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直近で観た3舞台から考える「アイドルとファン」について

斗真さんの主演舞台「ほんとうのハウンド警部」を3月末に配信で拝見し、感想を書こうと思いながら、だいぶ日にちが経ってしまいました。Twitterでは配信や上演直後に斗真担の皆様が素晴らしい作品への考察を展開されていて、度肝を抜かれました。斗真担さん凄い!大好き!!

という訳で、私はちょっと趣向を変えまして、「ほんとうのハウンド警部」の他、昨年映画館上映で観た斗真さん主演舞台「偽義経冥界歌」、そして昨年末に配信で見た小瀧望くん主演舞台「エレファント・マン」の3作品から考えたことをつらつら書いてみようと思います。
今回は上手いこと言葉にできてるか自信がないですし、いつものことながら長いです。本当に自己満足でまとまらない思いを書きました。それでも良いよという方はお付き合いください。

★★トピックス★★

1.私が思った3作品の共通点

2.各作品に見る「アイドルとファン」の関係

3.個人的に思っていること

★★★★★★★★



1.私が思った3作品の共通点

さて、何でこの3作品を同時に取り上げようと思ったかというと、私はこの3作品に共通点を感じたからです。その共通点とは、

「誰かに自分、もしくは自分の理想を投影している。」

ちょっと抽象的な言い方になってしまいましたが、具体的に言うと「アイドルとファンの関係」を見ているような感じです。
私たちアイドルファンは、応援したいと思ったアイドルに対して、少なからず「自己投影」をしていると私は思っています。例えば、「私に似ていて気になる」とか、「私の理想とする男性像を見てるよう」とか、自分自身と重ね合わせたり、自分の持つ理想と重ね合わせたりして、相手を解釈し、好きになります。

この3作品には、「アイドル(人からの注目を集める立場。俳優も含む)」に当たる人物たちが出てきます。そして、「ファン(アイドルに対して自己をを投影する立場)」に当たる人物たちも出てきます。3作品を通してみると、これまでに私が見てきた様々なアイドルやファンの在り方が浮き彫りになってくるような感じがしたのです。


2.各作品に見る「アイドルとファン」の関係

1つ1つの作品を見ていきましょう。

★「偽義経冥界歌」

この作品では、主人公の九郎(斗真さん)がその時々で周りの人にとって都合の良い人間に仕立て上げられていきます。その過程で様々な肩書を持ってしまった彼は、「お前は何者なのだ!?」という問いに答えることができず、一旦闇堕ちしてしまいます。最終的に、彼は引き受けてしまった様々な肩書を全て自分の姿として受け入れます。

以前のnoteにも書いたのですが、私はこの話について、主人公に実際の斗真さんの姿を重ねて書かれているのでは、と勝手に解釈しています。
「ジャニーズ」でありながら歌い踊る機会を奪われ、「俳優」としての道を歩くも、外では「ジャニーズのくせに」と見られ、内では「ジャニーズの異端児」とされる。典型的なジャニーズタレントの道を歩かなくなったことで、まるでどこに行っても何かアウェーのような感じがあったのではないかと思うのです。(今ではすっかり地位を確立したと思いますが)そんな彼自身が「様々な肩書(役柄)を引き受けて、その時々で違う自分になっていく(俳優として役に入っていく)」覚悟を決めた、「ジャニーズ俳優班の道を歩いていく」と決めた姿を九郎を通して描いたのかなと考えているのです。

この作品における周りの登場人物は、ファンというよりは「スタッフ」の立場に近いかもしれません。九郎に対して様々な肩書を与えてきたのは、いつも周りの登場人物で、九郎自身が作ったものではありませんでした。

少し前にTwitterで「アイドルとは仕事ではなく生き方ではないか」という言葉をお見かけしました。まさにこの作品で描いた主人公の姿は、「俳優という生き方をする覚悟を決めていく姿」で、そのために命を削るように力を注いでいく様子だったと思います。


★「エレファント・マン」

こちらの作品でも、主人公のメリック(望くん)が「アイドル」の立場に当たると思います。
彼は、生まれながらの奇形により、常に「人から注目される」立場にいます。最初は生きるために「見世物」として利用される道を選んでいます。そして、見世物として生きられなくなった後、今度は医師フレデリック(近藤公園さん)に保護され、ロンドンの病院で「研究対象・そして寄付金を集めるための人物」として扱われていきます。

九郎とメリックの違いは、九郎の場合は本人が最初は何も考えずにその役割を引き受けていったのに対し、メリックはとても賢い人だったので、自分がどう見られているかを分かった上で、生きる手段としてその役目を引き受けていったところです。私は、のんちゃんがメリックを演じたのはピッタリだったなと思ってるのですが、その理由の1つが、のんちゃん自身も「周りからの需要を感じ取った上で、その需要に応え、割り切って様々なことをやっているアイドル」だと思っているからです。

