭を振った。

「倉山クン、顔色悪いよ。ちゃんと眠れてる? 大丈夫?」

伊集院の伸ばした手に、恭仁が反射的に恐怖を覚え、身を捩って避ける。

「御免。大丈夫、大丈夫だから」

恭仁の反応に伊集院はショックを受けて俯き、胸の前で拳を握った。

「あ、あのさ。倉山クン、あのね。ちょっといいかな」

伊集院が決然と顔を上げると、恭仁の手を引いて路地に引き込む。衆目から離れて恭仁は伊集院と一対一で向き合った。彼の胸に嫌な緊張が走った。

「ずっと前から言おうと思ってた。私たち、私って、倉山クン、えっとね」

身体の血が逆流するような、違和感と恐れが総身を満たす。恭仁は狼狽えて逃げ出したくなり、そのくせ両足は凍りついて、身動きが取れなかった。

「あのね、倉山クン。貴方が好きなの。私と、私と付き……付き合って……」

そこから先は言葉にならなかった。涙を滲ませて言葉を詰まらせる伊集院に対面し、恭仁は喉の奥で言葉を吃らせる。それは喜びからではなかった。

「あ、えっと……御免、伊集院さん」

伊集院は、想像していた反応と違うと言いたげに、驚いて双眸を見開いた。

「好きって言ってくれてありがとう。でも訳は言えないけど、駄目なんだ」
「何で? 他に好きな子がいるならハッキリ言ってよ。後輩のあの子?」
「そうじゃない、違うんだよ。他の誰かとか、そう言うんじゃなくて」
「断られるのは構わない。でも理由を聞かせてくれなきゃ、私は諦めない」

伊集院は涙を拭くと、決然とした顔で距離を詰めた。恭仁は追い詰められて身を震わせ、恐怖に顔を強張らせると、歯を食いしばって涙を滲ませた。

「僕も伊集院さんが好きだった。好きになりたかった。伊集院さんと一緒に話してたら楽しいなって、思ってた。思ってたんだ。でも僕は……御免」
「御免じゃないよ、どういう意味なの!? 付き合うのは嫌だって言ったり好きって言ってみたり、倉山クンが何言ってるのかサッパリ分からない!」

伊集院は痺れを切らしてもう一歩近づき、語気を荒げて問い質すも、恭仁はビクリと震えて両目を閉ざし、記憶のフラッシュバックに涙を伝わせた。

「怖いんだ、怖いんだよ。僕は、女の子が怖い。どうしてこうなったなんて理由は、誰にも、伊集院さんにも言えない。許して、許してください……」

恭仁の振る舞いを、伊集院は理解できない顔で唖然と見つめた。彼の言葉は伊集院の想像の埒外だったが、嘘を言っていないことだけは確かだった。

「わ、私が女だから? 男の子が好き、ってことなの?」
「違うよ! 男と付き合いたいワケじゃない。でも女の子を目の前にすると身体が強張って、話そうとしても上手く行かなくて、息が詰まるんだ」
「要するに私が嫌いになったってこと?」

混乱して問い詰める伊集院に、恭仁は情けなく震えながら頭を振る。

「そうじゃないんだ。キミが好きとか嫌いとか、そういう話じゃないんだ」

伊集院は恭仁の煮え切らない態度を見て頭に血が上り、平手で彼を叩いた。

「バカッ! 嫌いなら嫌いって、はっきり言えばいいのに! 最低!」

伊集院は訳も分からずボロボロと涙をこぼし、恭仁をどやして駆け去った。


―――――(22)―――――


春のビーム射撃大会で、恭仁は振るわぬ結果に終わった。全国大会に行くと息巻いていた地頭園も蓋を開けてみれば、3段の点数すら下回る結果を出しエアピストルの推薦も貰えず、やる気を失って部活に出てこなくなった。

幸いなことに、後輩の女子生徒は地頭園や恭仁に劣らぬ素質があり、練習も真面目に打ち込んで、春の大会も上々の成果だった。地頭園の居ない部室で恭仁は後輩の世話を否応なく押し付けられ、彼女の成長を妨げないようにと心を殺し、後輩と練習に励む。伊集院と恭仁は自然と話さなくなっていた。

倉山家の分断は致命的と言えた。香織が帰らない日が続き、安否を心配した利義が彼女の実家に電話をかけると、罵詈雑言が受話器から離れた恭仁にも聞こえる大声で返され、利義は頭を下げて電話の相手を必死に宥めていた。

6月。陰鬱な長雨が続いて気の滅入る金曜日、逢魔が時の倉山家に決然たる存在が現れる。あるいは幻惑、あるいは復讐、あるいは運命という名の女。

家のインターホンが鳴らされた時、恭仁は台所で野菜を刻んでいた。恭仁は俎板に包丁を置くと、流しで軽く手を濯ぎ、背後の壁のインターホン画面に向かった。黒のパンツスーツを身に着け、黒髪を後ろにまとめた年齢不詳で糸目の女が、玄関に立っていた。小さな画面にも美人であることが窺える。

