東京という喪と喪失 -映画「東京物語」に寄せて-

手と団扇

映画「東京物語」(1953)において、原節子が演じる紀子と東山千栄子が演じるその義母のとみは、いくらかの現金のお札を間に挟んで、互いの手と手を重ね合わせる。この一連のシーンについて、吉田喜重は「そうした他人〔嫁と義母〕の眼差しがともに美しく息づくあまり、われわれは沈黙して魅せられるしかない」という(01)。しかし、後述するように、この場面の違和感にむしろわたしたち観客は「沈黙」せず、爆笑ないしはツッコミたい衝動に駆られる。吉田もこの義理の母娘の現金のやりとりを「残酷」としているが、そちらはそのようにいえるのかもしれない。
それにしても小津安二郎の映画において、人間と人間が触れ合うというのは、やや異様な事態に属する。ベットシーン、男女や親子が抱き合うシーンなどほぼ見られず、一瞬だけ頬と手が接触する平手打ちは、確かに1930年代のいくつかの作品には見受けられる(02)。また、とみと紀子とが札を媒介に手を合わせるのは、終盤でこの義理の娘の紀子と実の娘京子(香川京子)が尾道の家の玄関で手を繋ぐシーンへと時をおいて連なり、重なり合ってもいる。
この映画で怖ろしいほどに効いており、幅を利かせているのは、あの団扇たちである。団扇という小道具は、東洋にある東京という印象を与えてもいるが、数々の団扇たちの揺らめきは、画面に奇妙な揺らぎやシンクロを生じさせるとともに、それでも人物たちの手の平に替わる道具として用いられていることは指摘しておくべきだろう。熱海のシーンでは、温泉宿で夜に眠れない親夫婦がいる。とみとその夫の笠智衆が演じる周吉が眠れていないことは、彼女らが手にする団扇の動きで一目瞭然である。その後、夫の団扇がやや暴力的に自らの肩あたりを叩く。その動きには微力ではあるが不穏さが滲み出ている。

(01)1998,吉田喜重『小津安二郎の反映画』岩波書店,p215
(02)例えば「東京の合唱」(1931)、「東京の女」(1933)

山なる母

笠智衆が演じる平山周吉が団扇で追っているのは蚊であろうか。この仕草によってその蚊が圧殺されたかどうかまでは定かでない。しかし、ここでは団扇の規則的で穏当な揺らぎが変調し、周吉の手を介して素早く動き出す。そよそよと送風をする道具が五月蝿い虫をバシバシと追い遣り排除する道具に変化し、あたりはやや不穏な空気を帯びてくる。
また、周吉が呪われた自らの身体をその手を持て打ち据え、あるいは身体に憑きまとう何者かを祓うように叩き出しているようにもみえなくはない。終盤でもこのような暴力的な団扇の動きがもういちど見られる。象徴的には、東山と笠がそれぞれ演じるとみと周吉の二つの身体は、国土であるといえる。東山や平山の「山」のせいではないが、連想や人物背景との具合からすると、彼女と彼は山や海のようにも見えている。
この熱海の宿の寝床のシーンのすぐ後には、映画史に名高い防波堤に並んで座る夫婦(父母)のシーンがある。ここでとみという母は凶兆が兆すかのように防波堤の天端に跪く。このとき裏に見えている海辺の山並みの具合ととみの背中の具合が重なり合い、驚く。つまり、とみと周吉という母と父は、長男、三男、次女を東京や大阪という都市に奪われ、あるいは次男を戦地に失い、尾道に残った末の次女もいつかは嫁に取られてしまう身である。国土である両親は、都市へと資源や人材を供給し、無意識に搾取されている。それと同時に、供給先としての都市東京のほうから男女がそれぞれにもつ人間生産機能を留保された存在でもある。周吉が蚊を払うように団扇を自らの肉体に浴びせるのは、熱海の騒がしくうるさい若い客らへの微力ながらの当てつけでもあるが、象徴的には、自らの身体から何かを奪おうとする都市東京への虚しい反逆の仕草、あるいはリアクション、そして自律的な痙攣のようにもみえる。紀子が住み、次男の遺影が書棚の上に祀られたあのアパートの一室は、吉田がいうように「残酷」でもある。つまり、紀子が義母のとみに手渡すあの薄い札(裸のお札ではなさそうではあるが、紙切れ程度の、小遣い程度の厚みしかない)は、戦死した次男をめぐるトラブルに関する手切金や見舞金のようにも感じられる。あるいは、東京と尾道という、供給先の都市と供給源の故郷との間に密約された、あまりに非対称な対価のようにもみえて残酷なのである。紀子がとみに渡したそのお札は、「いったいいくらなのだろう」とも思わせる。それがいたしかない戦争であったとはいえ、紀子は妻としてあるいは都市の一部として次男の生命に責任を負っていたのだし、この若い夫妻は子を残すこともできなかった。その負い目が、紀子をして紙切れ程度の札を尾道に払わせたのでもある。しかし、失われ、損なわれた二つ以上の命の対価としては、笑ってしまうぐらい薄っぺらい札ではあった。
問題はこの札で取り結ばれた紀子ととみの手と手の後の場面にある。二人は立ち上がる。キャメラは玄関側から窓側へとどんでん返しとなって回り込み、玄関ドアから二人が消えていく二人の女性の姿をとらえる。そのショットに違和感がある。

