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世界最古の『関係性萌え』

経緯

 先日友人とアニメを観ていて、「このアニメには関係性が表現されていない」というような内容でおおむね一致したことがあった。そこで私たちは、お互いの感性を保障し、意見を強化するべく、関係性萌えという概念がどれほどパワフルなツールであり、どのようにして世界中で用いられてきたかを話しあった。以下はそれをまとめたものである。

関係性の本質

 そもそも、関係性とはいかなる概念だろうか? 広辞苑を開き、必要な内容を抜粋する。

【関係】①あるものが他のものとなんらかのかかわりを持つこと。その間柄。(中略)②人間関係における、特殊なかかわりあい。㋐血縁や組織における結びつきの間柄。つて。ゆかり。てづる。「おじ・おいのー」「師弟のーにある」㋑男女間の情交。(後略)*¹

 ①は、要するに「関係」という言葉のコアイメージであり、そのもっとも広範な意味合いが端的に説明されているが、それゆえに細部が曖昧になっている。だから、①を用いることで「関係性」にまつわるすべての説明が可能ではあるものの、それにはいくつかの飛躍を要するので、今回は②を足掛かりにしよう。

 人間関係における特殊なかかわりあい――「関係性」は、他の物質や生物がそうであるような、単なる物理的な運動力の与えあいではないことがほとんどだ。それは精神的な運動力の与えあいなのである。

 私たちは、関係性を持ったと呼べる人間たちに、「親」「友人」「恋人」「ライバル」「仇」といったような個別の名称を授ける。更にそれらを「好き」とか「嫌い」、「一緒にいると落ち着く」とか「なんだか馬が合わない」とかで区別する。

 そのことは、大きさ以外はさして変わらないさまざまな石だけが、私たちの人生という名の湖にさざ波を立てているわけではないと教えてくれている。それは水草のように不変だが、風とともに水面を揺らすものごと、カルガモのように動的で、常に波紋をもたらすものごと、あめんぼのように微細だが、決して無視できないものごとであり、月の引力のように、周期的に波をコントロールするものごと、突如としてすべてを奪い去る干ばつのようなものごとなのだ。

 そして、これらが隠喩として完全に機能しているという事実こそが、我々が見た目通りの力学と同等かそれ以上に、精神的な力学を重んじていることを示唆している。

 私たちにとっての「関係性」とは、精神的なかかわりあいなのだ。

関係性萌えとは

 今さら定義するまでもないような気はするが、私がここで何を語っているのかを明確にするため、あえてその愚を犯そうと思う。

 関係性萌えとは、かかわりあいを持つ二つ以上のもののうち一つ以上が、それらとのかかわりあい以外では表出しない行動や感情を表出している、あるいはそれらとのかかわりあい以外でまさに表出していないときに、そのかかわり方が人間の心を捉える感情である。

例:「貴様を殺すのは私だ! 他の誰にも殺させない!」「お前といると、調子が狂う……!」「こんなこと、他の子にもやってたら許さないんだから」「ドラえも~~ん!!*²」

 つまり、それは互いに直接関係しあう以上に、それ以外の関係に対してどう反応するのかにも注目している、いわば二重焦点の感覚なのである。

さまざまな時代の関係性萌え

 世界最古の関係性萌えは地球と太陽の関係性である! ということも可能だが、これでは際限が無くなってしまうので、人類がかつて想像し、文字として書き起こした関係性萌えに限定して考える。

 どこまで遡ることができるのだろうか? ハリーポッターのハリーとヴォルデモート、指輪物語のガンダルフとサルマン。シャーロック・ホームズシリーズのホームズとワトソンは百年も前の作品だが、これらではまったく始源に迫っているとは言えない。

 ではいっそ、聖書における〈神〉とサタンの関係性はどうだろう。旧約聖書は前五世紀ごろにまとまりはじめた、名実ともに古代の作品だ。しかし、当時のサタンは、人間が楽園を失った事への逆説的な説明要素としての役割を担うのみだった。