「御免ください。竜ヶ島中央署の海老原という者ですが」

警察? 恭仁は訝しんだ。海老原という黒スーツの女は左手で手帳を開いて掲げるも、画面が小さくて良く見えない。右手は画面外に見切れている。

「利義さんはご在宅でしょうか?」

海老原は微笑むと、顔を半ば反らしてカメラに近づいた。左目の泣き黒子と右唇の艶黒子がより強調され、薄化粧の美貌に孕んだ男を誑かす女狐じみた妖艶さが明瞭となった。美しいが、危うい。恭仁の疑念が警戒に変わった。

「残念ですが、義父(ちち)も義母(はは)も今は出払っております」

海老原は意外そうに真顔に戻って糸目を見開いた。胡散臭い微笑みを湛えた顔より、彼女がふと見せた素顔の方が、恭仁には寧ろ魅力的だと思えた。

「キミは、息子さんの……恭仁クン、だったかな?」

名前を知っている。海老原が父の同僚と仮定すれば、世間話に息子のことを聞き、名前ぐらい憶えていてもおかしくはない。だが何か様子がおかしい。

「利義さん、携帯に電話してもお出にならなくて。もしかしてご在宅かもと思って、お家に立ち寄らせてもらったの。大事なお話があって来たのね」

恭仁には予感があった。大事なお話などと勿体ぶった海老原の言い回しには敢えて触れないことにする。内容など知りたくもない。溜め息がこぼれた。

「折角ご足労いただいたところ申し訳ありませんが、また日を改めて在宅を確認の上お越しくだされば幸いです。火急の用事ならば伝言を承りますが」
「いえ、結構よ。これは私が自分の口で伝えないと意味がないから」
「では夕飯の支度の途中なので、失礼します。気を付けてお帰り下さい」
「ちゃんと挨拶出来て偉いね。お気遣いありがとう」

淡いルージュをまとった唇が蠢き、美貌がカメラの向こうを見透かすように目を細めて微笑む。蠱惑的で邪悪な笑みだった。恭仁は無言で通話を切る。

その時、居間に据えられたトールボーイスピーカーが真空管アンプを通じてエリック・クラプトンのCDを奏でており、『オールド・ラブ』のイントロが 流れ始めた。恭仁は視線を感じ、包丁を握る手を止め、背後を尻目に見る。

「……そこで何をしているんですか、貴方は」

淫靡な香水の匂いが漂ってきた。黒い影がそこに在った。海老原が、居た。

「利義さんが戻ってくるまで、お家で待たせてもらおうと思ってね」

海老原は糸目で微笑みんで唇を舌なめずりすると、右手でジャケットの裾を持ち上げる。クロコ型多しのベルトを巻いたスラックスと、シャツの狭間に38口径のリボルバーと思しきシリンダーと、樹脂のグリップが垣間見えた。

「初めまして恭仁クン。今日から私が貴方の新しいお母さん(ママ)だよ」

恭仁は目を閉ざし、三徳包丁のグリップを刃の付け根に持ち替える。

「お母様はこれで3人目ですね」

海老原が真顔に戻り、小首を傾げた。恭仁は布巾を取ると、海老原の死角で包丁の刃体に付着する野菜の欠片を拭き上げ、溜め息を長く深く吐き背後を振り向き、海老原と相対する。包丁を右手に持ち。海老原が双眸を細める。

「拳銃と包丁、どっちが強いか分かってる?」
「試してみますか。エェーィッ!」

恭仁は包丁を握る右手を耳の横に構えて蜻蛉を取り、猿叫を上げて海老原に突進した。まさか向かってこられるとは思わず、海老原は狼狽えて足を竦め拳銃を抜いた。彼女が銃を構えるのと当時に、恭仁が決断的に振り下ろした包丁が両手に握る拳銃のサイトラインに食い込み、一太刀の凄まじい衝撃で銃を叩き落とす。狙いがズレたら、手首ごと切り落とさんばかりの勢いで。

「なッ!?」

海老原は鋭いローキックを恭仁に浴びせ、バックステップを踏んだ。恭仁は体制を僅かにふらつかせつつ、追撃の袈裟切りを振るって空振らせる。

「銃を持ち出した以上は、こちらも殺す気でかかります。そのお積もりで」

恭仁は視線だけで足元のリボルバーを一瞥し、片足で弾き飛ばしつつ右手を耳の横に戻して残心。示現流・小太刀の型で海老原と相対しつつうっそりと告げた。海老原は唖然と立ち尽くし、頬に朱がさして蕩けるように笑った。

「聞き分けの無いボウヤ」

海老原は更にバックステップで距離を取りつつ、ポケットから口紅型をした催涙スプレーを取り出して噴霧! 恭仁は目鼻口に激痛を覚え、足を止めて呼吸困難に噎せ返る! ニカリと笑った海老原が飛びつき、恭仁から包丁を毟り取ろうとした次の瞬間、身体の前に突き出した腕を切り落とす、籠手の予兆を見て後ろに跳び下がる。恭仁は盲目状態で前進し、袈裟切りを連打!