点く電球と消える電球と

吉田はここで、とみがハミガキと歯ブラシを置き忘れそうになり、それを紀子がフォローしたことに注意し(03)、「おだやかにしのびよる母の死」を指摘している。しかし、忘れるということでいえば、吉田は指摘し忘れているが、そのすぐあとの玄関先に掛けられたあの黒い傘をも忘れていることのほうがより重い。いずれにせよ、ここで問題にするのは歯磨きセットやこうもり傘を忘れたことではない。あるいは、その置き忘れにも関連するが、シェードのある電球がこの朝になってどこかに消えてしまったのか、見えなくなっていることである。電球は忘れ去れらるどころか、消え去っていると思われるショットが現れるのである。
二人がアパートのドアの向こう側へと消える前、二人が立ち上がったときに、昨晩までは、鴨居よりやや下、身長約165cmの原節子の額ほどの高さにまで提げられていたはずの電球が、画面から消えていることに気づく。作劇上は、この電球を消灯する動作が重要なアクションとなって印象づけられていたにもかかわらずである。この消灯前後の場面は、義理の母娘の人生にとってそれぞれに忘れがたい一場面となったに違いないであろうが、その際、さめざめと提げられていたあの電球が、一晩で消えてしまったのは何故なのか。
アングルのせいでフレームから消えてしまったかもしれないが、おそらく小津のアングルはそんな甘いものではないだろう(04)。しかし、小津の映画のなかでは、同じシーンの前後で繋がらないショット群というのは散見される(05)。例えば、「東京物語」においても、終盤の尾道における母とみの葬儀後に執り行われた精進落としの食事の場面で、テーブルの上のお椀や湯飲みの配置が、人物たちが誰もそれらの小道具に触れていないだろう流れのショットの間で、置き換わっているのが確認される。映画の中の時間経過の外側で何ごとかが起こっており、こうした繋がりの欠如には、物があるという時間とその物が位置する空間に何ごとかの異変があったようにも感じられる。
映画の撮影効率の問題として、いわゆる「中抜き」がある。前後のショットの間でどんでん返しとして、キャメラが真向かいの逆転する位置へと移動が繰り返されるとき、中抜きは用いられる(06)。セット内でのキャメラの移動とそれにともなう道具や登場人物の配置換えの労力を省くために、「方押し」で、つまり同じアングル方向でのショットをまとめて撮ってしまった後で、どんでんを返した方向のショットをまとめたり、サイズの異なるバストショットをまとめて撮ったりということが行われる。こうしたキャメラの移動に引きずられた機材と裏方スタッフの大移動の際に、小道具や装飾,美術といった空間配置上の齟齬が生じてしまうということはある。どんでん前の時間軸とどんでん後の時間軸を編集によって交互にクロスさせて映画の中の時間軸に落とし込む際には、少なからぬ異動が見られるのである。そして、小津は意図的に「同一のシークェンス内で、小道具の配列を変えてしまう」(07)という証言もあり、特に手前に映り込む小道具などの大きさを、ショットのサイズによって、大小の同じ型のものを入れ替えて見栄えを整えることもしている(08)。
それにしても、紀子のアパートの一室に光をもたらすためにぶら下がる電球は、芝居や見栄えの都合で消えたのだろうか。その三角の笠の下の球形の電球という図像的な構成は、その背景に例の義母に忘れられるこうもり傘を配してしまうと、三角(笠形と傘型)と丸(電球と傘の柄の半円のような「?」型)というイメージがダブってしまう。このダブりが意図的に構図として避けられたのだろうか。撮影の効率を求めるなかで不慮の事故として、誤って消されてしまったのか。晩の場面のポジションとアングルから少しだけずらすことで、電球がぎりぎりに見切れないように狙ったのか。間違えて電球を先にばらしてしまった(あるいは電球を後から追加した)のか。いずれにしても、そうした欠如のある連なりの映画を良しとしてしまうところに、小津の面目躍如たる荒唐無稽な感性が現れていなかっただろうか。
この電球のような物体が「消える」というマジックまがいの欠如表現は、騙し絵が空間的なものとすれば、時間的な騙し絵としての映画の特性を最大限に引き出し、人間の認識にそもそも備わる慣性や錯覚を利用した魔法的な表現ともいえる。蓮實重彦がいうように小津の映画は「本質的には編集の映画」でもあって、キャメラマンの厚田雄春がいうように短めの「ショットをつないでリズムを出して」組み立てている(09)。このリズムは時間の慣性や持続に関わり、構図や構成は空間の惰性や錯誤に相当する。映画は、時間的にリズミカルであること、空間的にビューティフルであることを利用して、キャメラの前の現場にあったであろう、空間的にも時間的にも微小な細部の異動や微動(ずれや揺れ)を、まるで消えたかのように見せているのである。