そして、話の途中で、メリックを取り囲む登場人物たちが、彼に対して様々な自己投影をしていることが分かるシーンがあります。ある人たちは「自分に似ている」とメリックと自分の共通点を見出します。そして、その人たち自身のメリック像に当てはまるよう、彼に接していきます。その一方で、「メリックと繋がれば、主治医であるフレデリックが夫の主治医になってくれるかもしれないから」とか、「話題の人物・メリックと繋がっておくことで自分の社会的地位に良い影響が出るから」という、自己の利益を理由に彼を見ている人たちもいます。
私はこれまで見てきたファンに、両方のタイプがいるように思います。
私は前者のタイプで、私自身も斗真さんや流星くんにどこか自己投影(流星くんに関しては、斗真さんの姿を投影している所もある)をしながら見ています。
一方で、彼らのことを好きと言いながら、「ファンサしてくれるから好き(ファンサしてくれなかったら私のことを見てくれないから嫌いになる)」とか「人気があるから、好きと言っておけば自分も好意的に見られる(人気が落ちれば自分の価値も下がりそうだから離れる)」という感じの人たちもいます。

更に、私と同じ「自己投影」タイプでも様々な人がいます。例えば、フレデリックは、メリックを「フレデリックにとっての理想の研究対象」にするため、フレデリックがメリックにとって害悪だと思ったものを排除していきます。理事長(木場勝己さん)も、フレデリックとはメリックへの接し方も解釈も違いますが、害悪だと思った人物を過剰に排除しています。
一方で、ケンダル婦人(高岡早紀さん)は、「編み物が好きそう」など彼女が考えるメリック像に当てはめるような行動をする一方で、メリックの望みを叶えようと行動する一面もあります。「理想に当てはめるためにそれに合わないものを敵視する」か、「相手の望みを叶えようと行動する」か。ファンの中にも、自分の好きなアイドルを守るという名目で、本当にアイドルに対して不利益を与えているか不明確な人物を「敵」にして攻撃的になる人がいます。一方で、好きなアイドルに求められたらどんなことでもしたいと協力し、その「求められること」を達成するためなら、何でもするという人もいます。

同じ人物を見ていても、どう相手を解釈したり自己投影したりするか、それに対してどういう行動をとるかは人それぞれなのだということを感じました。


★「ほんとうのハウンド警部」

先の2作は主人公が「アイドル」にあたる立場でしたが、この作品は「ファン」にあたる立場にいます。

主人公のムーン(斗真さん)はいつも2番手に甘んじる劇評家。劇評のために舞台を観に来ますが、頭の中は自分よりも売れてる劇評家・ヒックスへの嫉妬と、自分より下だと思ってる別の劇評家・パッカーリッチへのライバル心でいっぱいです。ムーンは舞台の内容等は本当はどうでもいいので、「エレファント・マン」での「メリックに自己の利益のために近づく人たち」と同じような感じだと思います。

ムーンと一緒に舞台を観る劇評家・バードムート(吉原光夫さん)は、自らの立場を利用して女優さんに手を出す、ジャニーズファンの世界でいうところの「ヤラカシ(タレントさんの実生活に踏み込んでいこうとするファン)」みたいな人です。彼は自分の性的な欲望を満たすために舞台に出ている若手女優(趣里さん)を見ようとしてやって来ているので、ムーンとは別タイプの「自己の利益のため近づくファン」ということになります。

そして、この作品での「アイドル」は、劇中で繰り広げられる別荘を舞台とした作品に出る出演者たちです。

「ほんとうのハウンド警部」の面白いところは、「ファン」の立場にいたはずのムーンやバードムートが、いつの間にか「アイドル」の立場に入り込んで、立場がごちゃ混ぜになってしまうところです。

最初はバードムートが舞台の世界に入り込み、舞台の登場人物であるギャスコイン(鈴木浩介さん)と同化してしまいます。ギャスコインは劇中で二股をしているのですが、バードムートも妻がいながら目をつけた女優さんに次々手を出していくので、「バードムートがギャスコインに自分を投影」した結果、同化してしまったのかもしれません。

そして、劇評家として劇中舞台のストーリーに注目していたムーンは、自分が妄想の中で殺していた売れてる劇評家・ヒックスが劇中舞台の死体として出てきて、ギャスコインと同化したバードムートも殺されたことにより、事件を解決するために現れる登場人物・ハウンド警部と同化してしまいます。ハウンド警部として推理を繰り広げようとしたムーンでしたが、劇中の登場人物・マグナスが実はハウンド警部に扮した行方不明になってた別荘の主人のアルバートだった。しかもアルバート役をやっているのは、劇評家として見下していたパッカーリッチだった、という文章で書くと大変ややこしい展開になります。(ここでパッカーリッチを演じてた山崎一さんが本当に素敵でした。)