「エェーィ! エェーィ! エェーィ! エェーィ! エェーィ!」

迷いの無い早駆けに、迷いの無い小太刀の連撃! 徒手で制圧しようなどと考えれば、突き出した手首ごと切り落とされて無くなるだろう! 海老原は恭仁から目を離さず後ろ走りで下がり、斬撃から身を躱す。だが後方視界を捨てたことが仇となり、背後のテーブルに気づかず足を取られ、彼女は一瞬動きを止まる! そこに、一撃必殺の威力を乗せた包丁の袈裟切りが迫る!

「しまッ……」

海老原、不安定な足元から突き離しの左足中断蹴り! 恭仁は衝撃を受けて苦しげに咳き込み、斬撃を空振りさせるが倒れも後退もしない! 残心から前進して包丁を海老原の肩に叩き込む! 果たして包丁は、海老原の左肩の鎖骨を両断……しない!? スーツとシャツをザクリと切り裂くもその下で刃を止められ、骨や肉はおろか海老原の素肌、産毛一本にも触れられぬ!

「エェーィッ!」

恭仁の右腕に渾身の力が籠もる! 刃を力強く食い込ませ、鈍ら刀で強引に叩き切るように、腕の力で海老原を地へと切り伏せる! 海老原は転倒してテーブルに背中を打ち、恭仁は目を瞑ったまま切り倒す右手に力を込めた!

「ガッ……!?」

押し合う2人がテーブルの上で身体を重ね、至近距離で顔を向け合い動きを止めた! 戦国絵巻に描かれた戦場の情景のごとく! 恭仁は盲目の状況で転倒しつつも、包丁を握った手を決して離さず、最後に止めを一押しした。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……」

驚きに糸目を見開いて、息も絶え絶え胸を上下させる海老原のジャケットの裂け目から、黒色のボディアーマーがチラリと覗く。これを着ていなければ左肩を叩き切られた挙句、乳房の寸前まで切り込まれていただろう。彼女は示現流の恐怖に失禁しそうになるのを堪え、奥歯を噛んで足を蹴り上げる!

「ぐぼっ!?」

金的! 悶絶する恭仁の手から包丁をもぎ取って遠くに捨て、両手で恭仁を突き放すと、空手の手刀足刀をラッシュで叩き込み、徹底的に叩きのめして彼が崩れ落ちると、片手を突き出し片手を引き、腰を落とした三戦の構えで鋭く息を吐いて残心! 徒手格闘では圧倒的に海老原の方が強者だった!

「強いね、キミ。ここまで痛み慣れしてる人を相手に、本気で殺し合ったの初めてだよ。まあ、本気で殺そうとしていたのはキミだけ……かな?」

海老原は唇を撫ぜて、ジャケット左肩のボディーアーマーまで切り開かれた裂け目を見ると、片腕で自分を抱き固唾を呑んだ。両脚が震えていることに気づくと、恥ずかしさに頬を赤く染めて奥歯を噛み締め、恭仁に歩み寄ってドクターマーチンのローファーの靴底を掲げ、彼の顔面を踏みにじる。

「だけど、武器を奪われたら大したことないね。素手なら私の方が強い!」

海老原は苛立たしく吐き捨て、仰向けで悶える恭仁を俯せに引っ繰り返して懐から手錠を取り出すと、彼の両手を背中に組んで手錠をかけ、拘束した。

「危ない危ない。殺気立ってるなあ、もう。利義さんからは大人しい子って聞いてたのに、初対面の人間を躊躇なく斬り殺そうとするなんてビックリ」

海老原は腰を上げて恭仁を革靴の爪先で引っ繰り返し、スマホを取り出すと彼の腰へ馬乗りになる。左手の喉輪で首を絞め、スマホのカメラを向けた。

「それは……ゲボッ、ゴボッ! 貴方が僕に拳銃を見せたからでしょう!」
「拳銃を見せられたら、ヤクザだってビビるはずだけどね。催涙スプレーをぶっかけて終わりにしようと思ったのに、それでも向かって来るもんだから本気で焦ったよ。目潰しした相手に形勢逆転されるなんて思ってなかった」

海老原は苦しみに藻掻く恭仁を力で押さえ込み、スマホを顔に数回叩きつけ抵抗を止めさせると、恭仁の涙と血と泥に塗れた顔を写真に収め、上気した顔で荒い息を吐きつつ、写真を恍惚と眺めた。下腹部が熱くなっているのを自覚する。胸の動悸が収まらない。征服欲が満たされて、愉悦に顔が歪む。