(03)吉田,前掲書,p216
(04)1989,厚田雄春・蓮實重彦『リュミエール叢書 Ⅰ 小津安二郎物語』筑摩書房
(05)1978,ドナルド・リチー『小津安二郎の美学 映画の中の日本』フィルムアート社,p180,リチーは「小津は、ショットのつながりについて、いくらか無頓着であった」と分析し、「つながりの欠如」を指摘している。
(06)厚田,前掲書,p233
(07)リチー,前掲書,p179
(08)厚田,前掲書,p232
(09)前掲書,p221

ずれと揺れ

「東京物語」を編集の精度という観点でみるとき、デジタル標準の編集を見慣れていると、編集のカットの粗が見えてくる。いわゆるカッティング・イン・アクション(カッティング・オン・アクション、アクションつなぎ)という動作途中でのカットとつなぎがそれほどスムーズではない。コマ単位の手作業による編集の限界も感じさせる一方で、そこに残された粗、あるいはのりしろのようなカット前後の妙な間がノイズのように心地よくも感じられる。
その粗雑さがやや顕著に見えているのは、終盤において、長女の志げ(杉村春子)を筆頭とするこの家族の姉妹兄弟たちがあまりに薄情であることを次女の京子が指摘し、紀子がそれを諫め、諭すシーンである。
京子「・・・自分勝手なんよ」
紀子「でもね、京子さん」
京子「うんん、お母さんが亡くなるとすぐ・・・」
と続き、二人のバストショットで切り返されていくが、京子の「うんん」の直前、京子が奇妙な上下動を見せる。距離にして10 cmほど、時間にするとコンマ秒の程度であるが、やや粗いノイズとして目に留まる。この京子の謎の上下動のある縦揺れアクションも、ある失敗や別の演技演出の名残なのかもしれない。カッティング・イン・アクションがカッティングの前後で合わずにずれてしまう箇所は、この場面に限らず十か所以上はあるようにも感じられる。それは認識と意識の範疇にあり、編集も含めて現場に生じている粗をあえてフィルムに定着させるための技法であったのだろうか。
序盤で、平山の老夫婦は、東京の長男幸一(山村聡)の家(東武伊勢崎線沿線の墨田区足立区の区界あたり)に訪れる。その来訪は予定的ではあったが、妻(三宅邦子)や二人の男の子(村瀬襌、毛利充宏)は、普段は家にはいない存在である義理の父母あるいは祖父母がこの家にいてしまうその情況に、ややざわめく。幸一は自宅で医業を営んでもいる。その診察室から二階の部屋まで、この家の空間的構成が、家族の運動によって執拗に映し出される。彼女ら彼らがこの広くもない家を蠢く姿と、その家の内部に分節された空間の描写は、物語上はそれほど必然があるわけではない。そして、その家の中を歩くという単純な運動に合わせたカッティングの前後には、妙な余白が感じられる。不必要なショットが歩きだしの起点と歩き終わりの終点の間に挟まれ、さらにそのショットの連続の間にダブルアクションのような重複やジャンプショットのような抜け落ちがあることで、この家の内部の距離感が不確かなものとして感じられてしまう(10)。吉田がいう「反復とずれ」(11)は、むしろ物理的なフィルムのコマとコマの間に残され、あるいは消されているように感じる。カットされたフィルムの端々の余分や不足のコマは、やがてまるまる1ショット分の余分や不足となり、さらにシーン、シークエンスの余剰や喪失をともなって、異形のフィルムとして現れてはいないだろうか。