 だが、前一世紀の著作『アダムとイブの生涯』を覗き込むと、そこにとある要素が追加されていることがわかる。サタンは〈神〉に似せて造られた人間への敬意を求められ、頭を下げるようにと他ならぬ〈神〉によって命じられるが、それを拒否したために地獄へ堕とされたというのだ。いったい、なぜ拒否したのだろう?
 『アダムとイブの生涯』を読む限りでは、彼は傲慢で、ナルシスティックな自己認識をしていたために、頭を下げることができなかった*³。しかし、一部のイスラム教神秘主義者による情熱的な解釈によれば――サタンは〈神〉を愛するがあまり、それ以外のものに敬服することができなかったという*⁴。うーむ、ここに関係性萌えが無いだろうか。

 とはいえ、それも最古とはいかない。時代描写は人類誕生と同時期だが、これより古く考えられた物語はいくらでもあるからだ。しかし、文字に書き起こされたものとなると、途端に数は激減する。

 前六世紀の『オデュッセイア』で、カリュプソーとオデュッセウス、あるいはアテナとオデュッセウスなどはどうだろう。カリュプソーはオデュッセウスを愛するあまり七年にもわたって彼を監禁したが、その心が彼女に向くことはついになく、別れのとき、彼女はもはや彼を留めようとはしなかった。

 ちなみに、アテナはやけにオデュッセウスに優しく、こんなことまで言っている。

あらゆる策略において、そなたを凌ぐ者があるとすれば、それは余程のずるく悪賢い男に相違ない――いや神とてもそなたには太刀打ちできぬかも知れぬ。そなたはなんという不敵な男であろう、さまざまに悪知慧をめぐらし、策謀に飽くことを知らぬ。自分の国に在りながら、欺瞞や作り話をやめようとせぬ、そなたは心からそのような作り話が好きなのですね。しかし今はもうそのような騙し合いはやめようではないか。われらは共に術策は得意同士、そなたは知略と弁舌にかけては、万人に卓絶しておるし、わたしもまた、あらゆる神の中でも知慧と術策にかけては、その名を謳われているのだからね。だが、そういうそなたですら、ゼウスの娘、パラス・アテナイエの正体は見破ることができなかった。わたしはそなたが苦境にある時には、必ず付き添い守ってやっているし、そなたをパイエケス人の皆に親しくしてやったのも、わたしであったのだが。*⁵

 めっちゃ可愛くない? アテナ女神は、基本的に人前へ姿を現すとき、何か他のものに変身している。しかし、英雄であるオデュッセウスには、真の姿を以て応えるのだ。あと、やたらボディタッチが多い。ホメロスはアテナ萌えだったのだろうか(とはいえ、この一大叙事詩の作者がホメロスであるかどうかは、いまだに大きな謎になっている。「ホメロス問題(Homeric Question)」を参照)。

 ギリシャを巡るならば、前七世紀の『神統記(ヘシオドス)』の中に探してみるのも悪くない。特に、プロメテウスと人間の間柄には涙を禁じえないものがある。前述のサタンと〈神〉の関係によく似ているが、善意からプロメテウスは行動し、その結果人類に戦争をもたらしてしまう。その罰によって彼はゼウスによって磔にされ、彼は拷問を受ける(縛られたプロメテウス)。長い、長い拷問を。

 エジプトに目を移せば、オシリスとセトのライバル関係が、ピラミッド・テキストに刻み込まれているのを見出すかもしれない。しかし、文学としてのオシリスの神話は、プルタルコスの遺したものをおいて現存していない。そして、彼は一世紀の人間だ(ちょっと卑怯な言い分かな?)。

 では……結局のところ、最古の関係性萌えはどこに書いてあるのか? 世の中には膨大な文書が存在しており、時代もさまざまながら、現存していないものもある。最古の関係性萌えなんてものを見つけるのは不可能なのではないか? いや、そんなことは無い。

 探している答えというものは、意外と見つけやすい所に置かれているものだ。

世界最古の関係性萌え

 それは、ギルガメシュ叙事詩に描かれている。そう、世界最古の文学作品と名高いこの物語は、世界最古の関係性萌えでもあったのだ!