「まあでも、恭仁クンのお陰で『お話』が手っ取り早くなった……かな?」

海老原は荒っぽく髪留めを外し、汗ばんだ黒髪を揺すって解くと、陶然たる表情で恭仁の胸板に肘を突いて見下ろした。スマホのチャットを立ち上げて利義のアカウントに恭仁の写真を送りつけると、文章をフリック入力しつつ腰を上げてキッチンへ歩み、叩き落とされた拳銃を拾って無事を確かめる。

「貴方は一体、何なんですか!?」

恭仁は焼けるような目鼻口の痛みに何度も噎せ、涙と鼻水と涎を垂れ流して見えない目を見開き叫ぶ。海老原は拳銃を片手に、キマった目で振り返る。

「だから、ママだよ。恭仁クンの新しいママになるの。これから、きっと」
「言ってる意味が分かりません。大体、利義さんは既婚者ですよ!?」
「そうだね。私も知ってる。ずっと前から不倫してたの。身体の相性だって奥さんより良い、利義さんそう言ってくれた。今の奥さんといつかは別れて結婚してくれるって約束してくれた。今更になって別れろなんて許さない」

海老原は躍るように歩みながら楽しそうに言って、恭仁の下腹部の上に腰を下ろした。彼女の固く引き締まった身体のずしりとした重みに耐えるように恭仁は歯を食いしばった。相当鍛えているに違いない。恭仁の脳裏にかつて義兄の隆市から聞かされた、倉山家の色狂いの話が想起され、眩暈がした。

父さんだけじゃない。義父さんだって同じ穴の狢だった。僕も大人になればこんな人間になるのだろうか。伴侶を泣かせ、子供を泣かせる人間の屑に。

「恭仁クン、泣いてるの? 可愛い。ようやく子供らしくなったね」

歯を食いしばって涙を流す恭仁を横目に、海老原は淫靡な微笑みを浮かべて拳銃を腰に納め、片手で恭仁の汚れた顔を撫ぜる。彼女が手の内のスマホが着信にけたたましく鳴り響いて振動し、画面の通話ボタンをフリックした。

「朱璃(あかり)ィ! 貴様どういうつもりだ! 恭仁は無事なのか!?」

スピーカーフォンの向こうで、絶叫せんばかりに利義が喚く。通話の中身をわざと聞かせているのだと恭仁は理解し、海老原の性悪さに辟易した。

「心配しないで、ちょっと行き違いがあっただけだから。かなりヤンチャで躾け甲斐のある子だけど、私がママになって嬉しいって言ってくれたから」
「誰がそんなことギャッ!?」

撫でさする海老原の手が握られ、突き出た親指の一本貫が恭仁のこめかみを鋭く突いた。恭仁は奥歯を食いしばり、瞼の裏で星が飛ぶ。海老原は左手で恭仁の喉を絞め、スマホを右手に恭仁の青褪める顔を恍惚と見下ろす。

「言うこと聞かないと、ママまた痛いことするよ?」
「止めろ、朱璃! これは俺とお前の問題だ、恭仁は関係ないはずだろ!」
「関係なくはないでしょう。貴方の子供は私の子供になるんだから。貴方の連れ子だって、私は別に構わないよ。貴方と同じくらい愛してあげられる」

海老原は喉輪を緩めると、か細い息を吐く恭仁を宥めるように撫でて、唇を指先でなぞり、親指を口の中に押し入れる。口を抉じ開けて中身を窺った。

「もしかすると、貴方以上に愛せる……かも」
「いい加減にしろ、俺とお前はもう終わったんだ! お前とはただの遊びの関係だった! お互い了承づくの付き合いだったはずが、何故今更になって結婚しろなどと馬鹿なことを宣う!? 貴様のような正気を失った色狂いと誰が結婚などするものか! これ以上ごねるならただでは置かんからな!」

見上げる恭仁の涙に滲んだ視界の向こうで、こちらを見下ろす海老原の朧な輪郭が動きを止めた。彼女は犬のように浅い呼吸を繰り返し、息を呑んだ。

「そう、そうなの。本当の本当に、遊びだったんだ。私、心の底ではどこか利義さんを信じてた。冗談を言うけど、本当は私のことを愛してくれてると思ってたのに。貴方も私を捨てるの? だったら、私もただじゃおかない」
「何を考えてる、朱璃! おい聞いてるか!? バカな真似は止せ!」
「私、本当は奥さんをぶっ殺そうと思って来たんだけど、家に居ないものは仕方ないよね。子供で我慢する。貴方の代わりに責任取ってもらわなきゃ」
「お前、何を言ってるんだ! ふざけるな! 朱璃、おい朱璃!」
「利義さん、愛してる。死んでもずっと愛してる。あの世で待ってるから」

海老原はボロボロと涙を流してスマホのマイクにキスすると、玩具に飽きた子供のように床に投げ捨てた。ジャケットの袖で涙を拭い、憎しみを湛えた眼差しで腰に挟んだ拳銃を抜くと、何事か喚き続けるスマホを撃ち抜いた。