(10)1992,蓮實重彦『監督 小津安二郎』筑摩書房,p92,蓮實はこのような家屋の内部空間における距離感の混乱について、一階と二階をつなぐ階段に着目し、「階段が存在していないから」とし、それを「不気味なこと」と指摘している。
(11)吉田,前掲書,p47-49,吉田は「映画における完全なる模倣、過剰な反復を試みつづけた小津さんも、やがては二度と同じ反復はありえず、ありえたとしても、そこにはなんらかの差異、ずれを読み取ってしまう人間の眼差し、われわれ観客の見ることの限りない欲望に、映画表現の新たな可能性を見出してゆく」としている。また、小津が「あるかなきかのずれといった負の表現をあえて試みようとした」と指摘している。

独居房の心霊たち

小津の特徴としてよく言及されるのは、人物のクロースアップのバストショットにおいて正面ショットが多用されることである。このショット群はどのような問題を孕んでいるのだろうか。それらの遺影(12)のような不気味さはどこからやってくるのであろうか。
正面ショットの危険性は、セリフのタイミングとの兼ね合いにも関わる。写っている人物がセリフをしゃべっていることを前提とした場合、人物の間のセリフのやりとりの間の拍が妙に開きすぎてしまい、掛け合いが掛け合いにならない。人物はフレームという独房の中で、独白のように、セリフを吐いているという印象が際立ってしまう。掛け合い漫才などで気持よく感じられるのは、相方のセリフに被せるようにして、その言葉尻を遮り、自分の言葉をツッコミ気味にオーヴァーさせてしまうことであるが、小津には、先の紀子と京子のやりとりも見ていても、こうした被り気味のやりとりがほぼない。
人物の一定のセリフの途中でショットを変えないという通則が、「東京物語」においてある仮定する。現場でのリテイクに時間をかけるために、シナリオ段階の準備として、コンテやカット割りも脚本に書き込み、現場もその情報を予め共有していたために(13)、ショット間をまたぐような一人の人物のセリフを融通することができなかったのかもしれない。こうした通則は、おそらく小津が自らに課した制約ではあり、また現場では反則的な対応をしていなかったわけではないだろうが、儀礼的な通則は、映画の時間にあの独特な不穏や不吉さ、あるいは、もっと言えば心霊的な何か(14)を配することとなって独り歩きを始めている。その不気味な心霊現象が起こりうることも込みで、小津は儀礼的な規則や形式を選択したとも言える。しかし、なぜ心霊的なのか。

(12)吉田や蓮實には、「記念写真」の正面性や記録性についての言及はあるが(吉田,前掲書,p77-79、蓮實,前掲書,p195-206)、それは遺影としてではない。2011,山田慎也「遺影と死者の人格」,国立歴史民俗博物館研究報告第169集によれば、遺影の肖像写真は、葬儀写真集といったアルバムの体裁の中の一枚として現われている。また、そのアルバムの前進としては葬列絵巻があり、「葬列」の絵によって「継続していく時間が表現されている」。一枚の遺影としてアルバムのインデックスが独立し、肖像画や肖像写真が故人を偲ぶインテリアとして日本家屋の内部に浸透していったのは、日清・日露戦争以降であり、庶民への普及は、おそらく昭和以降、映画の隆盛と軌を一にしたものであろう。また、「東京物語」ではないが、サイレント期の「非常線の女」(1933)について、伊藤俊治は人物ショットに限らず、「デスマスク」というアプローチで分析している(2013,伊藤,「サイレント・デスマスク 「非常線の女」における小津安二郎の写真/映画」,ユリイカ11月臨時増刊号第45巻第15号(通算636号),青土社)。
(13)厚田,前掲書
(14)2013,丹生谷貴志「例えば正しく終わらせること、について」,ユリイカ11月臨時増刊号第45巻第15号(通算636号),青土社,ここで丹生谷は「映画とは動き出した写真である。言い換えれば、動き出した幽霊である。」としている。

その背後霊は誰?