同じ「ハウンド警部」に扮しながらも、妄想の中でヒックスを殺していたことが仇となり自らも倒される万年2番手のムーンと、虎視眈々と逆転の時を狙って奇襲をかけるパッカーリッチ。どこまでが「ほんとうに」起きたことで、どこまでが創られた世界なのかは分かりません。

私はバードムートやムーン、パッカーリッチを見ながら、あるジャニーズファンの事件を思い出しました。いわゆる「ヤラカシ」系の10代のファンの間で、あるファンの子がジャニーズアイドルとメールのやり取りをするという繋がりがあるという噂を聞きつけて、別のファンがその子を襲ったという事件でした。
ムーンはあくまでも「妄想の中で」ライバルを殺していたはずが、それが劇中劇の世界の中で「現実化」されてしまいます。このファンの子たちもそれに近いような気がしました。

私たちが「アイドル」を応援する時、彼らに自分の理想や幻想を「夢見ている」と私は思っています。なので、彼らが存在すること自体は現実でも、私たちはあくまでも「自分の描いた理想の姿」としての彼らのことを好きでいるのです。
しかし、「ヤラカシ系」のファンは、理想を飛び越えて現実の彼らに近づき、「アイドル」と「ファン」の線引きをなくして立場をごちゃ混ぜにしようとします。自らそのごちゃ混ぜになった世界に飛び込んだ上で、「ファンがアイドルと現実に繋がってる」という理由により本当にライバル視した相手のことを襲ってしまう。理想も現実も線引きのない世界で気づいたら犯罪に手を染めてしまったという、客観的に見ると恐ろしい結果です。

「ほんとうのハウンド警部」で面白いと思ったのは、ファンの立場のムーンやバードムートが劇中の人物と同化しても、アイドルの立場である劇中劇のキャラクターの台詞は、ムーンたちが同化する前の台詞と変わらないのです。アイドルとしての見せ方は同じでたった1つなのに、それを取り巻くファンの心持ち次第で、ずっと線引きしながらアイドルを眺められる人もいれば、立場を混同して自爆する人もいる。アイドルに対してとるファンの行動によって、ファンがどういう道を辿るのかが変わってしまうような、そんな風に私には見えました。


3.個人的に思っていること

この3作品で「アイドルとファン」について思いを巡らせましたが……。ずっとnoteでジャニーズに関する投稿を読ませていただきながら、モヤモヤと考えていたことがありました。

それは、ジャニーズのアイドルに対しては「価値観のアップデートが必要」等というご意見をお見かけするのですが、では「ファンは果たしてアイドルの実態に対してアップデートできているのか?」ということです。

ジャニーズのアイドルは、デビューの高年齢化が進み、また、デビュー後の活動年数も長くなってきています。その中で、例えば「自担の恋愛報道」や「恋愛に関する話」に対して過剰な反応や拒否をするファンがいます。アイドルの年齢が10代ぐらいならまだ分からなくもないのですが、30代でもそういう反応があります。一般的には、恋愛してもおかしくないのに。ジャニーズに対してジェンダー的アップデートを求めるファンの中にもそういう反応をする方がいらっしゃるのが、私にとってはとても不思議なんです。アイドル自身のジェンダーに関する年相応の思いには、ファンは寄り添う必要はないのかな?って。勿論、相手が未成年だったとか、条例違反になりかねないことなら、騒ぐのは分かりますが。

でも多分、こんなことを考えるのは私の勝手なんだと思います。ファンなんて、「エレファント・マン」にもあったように、それぞれの立場で勝手に投影したり自己の利益に利用したり、そういうものだと思うし。「ほんとうのハウンド警部」のように見境がつかないようなことにならなければ、どう思おうとそれは自由なんです。

なので、これは私の勝手な理想論なのですが、私は「エレファント・マン」のフレデリックや理事長のように、自分の勝手な思いでアイドルを縛ることはなるべくしたくない、そういうファンでいたいと思っています。

私の自担・斗真さんは去年結婚しましたが、彼のパフォーマンスに、言葉に、存在に、今も励まされていることは変わりありません。彼が「ほんとうのハウンド警部」出演にあたって受けた雑誌のインタビューで、最近は役を家まで引きずることがなくなったという話をしていて、結婚したことで、引きずることなく切り替えができるようになったのかなと思い、私としては菜名ちゃんの存在の大きさに感謝する一方です。

ファンとしての在り方は、自由だからこそ難しいものでもあると思います。私自身も縛りたくないといいながら、推しに対して無害なファンでいられているのかは分かりません。

そんな小難しいことを頭の隅で考えつつ、今日も私は楽しい推したちに励まされて生きています。この楽しい世界を、自分の思考や行動1つで歪ませてしまうかもしれない、という危機感をどこかでちゃんと持ちながら、楽しみ続けることができたらいいなと思います。

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