「う……うッ……うわあああッ! ああああうううううッ!」

海老原は余裕の微笑みを引き剥がされた強迫的な表情で泣き腫らし、恭仁に再び馬乗りになると、徒手の左手で、右手に握った拳銃のグリップで、彼の顔面を何度も殴打した。恭仁はガードも出来ず、凄まじい暴力に噎せ返る。

「嫌い、嫌い、嫌い……嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い! お前なんか嫌い、みんな大ッ嫌いだ! 死んじゃえ、みんな死ね、死ね死ね死ね死ね、死ねよ!」

殴られ続ける恭仁の視界がぼやけ、意識が遠退き、白目を剥いて失神した。


―――――(23)―――――


再び彼が全身の痛みに呻き、目を覚ました時、視界は真っ暗だった。水音とロードノイズが耳に飛び込んで、車のトランクに押し込められているのだと恭仁は理解した。バタバタと車体を叩きつける雨。シートを通してアデルの歌う『ローリング・イン・ザ・ディープ』が遠くに聞こえた。耳を凝らすと歌に合わせて、海老原も歌っているらしかった。美しく朗々たる低い声で。

どうやら誘拐されたらしい。辿り着く旅路の終着点は、今更深く考えずとも分かり切っている。そこまで考えて恭仁は、自分が死にたくないとそれほど思っていないことに気づいた。死ぬ時は拳銃で急所を撃ち、1発で苦しめず殺してくれるだろうか。あの女のことだから、素手で苦しめに苦しめ抜いて殺すに違いない。死ぬのは怖くなかった。苦しんで死ぬのが怖かった。

海老原が気の違った女であることは、恭仁にも疑う余地が無い。だが恭仁はどこか彼女に同情していた。1人の人間の気が違うに至るまでには、違うに至っただけの理由があるものだ。不倫も暴力も銃も、終着点までの通過点に過ぎない。原因はどこかもっと根元にある。誰も知らない痛みがあるのだ。

僕たちは傷だらけで血を流し、痛みに耐える闘士だ。誰もが己の内に語れぬ痛みを隠して立ち続け、戦い続け、命が続く限り孤独の裡に抗い続けた末に絶望し、圧倒的な理不尽に叩き潰され、心を折られた果てに死ぬ。闘技場に声援はない。救いなどあろうはずもない。真妄のあわいは朧月夜の水鏡だ。

僕たちは、卵子の砂粒に押し寄せる精子の漣の狭間で揉まれ出でた、無辺の世界をたゆたうちっぽけな泡沫だ。波と砂粒が象る無数の泡の煌めきだ。

何の意味も無く生まれ出た泡は、何の意味も無くぱちんと弾けて虚に還る。

恭仁はトランクの暗中で感じる心地よい揺れと歌声に、心身と運命と全てを委ね目を閉じた。それは生まれる前、波打つ浜辺、母の胎内で聞いた歌声に似ていた。死へと生まれ落ちる鋼鉄の子宮と思えば、強ち間違いではない。

僕には何もない。故に滅びを恐れない。ただ己の魂だけは誰にも渡さない。

流れ流される僕の身体と心の裡で、目に見えないこの魂だけが僕の真実だ。

車のトランクが開かれ、恭仁は目を覚ました。暗いコンクリートの地の底を思わせる静かで無機質な空間に、遠くで雨打つ音が聞こえる。眩い白色光が恭仁を照らし、突きつけられた銃口と、その向こうに立つ人影が見える。

「降りて」

恭仁は骨肉の軋む痛みに呻き、底冷えするような低い女の声に従い、手足を動かして外界を目指した。身体が上手く動かず、固いコンクリートの舗装に叩きつけられる。女は長い溜め息をこぼし、恭仁が立ち上がるのを待った。

女がトランクをゆっくり閉ざし、女が握るフラッシュライトが照らし出した深紅のクーペ、インフィニティQ60の優美な臀部に、恭仁は魅了された。

「行って」

女の手が襟首を掴み、恭仁を先に立たせて歩かせる。恭仁と女は駐車場から地上に抜け出し、マンションの玄関ホールに歩み入る。エレベータに乗ってどこかの階に降り立ち、マンションのある部屋に辿り着くまで、ただ1人の住民とも顔を合わさなかった。女はドアの錠前を鍵で開くと、開け放たれた玄関の暗闇に恭仁を投げ込むように突き飛ばし、自分も入って施錠した。

電灯の明かりが点けられて、拳銃を突きつける海老原の姿が恭仁の視界へと浮かび上がる。糸目の美貌に余裕の微笑みは無かった。望みながら捨てられ疲れ果てて擦り切れた、鍍金が剥がれ落ちた女の無表情がそこに在った。

皮肉にも、それでもなお、海老原の貌は相も変わらず美しいままだった。

今の顔の方が、最初に会った時よりずっと好ましい。恭仁はそんな場違いな感想を覚えたが、口に出せるはずもない。拳銃を手に押し黙り、佇む彼女が溜め息がちに頭を掻きむしる横で、彼は黙って待ち続けた。海老原は痺れを切らした様子で恭仁に拳銃の銃口を押し付け、土間の向こうに押し飛ばす。