平山周吉並びに平山とみが山や海のような天然に属するもののように見えると先に述べた。この「東京物語」では、二人がツーショットなり、他の家族と混じり合った時に、どういうフォーメーションを組んで、キャメラの前に現れているかという点に注目したい。いま映画やテレビドラマを通じて普通に見られているホームドラマでは、夫婦や親子といった一般的には親密でドメスティックな関係が、対面に向き合う配置で描かれることがある。もちろん、お茶の間のちゃぶ台を囲む二世代、三世代ほどの家族を描く際の典型としては、特にどんでん返しが効かないスタジオをテレビで生中継するような生ドラマの方式を引きずりながら、卓袱台のこちら側はがら空きで、向こう側の正面にこの家の家父長がどっかと座っているような配置が見受けられる。しかし、夫と妻が、あるいは親と子が差し向かいになるようなフォーメーションが取られることもあり、こうした場合は、非常に対立的で緊張を強いられる場面として現れる。「東京物語」にはこうした真っ向からぶつかり合うような対立が見当たらない。こうした緊張関係のあるフォーメーションがないとすれば、「東京物語」の家族はどのように配置されているのであろうか。
平山周吉と平山とみの老夫婦の基本的な配置(15)は、背後霊的であり、前後差をもって並び、重なり合うことが多く、彼女と彼の視線はひとつの画面の中で交差することはほとんどない。とみの方がより背後的であり、とみの前方に周吉が並ぶのは、おそらく父や男の優位を示しているだけでなく、それ以上の霊的配列を現しているようにも思われる。彼女と彼は、前後にずれながら、ほとんど目を合わせずに(16)、互いのいない方向を向いている。互いに話をするときには、顔や視線を向けるが、その視線が重なっているのかどうかは判然としない(17)。
はとバスのシーンは、この並びや視線の問題が顕著に現れている。バスに乗った3人の主要人物は、通例であれば、やや引いてひとつのショットに収めることで3人の座席が示されるべきであろう。しかし、このシーンでは、紀子とその前に座るとみはひとつのショットに収まるものの、周吉はただ一人他のモッブの乗客と一緒にショットに収まっている。通路が夫婦と男女を分断しており、二人は同じひとつのバスに乗っていないかもしれないとも感じられる危ういシーンである。車内は狭く、キャメラが思うように引けなかったという事情もあるかもしれないが、ここで確認しておきたいのは、バスガイドのアナウンスが乗客の視線を統御し、あちらこちらと指示しており、周吉は素直に従い、群れの中にいること、その一方で、紀子はあのいつもの不気味なアルカイックと言ってもいいスマイルをたたえていること、とみはもっと恐ろしい虚無的な顔つきであらぬ前方を見ているように感じられることである。そして、乗客たちは互いの背後霊のように座席に配置されながら、バスガイド以外のモブが視線を車内で交差させることはなく、千代田城ほかの東京の景物に視線を集めるような構図になっている。また、ここでは乗客たちがバスに揺られ、その運動がシンクロしていることにも注意が必要である。
このようにひとつの画面フレーム内や舞台となる部屋や車内に所在しながらも複数の人物が視線を交差させずにあるという事態は、対立の緊張は緩和されながら、人物たちはいったい何を見ているのかという不安と、見ている先に何かがあるのではなかろうかという不気味さがつきまとうことになる。例の正面ショットでは、観客のいるこちら側に人物の視線は差し向けられるが、それも時間の経過とともにいつしかずらされ、さらにそのあらぬ方向の視線の拡散が進行すると、どこか山か空か海へ解消され、視線は虚空をさまよっているようにも感じられてしまう。その視線の視点あるいは支点(始点)となる人物の所在すら怪しくなり、人間と目を合わせた会話や人間らしい仕事、仕草にむかう目的をもった目線が繋げていた社会との絡まりがほぐされ、その存在がどこか浮いてしまう。とみと周吉は、こうした虚脱の視線を取るための視点として画面に配置されている。彼女と彼は、もしかすると既に死んでおり、東京と、熱海と、大阪と、尾道とを所在なくさまよっているのかもしれない。実際に、二人を演じた俳優たちは既に死んでおり、ただ、二人が演じたその夫婦の役のみがわたしたちには見えているのでもある。

