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社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)と物理的距離(フィジカル・ディスタンシング)

*写真はみんなのフォトギャラリーから拝借しました

わたしたちは「他者との社会的距離を意識するという考え方に目覚めてしまった」

 京都大学のオンライン公開講義シリーズ「立ち止まって、考える」を聴いていて(地域研究/メディア学 - メディアとコミュニティ―東南アジアから考えるの第一回)、山本博之准教授の言葉に、あ、それ!と思った。

 週数回の外出では、自分も含めて、すれ違う人々の距離感の意識を感じるし、先日、オンラインで注文した書籍を受取りに行って、書店(書籍の受け渡しのみの営業)の人と言葉を交わしたのも、ほんの数秒でドア越しだったが、ぎこちなさを感じた。スーパーのレジで支払いをするときも、品物の受け渡しの際、相手の手に触れないように、お互い意識しているのも感じる。コロナ終息を政府が宣言したとしても、個人レベルで、コロナ以前のように、ハグをしたり握手を交わしたりするタイミングを、自分は感知できるだろうか?と考えることがある。自分は大丈夫だ、と思っても、相手はまだ警戒しているかもしれない。とり越し苦労ですが、ときどきちょっと考えるのです。個人的には、ハグ文化が肌に合っていると思っているので、わりと淋しい。

 山本准教授は、社会的距離感の意識が、今後すぐになくなることはないのではないか、ということで、その影響について二つの可能性を示唆されている。

1.相手の居住地や職業など属性によって、相手との距離を保とうとする心理的な距離。これは、感染者の多い国や地域、職業の人々と接するときに起こり得るだろう警戒心からくる。この心理作用が極まれば、国境を閉ざして孤立したほうがよいのではという考えにつながる。

なるほど!それは危険だなあ、と思っているところへ、

「コロナ以前の社会は、人々は互いに緊密であればあるほどよい、交流が深まれば深まるほどよい、という発展の道をたどってきた。国境の垣根を低くして、人も物も情報も、国境を越えて自由に大量に往き来できる方向に世界が向かってきた」

しかし、”孤立したほうがよいのではないか、という考え方は、民族主義やナショナリズムに発展する懸念がある”と。

あー、人類の歴史は、戦争、闘争、革命、いろいろ経験してきて、ときには大義名分だとしても、民主主義という観念を抱きつつ流れてきたのに、しかも、その理想には未だほど遠いというのに、逆戻りしちゃうんだろうか。近年、世界各国で、ふたたび二元的な思想が頭をもたげつつあるような印象を持っていたのだけど、これは、その状況に追い打ちをかけることになるんじゃないか? 

辛い。

そして、二つめの可能性を耳にしたとき、星新一的なSFの世界が、自分の脳みその中で展開し始めた。

2.現在の情報技術の発達によって、人と人がつながる機会が増えている。

 一般に言われる”社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)というのは、物理的距離(フィジカル・ディスタンシング)のことだ”と。これは、職場のオンライン・トレーニングでも、”必要なのは、フィジカル・ディスタンシングで、社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)を実践する必要はない”と講師が言っていた。確かにそう思う。 

 コロナ以前から、SNSなどの交流を目的としたプラットフォームは、すでに普及していたけれど、それにさらに拍車がかかるのではないか、”情報技術の発達で、今後、直接知らない人同士が、国境、言葉の壁(機械翻訳の発展)を越えて、動画などで交流することが、さらに増えるのではないか。”と、山本准教授が言われていた。

確かに!

ここで、現在可能なインターネット上での情報技術について考えてみた。

・SNS等での動画、コメント

・ズームやユーチューブ等での会議、ライブ配信。企画側の人間は、聴視者のコメント書き込みに即時に対応可能。

・物語性があり、参加者が自分でキャラクターやストーリを操作できるゲーム

・写真の加工

 物理的距離(フィジカル・ディスタンシング)の意識が、コロナ収束後も人々の意識からなくならず、それゆえ更なる密接な社会的距離をスクリーン上に求めていくとどうなるんだろう…

 極端なバーチャル世界が発展するんだろうか。とりあえず今は、職場や家族、友達など、知っている者同士が画面を通して交流するのが主流だが、そのうち、知らない者同士が、インターネット上でいきなり社会的交流を持つのを目的としたプラットフォームが流行するんじゃないだろうか。最近、画面上でも、カラオケの演奏に時差がなく、誰とでも一緒に歌えるアプリも続々登場している。

 写真加工なんかを使って、顔や声(そんなアプリもあるかもしれない)を修正し、本当の自分と違う、もう一人の自分を作りだして、お互い交流するなんていうこともでてくるんだろうか。

 で、そっちの世界のほうが本物のような気がしてきて、実在の自分は栄養摂取するだけの生命体になって、不要不急以外の外出もしなくなり、どうしても外に出なければいけないときなんかは、本との自分をさらけだすのが心もとないので、誰にも会わないようにと願いつつ、不運にも誰かにばったり会ったりしても、その人が実は、バーチャル世界で交流している人物だとは、つゆにも思わない。何だ、醜い奴だな。交流アプリでつき合ってる○○さんとは大違いだ、なんて思ったりして。相手もたぶん同じこと考えてる。

どうなっていくんでしょう。これからの人類社会。

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