「いつまで突っ立ってるつもりなの!? さっさと中に入って!」

殺風景な部屋だな。海老原の自室と思しき小さなダイニングキッチン付きの部屋に歩み入り、恭仁はそんな感想を覚えた。部屋にある物は、壁に寄せたスチール机と、窓際の隅に寄せた金属フレームのソファベッドと、黒塗りの事務用のスチール戸棚が幾つか並び、ソファベッドに面した戸棚の天板上に大型TVが無造作に置かれている。他にあるのは、小さな冷蔵庫くらいか。

この部屋には女性の匂いがしない。この部屋に住んでいるのが、例え男性と仮定しても、その人物の暮らしぶりを他人が想像するのは難しいだろう。

徹底した合理主義。無味乾燥で無個性。倉庫か事務室のように人間味の無い生活空間が存在し得ることを、恭仁は初めて知った。海老原は恭仁を部屋の真ん中に突き飛ばすと、スチール戸棚の1つに歩み寄って開き、その中から金属音のする物体を取り出した。大型犬用の鉄鎖の首輪と、プラスチックの被覆にワイヤーを仕込んだリード。海老原はそれらを南京錠で固定し恭仁の首にかけると、身体の支配権を主張するようにリードを強く引っ張った。

「風呂に入って。あんた臭いから」
「風呂って、着替えはゲボッ!」

海老原は風呂場を開き、恭仁の頭を拳銃のグリップで殴り、中に押し込む。

「いらないでしょ。どうせあんたは死ぬんだから」
「どうせ死ぬんだったら、風呂なんてどうでもいいような気がするけど」

大きなバスタオルが投げられ、音を立てて風呂場の扉が閉ざされる。恭仁は溜め息をこぼして着衣を脱ぐと、どこに置こうか暫し考えて、一先ず畳んで濡れない隅っこに置くことにした。熱いシャワーで身体を流し、周囲にあるシャンプーやボディソープに視線を移し、断りなく拝借することにした。

熱い湯を浴びると身体が痛む。恭仁はシャワーの温度を落とした。あの女がボカスカ殴るからだ。骨がどこか折れているかも知れない。生きて帰れても病院のお世話になることは間違いないだろう。恭仁は1年前を思い出した。

あの時は、自分の出自を賭け竹刀に立ち向かっていた。恭仁は祖父の竹刀とあの女に空手と、どちらで殴られる方が痛いだろうかと考えた。苦笑いしてボディソープをシャワーで洗い流す。竹刀の方が痛いに決まってる。

「お祖父様とあの人じゃ、多分お祖父様の方が強いかもな」

尤も、畑違いの剣道と空手を戦わせること自体がナンセンスな話だった。

恭仁はバスタオルを腰に巻いて股間を隠し、廊下に垂れたワイヤーを辿って居間に戻る。海老原は濃紺の艶やかな下着姿で壁にもたれ、酒と思しき缶を気だるげに呷っていた。空き缶が既に何本か、無造作に握り潰してその辺に転がされていた。更にその周りには、彼女がまとっていたスーツとシャツが周囲に脱ぎ散らかされ、強化樹脂繊維のボディアーマーが転がされていた。

「防弾チョッキか。道理で袈裟切りが通らなかったワケだ」

海老原は傍らの38口径リボルバーを掴むと、防弾チョッキを狙いおもむろに発砲した。慌てた恭仁は耳を塞ぐのがどうにか間に合ったが、強烈な銃声が部屋中に反響して手指の隙間から鼓膜を揺らし、脳がくらくらする。胴体に着弾した防弾チョッキが、健康器具じみて沈み込む。恭仁が確かめてみると弾痕に繊維が絡みついて内側に膨張し、確かに突き抜けていなかった。

「本当に貫通してない。ってまあ当然だけど。よく出来てるな」

無表情で海老原が拳銃を構え、恭仁が仰天して咄嗟に防弾チョッキを斜線に被せる。1発、2発。恭仁は着弾の衝撃で尻餅をつき、傷ついた鼓膜の痛みに苦悶する。まだ生きている。海老原は銃を捨て、立膝を抱えて泣き出した。

「……であん……は……な……静で……の!?」
「な、何です!? 何ですって!? よく聞こえません!」

恭仁は両の鼓膜がキーンとなって言葉が聞こえず、防弾チョッキを捨てると海老原に歩み寄って腰を下ろす。海老原は抱えた膝の内側から憎悪の籠った眼差しで恭仁を見つめた。恭仁はかける言葉を探して天井を見上げ、しかし何も言えずに俯き、彼女に無言で寄り添う。海老原は恭仁を睨み、酒の缶を手にしてぐっと飲み干すと、握り潰して恭仁の顔に投げた。床に跳ね返った缶を見た時、恭仁の脳裏に霧江の姿が過った。恭仁の脳裏にあの夜の記憶が蘇り、恭仁は顔を青褪めて腰を上げ、彼女から離れようとする。伸びた手が恭仁の首輪に繋がったリードを引っ張り、ぐいと自分の傍に引き寄せた。