(15)2004,やまだようこ小津安二郎の映画『東京物語』にみる共存的ナラティヴ 並ぶ身体・かさねの語り」質的心理学研究2004年3巻1号
(16)厚田,前掲書,p160,厚田は、小津が「人見知り」で「大変恥ずかしがり屋」で、「初めての女優さんも撮影前に会うとき」、「眼を伏せて頬のところがちょっと赤くなる」ことを証言している。小津はおそらく女優を透かして向こう側にみえる心霊と対峙することができなかったのである。
(17)厚田,前掲書,p228,蓮實が「目線が合わないっていわれますね」と指摘し、厚田は「よくいわれます」と答えている。

死者の向き不向き

「東京物語」の中にも死者が登場する。生きている者が死者を見ることがあるが、一方の死者はいったいどこを見ているのだろうか。死者の目や視線はもう動かないはずである。また、体も顔も自らは動かすことができないはずである。そうした事態のなかで、いったい死者はどこを向いているのか、どこを見ようとしているのだろうか。
死んだ母とよの顔には、その視線の不気味を避けるために白い布切れが掛けられている。これは死の直後の死者に対する日本の風習としてごく当たり前の情況である。その布切れの下にある母の死に顔(「穏やかな顔」)を見るように長男に示されて、三男の敬三(大坂志郎)が取り除ける。どんでん返しにショットが切り替わり、この時に既に長女の志げはふらふらと揺れていて、敬三のセリフがある。その科白をきっかけに長女は泣く。あるいは泣いたフリをする。
この場面で志げは、死者である母の視線(それは寝ているため天を向いているが)の恐ろしさに耐えられず、自らの視線と視界を塞ぐべく、泣いている。あるいは泣いたフリをして自らの目を手で覆っている。とよの身体は、着物や布団や布に覆われ、あの団扇を翳し、傘を忘れてはつかみ、防波堤に跪きコンクリートに突っ伏さないように支えたあの手しかみえていない。顔や頭の一部も見えているが、そこに個性はなく、死者となって現れた彼女を示すものはその手のみともいえる。ここに見えている死者をめぐる機微と機構は「東京物語」の中でも最高度に機知に富んでいるといってよいだろう。恐ろしいのは、その志げの目先のすぐに見えている双体の石像(18)である。この二体の石像から発せられている四本の視線は、尾道のこの平山家のあの座敷をいつも貫通している。その揺らぐこともずれることもない厳然たる石の視線は、キャメラのレンズを通じて観客をも射抜いており、それはほぼ死者の視線でもあるともいえる。また、母とよが死んでその目も死に閉ざされたとき、母の視線は、この石の視線に同化していると考えてよいだろう。逆に、冒頭から動くことなく示されているこの視線は、終盤のとよの死を予告していた(19)。また、その双体は並び立つ夫婦を示す二体にも見えるのであるから、周吉にやがて訪れる死を包含している。また、数年前に広島市上空から注がれた死の熱線によって失われた大量の死や、また三男を含め全世界に溢れ出した死者に対してもこの作品が目を配っていたことはいうまでもない。

(18)双体の石像としてよく知られる双体道祖神は、通常、関東甲信地方に見られ、江戸時代後期から明治期にかけて造立されている。尾道の千光寺には天正十七年(1589)修の銘がある二尊逆修仏があり、双体道祖神と近い形態をもっている。逆修の意味は、この「東京物語」の主題と深く関わっている。生きている者が自らの未来の死に対して、あるいは既に死んでいる幼く若い生に対して冥福を祈るために造立されたものとして逆修は、あの平山家の庭先に異常な佇まいをもって据えられているのである。もちろん、逆修塔は通常庭先に趣味で据えるような庭石とは異なり、ほぼ墓(あるいは生前墓)に等しい石造物である。
(19)吉田,前掲書,p239,吉田は終盤で周吉が独り尾道の部屋に座っている場面を「亡き妻の、あの世より送る眼差しがみちあふれていたのである」としているが、石像については言及がない。ただし、懐中時計や空気枕を事物を介して「死者の眼差し」が注がれていることを指摘している。その意味では、石像という事物からの視線も「死者の眼差し」であり、おそらくその対面に見えた隣人(高橋とよ)の視線のさらに奥から注がれる干された蛸の眼差しも死者の眼差しの一つともいえる。