 なるほど。

 以下それを、関係性萌えという観点から要約してみることにしよう。

 三分の二が神と同質の存在にして古代ウルクの王であるギルガメシュは、傲慢かつ傍若無人であり、自ら治めているはずの民から搾取し、惨殺し、初夜権行使など好き放題に暮らしていた。まさに暴君である。

 当然、民は苦しみ、この解決を求め神に祈りを捧げる。神々はそれを聞き届け、ギルガメシュと競い合う者としてエンキドゥを創り上げた。地上に降りたエンキドゥは自らの使命を知らぬままに野を駆けまわり、付近の狩人の仕事を妨げていた。

 しかしギルガメシュの策によって派遣された遊女がエンキドゥを誘惑し、彼を獣の世界から人の世界へ連れだした。エンキドゥは獣のように野を駆けまわるのをやめ、人のようになった。遊女からいろいろなことを教えてもらううちにギルガメシュの噂も聞きつけて、その横暴に彼は義憤に駆られる。
 そしてギルガメシュとエンキドゥが『国の広場』で出会ったとき、彼らは互いに掴みかかり、壁や戸を壊すほどの格闘を繰り広げた。

 その後は文章に欠損があるが、次の書版ではギルガメシュが魔獣フンババの住む杉の森へ行くと言い出し、エンキドゥが涙を流してそれを止めるシーンから始まる。
 件の魔獣討伐は、建材である杉を得るための重要な遠征だった。ギルガメシュは王としての務めを果たすことに関心が向いているようである。エンキドゥが彼の心に何かをもたらしたのかもしれないが、明言はされない。ともかくその後、ギルガメシュの暴君としての側面は描写されない。暴君が英雄として再生したのだ。

 ギルガメシュとエンキドゥは魔獣フンババを退け、杉の森を手に入れる。都市に帰ったギルガメシュは、女神の求婚を受けるがそれを拒否する。怒った女神は「天の牡牛」と呼ばれる、いわば神々の秘密兵器をウルクへ派遣した。が、エンキドゥとギルガメシュが力を合わせることで、これも撃破される。

 しかし、フンババと天の牡牛、二つの魔物を討伐した事が神々の間で問題にされ、ギルガメシュとエンキドゥ、どちらかが死ぬべきであるということが話しあわれる。

 エンリル神は、エンキドゥが死すべきだと提言する。フンババと天の牡牛の討伐に加護を与えた太陽神シャマシュは、私の命令によってなされたことで、何故エンキドゥが死ななければならないのかとエンリルに説明を要求する。エンリルは言う。〝なぜなら、あなたは日ごとに彼らの<仲間>のように降りていくからだ*⁶〟

 シャマシュと地上の二人、そしてシャマシュとエンリルの、これも関係性といってよいだろう。シャマシュは神の領分を踏み越えて明らかに二人に入れ込んでおり、エンリルはそれを指摘しているのだ。

 そしてエンキドゥは神的な病に罹り、うわごとを言い、そして狩人や遊女などを次々に呪っていく。病で死ぬとわかった人間の現実的な描写だ。そこでもシャマシュは(懲りない事に)彼をたしなめるために呼びかける。彼の死後、ギルガメシュが彼のためにしてくれるものごとの予言などを聞いて、エンキドゥは心を落ち着かせた。彼は十二日間病に苦しみ、そして死後の世界の夢を見て、息を引き取った。

 かつて敵として出会い、今は無二の親友だったエンキドゥの死に、ギルガメシュは打ちのめされ、その生前の功績を讃えながら、訪れたものの凄惨さに嘆き悲しむ。そして、生けるものすべての究極の運命の影に怯えるようになった彼は、永遠の命を求めて放浪の旅を始めるのだ。

『関係性が表現されていない』

 以上を踏まえたうえで、経緯にも記してある事の発端「関係性が表現されていない」という言葉は、実際にどのような意味を持っていたのかを考えたい。

 そもそも私は、

 関係性萌えとは、かかわりあいを持つ二つ以上のもののうち一つ以上が、それらとのかかわりあい以外では表出しない行動や感情を表出している、あるいはそれらとのかかわりあい以外でまさに表出していないときに、そのかかわり方が人間の心を捉える感情である。