「何……げ……の?」

恭仁は海老原の言葉が聞き取れず、ピンと正座をして鯱張った。ムッとした彼女がリードを引くと、恭仁は不承不承に頭を下げ、耳に手を当てて彼女の唇に耳を寄せる。ゾクリとするようなあの甘い香りが、鼻先に漂ってきた。

「ここにいて」
「はい」

恭仁はおっかなびっくり答えた。命懸けでやり合っている時より、レディのご機嫌を窺っている方がずっとやり辛かった。海老原の片手が伸びて身体の打撲痕に触れられ、恭仁はビクリと身体を震わせる。女性に身体を触られる恐怖と、美女の存在に胸が鳴る感覚が同居して、奇妙な感覚が渦巻いた。

「痛い?」
「痛いです」

身体を離そうとする恭仁を、海老原がリードで引き戻して胸元に寄せた。

「怖いの?」
「触られるのが」
「どうして?」
「……前に、義姉さんに……」

恭仁が声を震わせ言葉を詰まらせると、海老原は何か察した様子でリードを引く手を緩めた。恭仁が彼女の胸元から顔を上げると、ごつんと額が当たり髪がしなだれかかる。恭仁は指先で髪を払うと、海老原が身を震わせた。

「あ、すいません。勝手に触って」
「いちいち謝らないでよ、鬱陶しい」
「すいません……?」

こういう時、どうやって女性と喋ればいいのか恭仁は分からなかった。彼は何も知らなかった。人間関係の作り方、女性との話し方、愛の交わし方も。

「あんたは何も思わないの」
「何が?」
「手頃な女が目の前に居るのに、何もしたくならないの?」
「手頃なんて、そんな物か何かじゃあるまいし」
「……あんたモテないでしょ」

図星を突かれて、恭仁は俯くように頷いた。咄嗟に伊集院の泣き顔が脳裏に浮かび、胸が苦しくなった。彼女がこの状況を見たらどう思うだろうか。

「あんた、このまま童貞のまま死んじゃうんだなあ。かーわいそ」

海老原が泣き笑いでからかう言葉と共に、喉元に拳銃の銃口をねじ込まれた恭仁は、ふと我に返った顔で彼女の手を見て、彼女の顔に視線を戻した。

「いや別に、それはいいですけど。元から死ぬ腹積もりは出来てるんで」

海老原は唖然とした顔で、バツが悪そうに構えた拳銃を下ろす。何で自分を早く始末しないのか、恭仁には皆目見当もつかなかった。恭仁には海老原がその場凌ぎの行き当たりばったりで行動しているようにしか見えなかった。

「でも、その顔、好きです。ぽかんと気の抜けた表情、綺麗ですよ」

海老原は息を呑んで赤くなると、拳銃のグリップで恭仁の顔を殴った。

「殴らないでください、痛いので。僕を一体どうしたいんですか?」
「どうしたいって? あんたはどうしたいワケ?」

恭仁は問われ、海老原から視線を逸らしてふと考え込んだ。一つ屋根の下で誘拐犯に首輪を繋がれ拘束され、死を覚悟して怖い物など無い状況。彼女は何かを求めているようだった。求められることを求めているようだった。

「じゃあ1つだけ、死ぬ前にしたことがあるので、お願いしていいですか」
「何? 変態」

恭仁は胸の高まりに俯いて、胸を片手で押さえると、ゆっくり口を開いた。

「抱き締めさせてもらっていいですか。ほんの少しだけでいいので。僕って物心ついた時から、そういう記憶が無くって。一度でいいから、誰かにこうぎゅっとされてみたくて。でもそんなの無理だから、せめて僕からでも」

恭仁がおずおずとだが嬉しそうに告げると、海老原はリードと拳銃を次々に手放し、カァッと火が噴きそうなほど顔が赤くなった。じゃあ失礼しますと恭仁が微笑み合掌してお辞儀し、身体に腕を回すと身動き出来なくなった。

「固いけど柔らかい。不思議な感触。それにしても鍛えてますね。羨ましい筋肉の仕上がり具合です。空手は長くやってらっしゃるんですよね?」
「あ、あ、あんた、女を初めて抱いた感想がそれ!? おかしいでしょ!」

髪に触れられ、背中を撫でられて、海老原が身を震わせて声を押し殺す。

「それに温かい。他人の肌って、こんなに温かいんだな」

恭仁の夢を見るような言葉が次第に生気を失い、低く冷たく先細る。恭仁は夢から覚めた硬い表情でそっと手を放し、唖然とする海老原から身を離す。

「これ以上は、もっと欲しくなるので。三途の川の渡し賃にはこれで充分」

恭仁は乾いた表情で拳銃を一瞥し、海老原にアイコンタクトした。海老原はお預けを食らった犬のような顔から、恭仁の強い自制心とその背後に隠れた闇を想像して表情を失い、そして自分の魅力を侮辱された怒りで赤面する。