石、眼、そして木魚のフライング

墓石は直接的に示されているが、平山夫婦が上京時にさまよう上野の寛永寺あたりの石造の玉垣なども墓に類しており、千住火力発電所の煙突群ですら、垂直的で硬い墓標の様に現れ、死者の視線を画面と観客に降り注いでいるようにも感じられる。ほかにも渦巻き型で煙を漂わせている蚊取線香(垂直に立てて畳の間に置かれている)、提灯やそこに描かれた紋や文字、時計盤、墓に続いて示される欄干の擬宝珠飾り、木魚といった丸みを帯びた全てが死者の眼球のようにも見え、居心地が悪くなる。そしてその居心地の悪さを感じたであろう敬三は座を外す。
先に長女が泣き出す(泣いたフリを始める)場面について述べたが、その後、場面はどのように展開しただろうか。紀子は、石像のあるの方へと義父を探して駆け出す。その運動に呼応するように、次女の京子がこの座敷に縁側を伝って入ってくる。ここにもまるで紀子が京子に変身して再び現れたかのような不思議さが現れている。しかし、場面は紀子を追う。ややロングショットで二基の石灯篭とその間に立つ周吉が遠目にとらえられる。三つの立つものの間に紀子が少し変なリズムで駆け寄っていく。ここでの石灯籠は、これまで夫の周吉の背後霊のように配置されていたとみの代替物でもある。キャメラが紀子と周吉をフルサイズでとらえ直したとき、周吉の背後には石灯籠がまだ一基、そこにいる。そして石灯籠の火袋はその透かし彫りを両眼のように見開き、あの死が発する硬直的な視線をこちらに投げかけている。続いて、周吉の「今日も暑うなるぞ」をしおに、二人はこちらに向かって歩き出す。この尾道の平山家から石灯籠がある寺の境内へと続くシークエンスの空間と時間はやはりどこかに揮発してしまったかのように感じる。つまり、この石灯籠のある時空は、死の世界、あるいは死の縁としてみえている。続いてショットは、紀子と周吉をその場に残して、とみが死んで横たわる座敷に再び返ってくる。兄弟姉妹は一同みな無言で京子と紀子は涙の滲む目をいじっている。そしてショットが替わり、敬三と横たわる母が収められ、ここで早くも木魚の音が聞こえてしまう。そして木魚の音は続き、先に触れた墓や擬宝珠の実景を挟みながら、後続する葬儀場面へと連なっていく。死者の視線をも宿したこの木魚の音は、なぜフライングしてしまったのであろうか。この木魚は効果音であるというより劇伴の音楽としての扱いがなされているようである。座にいたたまれなくなった敬三が逃げた先でもまだ呪いのようなお経とともに一定のリズムで打音を刻んでいるのである。これよりもだいぶ先行していた母とみの最期の言葉とも言えるイビキやセミの声とも連関し、残された家族を次の運動へと向かわせる、母から発信された死後の音声のようにも聞こえている。