 と定義したわけだが、これは必然的に、キャラクターが相手によって対応を変えていなければ発生しない、ということを言っている。つまり、キャラクターがどんな相手に対してもまったく対応を変えないとき、関係性萌えは存在しないのだ。常に丁寧語で喋るキャラクターでも、魅力的なキャラならば、人によって態度を使い分けている。主人公に対しては冷たくあしらったり、尊敬する相手には遠慮したり。しかし、誰にでも同じように丁寧で、その丁寧さ以外になんの特質も持たないのならば、この関係性は同じ色の糸で結ばれているようなものだ。一本だけを見れば鮮烈でも、全体を見渡せば見分けがつかなくなる。

 エンキドゥはギルガメシュと競い合う者としてアルル神に造られた――超自然的で運命的な関係性である。だが、もしも、エンキドゥがこれといって特別な出自でなく、ギルガメシュに相対する使命を今後一切帯びることが無かったなら、どうだっただろうか。ギルガメシュが暴君ぶりを発揮し、狩人の陳情があった時点で知略を巡らして、見事エンキドゥを抹殺したならどうだろう。あるいは仲を深めることなく、広場で出会ったのを最後に、どちらかが死ぬまで戦いをやめなかったら? いずれにしても、物語としては新たな展開が考えられるかもしれない。しかし、失ったものに代わる十分な関係性を用意できなければ、ギルガメシュ叙事詩が文学として注目を浴びることはなかっただろう。

 関係性は、それぞれが特別であるほど際立ち、はじめて表現されているということができる。

 何ごとに対しても同じ顔しか見せないキャラクターは退屈だ。

雑な総括

 全宇宙のあらゆるものごとは、常に他の何かと関係している。永遠に思える宇宙の闇の中で、仲間とぶつかることもなく直進を続ける水素原子でさえ、時間と空間とのかかわりあいの中で、全体性を持った波動的状態から浮かび上がっている。人間は、宇宙と銀河、銀河と星系、太陽や月と地球、地球と生物のかかわりあいの中に在って、古代から、自分たちのかかわり方を模索してきた。そして、人間とその他生物のかかわり方、人間と地球、人間と星々、人間と宇宙のかかわり方を見出し、洞窟壁画や彫刻、儀式という形で表して遺した。それらはギルガメッシュ叙事詩よりも古い、古い物語である。

 関係性の探究は人類の初期の戦略であり、それは生きるための技術だった。朝や夕方に地平線が輝く理由、冬になると寒くなり、夏になると暑くなる理由、人を好きになると苦し*⁷くなる理由、生まれてきた赤ん坊が泣く理由、やがて老いる理由。それらを解釈するための、鮮やかかつ妥当な関係は、どの時代でも常に求められている。

 そうして考えると、『関係性萌え』という感覚は、前述に定義したようなある種の特別な関係に対する個人的な発見が、鮮やかかつ妥当であることへの、知的な喜びを含んでいるといえるのかもしれない。

 なんだこのnoteは。

おわり

*¹  新村出編『広辞苑 第六版』岩波書店、p 626

*² 藤子・F・不二雄『ドラえもん』野比のび太の典型的な台詞

*³『アダムとイヴの生涯』14:3 〝私は答えた『私の中にはアダムを崇拝する気持ちはありません』。ミカエルが私に礼拝を強要したので、私は彼に言った。『なぜ私に礼拝を強要するのですか。私は、私よりも低く、後にある者を礼拝することはありません。私はその被造物よりも先にいます。彼が造られる前に、私はすでに造られていた。彼が私を崇拝すべきです』〟

*⁴ Satan and mystics

*⁵ 松平千秋訳、ホメロス著『オデュッセイア 下』 岩波文庫 (Kindleの位置No.258-268)..Kindle版.

*⁶ 矢島文夫『ギルガメシュ叙事詩』ちくま学芸文庫

*⁷ ポルノグラフィティ『ミュージック・アワー』歌詞 「なぜ人を好きになるとこんなにも苦しいのでしょう?」この後はこう続く。「それは心が君のこと急かして蹴飛ばしているからで」

 トップ画像はギュスターヴ・ドレによるミルトン『失楽園』の挿絵

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