「私を愛してくれるって約束してくれたら、もっと触ってくれてもいいよ」
「約束できません。もう結構です」
「バカ! あんたは結構でも私は結構じゃないの! もっと触ってって私が言ってるの分からない!? こんな気分にされて男も抱かずに死ねるか!」

彼女が怒りに任せて銃を投げ飛ばすのを見て、恭仁は呆れた顔を向けた。

「いやでも海老原さん、利義さんとその、したんですよね」
「それが何!? 女が昔どんな男と付き合ってようが関係ないでしょ!?」

今にも襲い掛かられそうな剣幕に恭仁は尻込みし、溜め息をこぼして頷くと海老原の身体にそっと腕を回した。利義の顔が脳裏に浮かび、正直に言って全く気乗りはしなかったが、そういう流れなのだと諦め身を任せる。彼女の身体は先程よりずっと熱かった。彼女の下着をつけた双丘に顔を埋める。

「身体、熱いですよ。梅雨で蒸し暑いからですかね」
「そんなことわざわざ言わなくていい、バカ」
「それに、いい匂いがする。落ち着きます」

恭仁の言葉に海老原はぼそぼそと語尾を窄ませ、恥ずかしそうに赤面すると肌を撫でられる感触に身を震わせた。暫し後、恭仁が顔を見上げた。

「その……本当にするんですか? やらなきゃダメですか?」
「ああもう! くどい!」

結局、恭仁は海老原に問答無用で押し倒されて、強引に口づけされた。舌を絡められながら腰のタオルを剥ぎ取られ、一晩中かけて搾り尽くされた。

「もう朝ですよ」
「本当だ」

降り続けた雨はいつしか止み、カーテンの向こうに朝日が見えた。海老原は恭仁のリードを引き摺って風呂場に向かうと、そこでもう1度激しく身体を重ね合わせた後、互いの身体をすっかり洗い落として、居間に戻った。

「これ、着て」

海老原はクローゼットから適当なシャツとズボンを出して放り投げ、恭仁に指で示した。意味の分からない顔で恭仁が見返すと、彼女は苛立った様子で足踏みしつつ、自分は床に脱ぎ捨てた皺だらけの着衣を身に着けていく。

「あんた、死ぬ時には正装しないと、臨場する検視官に失礼でしょ」
「と言うと武士の死化粧みたいなものですか。そうですね。承知しました」

おずおずと服を着る恭仁の姿に、海老原は毒気を抜かれた顔で息をつく。

「今頃マンションの外は、警察がぐるっと包囲してるんだろうな。私たちが一晩かけてヤリまくってる間にね。こっちは拳銃があるから、そう簡単には踏み込んでこないと思うけど。余り長引くとその内、銃対が来るかも」
「ジュウタイ?」
「銃対。銃器対策部隊。いわゆる特殊部隊、警察の機動隊のエリートね」

海老原は恭仁が服を着終えたのを横目に、リボルバーの残弾を確認。撃鉄をハーフコックするとシリンダーを腕で転がして、撃鉄をフルコックしてから恭仁のリードを引き寄せ口づけする。海老原が唇を離し、溜め息をついた。

「お姉さんとロシアンルーレットしましょ。残弾は1発。弾がどこにあるか私も分からない。生き残った方はここを出られる。それがルール。OK?」
「何言ってるんですか?」
「返事は、はい」
「は、はい」
「いや違うな。はい、朱璃さん」
「はい、朱璃さん」
「いい子ね。本当に素直でいい子。好きになっちゃうぐらい」

海老原は恭仁に再び口づけた。今度はもっと深く。口づけしながら、自分の頭に銃口を押し当てて引き金を引く。空だ。今度は恭仁の頭に銃口を当てて引き金を引いた。これも空。今度は自分の頭に撃ち、やはり空。再び恭仁の頭に押し当て、これも空。彼女は運命を悟った清々しい表情で唇を離した。

「良かった。あんたを殺したら、どうせ私も死ぬ積もりだったから」
「あ、朱璃さん!?」
「また名前呼んでくれたね。貴方の恋人になれて良かった。遊んで御免ね」

海老原は感極まって泣くでもなく、悪戯したことを謝るような軽さで、全然悪びれた風でもない懲りない微笑みで、何の躊躇も無く自分の頭を弾いた。

「御免じゃないよ……何がしたかったんだよ……全然、意味が分からないよ」

恭仁の眼前で鮮血が舞い、美しい瞳が白目を剥き、海老原朱璃は死んだ。


【アウトサイド・モノクローム/4話 おわり】
【次回へ続く】

From: slaughtercult
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