たとえ暑中に、もしくは喪中にあろうとも。

ところで、「東京物語」は東京の物語であっただろうか。
ここまで考えてきたところで、あの電球が魔法によって消えた理由と消えた行方がわかるような気もしてくる(20)。尾道の石灯籠の立面に見えた三角の笠とその下の火袋の丸い穴は、母の死や視線からの持続として現れていたが、それは、承前の現れであって、次男の死とその遺影の前に現れていた三角のシェードとその下の丸い電球を承けての図像であった。つまり、紀子のアパートで毎晩、点いたり消えたりして未亡人の紀子とともにあったであろうあの電球は、次男昌二の魂として現れていたのであった。そして母とみがアパートに訪れ、その魂を連れて「帰った」ために、その部屋からは消えたのである。
魂は、可変的でもあり、融合的(21)でもある。昌二の魂は母に憑き、母の死とともに融合し、義母の形見として周吉が授けた懐中時計として紀子の元に返ってきたともいえる。死と生との円環、尾道と東京との往復のなかで魂は、孤独を脱し、より遊戯的で融合的なものとして、紀子や周吉のような孤独な生の背後に憑いて回るのである。
ここで1953年の夏から秋にかけてに撮影された「東京物語」について、厚田の撮影記録(22)に目を通すと怖ろしい事態が判明する。この映画の主要人物である平山周吉、とみ、紀子のほか、京子を除けば、東京(ないし大阪)の家族であるあの兄弟姉妹たちは、東京どころか大船のスタジオをほとんど一歩も出ることなくこの撮影を終えている(24)。つまり、兄弟姉妹にとっては、この映画が「東京」物語というよりも、「大船」物語として撮影されていた。あの下町の長男平山家も、尾道の平山家も、長女の美容室家も、紀子のアパートも、熱海の宿も大船のステージセットであり、そこは東京でもなく、尾道でもない。尾道の浄土寺の境内ととみが横たわる屋内のつながりがやや飛躍的である理由もそこにある。また、墨田区か荒川区あたりの平山家の二階で周吉が荒川または隅田川の土手に遊ぶとみと孫の勇を見つめるような虚空の視線があり、ここでも周吉のバストショットとそれに続く土手のショットにはつながりが欠如しているが、それも周吉は画面の外を見ているだけで、その視線の先は虚空どころか屋外ですらなかった。前述した「つながりの欠如」についても、このシーンに関してはショット間はつながりが生まれる物理的な可能性は、周吉の視線のみに賭けられていた。
小津の映画による試みは、映画は魔法でもあるから、東京でないものを東京に変え、つながらない時間をつなげ、それによって観客の魂を映画の主題につなげ、わたしたち(の心?)を動かすことでもあった。したがって、戦死した昌二の魂や尾道で大往生(「大往生」もあの志げの言葉に過ぎないので怪しいものの)を遂げたとみの魂にわたしたちがつながれば、この作品はそれでも東京物語として完遂するのである。
この映画の喪の試みとは、わたしたちを何かしら感動させ、魂を動かすことにあり、喪の過程として、わたしたちはこの映画に感動しなければならなかった。とはいえ、いったい誰が亡くなったというのだろうか。そしていったい誰が喪に服することを切望したのだろうか。「東京物語」は、それでもまさに東京の物語でもあった。皇居の空間と機能は一部維持されたものの、東京という日本の近代は敗戦により、一旦は喪失された。しかし、魂に融合があるように、取り残されたわたしたちは喪に服するように、時には「東京物語」に感動しながら、東京に融合してきたのである。そして、この東京はいまだ喪の過程にあるようにあるように感じられる。
紀子、平山とみ、平山周吉らは、大船に留まることなく、東京を歩き、東京に休み、熱海で海を眺め山に重なり、尾道にも石灯籠の間から海を眺めた。その戯れはスタジオのステージ上の話ではない。キャメラが確かに戯れを外光のなかに映画として記録した。映画の中の三人は、白昼にさまよう虚ろな魂でもある。映画が上映されるごとに、さまよい、生きて、死んでいき、またさまようのである。この映画は東京のための喪の儀礼として今もあり続ける。
この東京の物語をこの先、失うことがあるのだろうか。暑い夏、団扇を揺らめかせながら、揺蕩うような視線を外に向けて考えてみたい問題でもある。

(20)蓮實,前掲書,p40,蓮實は、説話論的な構造が「一貫した持続として物語を異質な領域へと移動させる意義深い細部を主題と呼」び、映画監督である小津の主題論的な体系を考えている。
(21)蓮實,前掲書,p40,蓮實は(20)の引用部に引き続いて、「小津の作品世界は、並置と共存という主題が織りあげる錯綜した戯れの場からなっている」として、「ここでは、すべてが互いに肯定しあいながら豊かな融合を生きる」としている。その場とは、この世の生が想像するような、死後に死者たちの融合しながら戯れる魂の場としての「映画」に等しいといえるのではないだろうか。
(22)蓮實,前掲書,p331-343,収録
(23)10月17日の、おそらく旅客運送を終えた東京駅八重洲口改札口での深夜ロケには、山村聡、杉村春子が参加していた可能性はある。また、大坂志郎は国鉄職員として線路を走るショットがあるが、このショットも大阪ではないにせよ、都市路線でロケーション撮影されたであろう。

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