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「間」の中には全てがあるのかもしれない

大河ドラマを観ていると、雪のシーンや月夜のシーンが出てくる。
ドラマの中では様々な出来事が進行しているのだが、
その中で、
ただ雪が降っている場面、
それをただ誰がが眺めている場面、
月が出ている夜に、
道長とまひろが違う場所で、同じ月を眺める場面。(最近は一緒に見ている場面もある)
少し前では、まだ独身だったまひろが夜に琵琶を奏でる場面。
ストーリーも面白いけれど、台詞がない季節や時間や音のシーンを観ると、私は何故か「懐かしい」と思う。
それは、自分が前世に平安時代に生きたとかではなく、忙しくなかった自分の歴史の中のヒトコマの空気がそこにあるように感じるからだ。

私の育った時代、昔はスマホなど無くて、通信手段は宅電だけだった。
いま振り返ると、スマホの無い時代って私たちはどうやって生きていたんだろう?と、思い出せなくなる。

その時はその時でアナログに生きていたのだと思うが、

ドラマの中の雪や月のシーンには「間」があって、そのシーンがあるからこそ、他の台詞のある場面が浮き立つのかもしれないと気づいた。

思えば、昔、わたしがストレスによるパニック障害で倒れたとき(当時もスマホは無かったが)息つく間もなく、心と身体は高速回転、休むことなど無くて(夜もあまり眠れず)ただひたすら日々を過ごしていたように思う。
その時はその時で仕方なかったのだが、
ほんの少しでも自分に戻る時間があったら。。
夜空を見上げることが出来たら。。
ただ降る雪をぼんやり眺める時間があったら。。
少しは違ったのかもしれないと、ふと思った。


子供の頃、ずっと雨を見ていた。
大粒の雨の水冠をスローモーションで捉えることが出来た。

降り積もる雪の静けさと
石油ストーブの上の薬缶の音が
ゆっくり時を刻んでいた。

海で、寄せては返す波と遊び、
足もとが砂に埋まっていく感覚、
波のシュワシュワしたサイダーのような音は
永遠に繋がっていた。


那須高原に住んでいたときは、
夜、ミルク色の霧の中をゆっくり散歩した。
髪も服も湿気て濡れても何も気にならず、霧で霞む電灯が不思議だった。

晴れた夜は裸眼で昴の中の宝石のような星たちが見えた。(今は老眼で無理)
瞬く星たちをいつまでも見ていたいが上を見すぎると首が痛くなったっけ。(笑)

今思えば「間」だったんだと思う。

それから結婚して地方都市で暮らして子育て諸々に忙殺されて「間」を失ったとき、わたしは倒れたんだ。

月を見る
雪を見る
それが懐かしいと感じたときに、思い出した。

ドラマの中だけじゃない。

生きていく中で心に必要なのは、
何もないように思える時間、
何もしない時間、
ただ時が流れていく、
それを、自然を通して感じる時間。
それが、とても必要なのだということに。


タイパ、コスパ、は、本当に必要なものなのだろうか?
タイムパフォーマンス、コストパフォーマンスという言葉さえ長く感じて、3文字で表現する。
それって時間の節約なんだろうか。
時間って節約しなくちゃいけないものなんだろうか?

情報を得る作業は毎回そんなに急ぐことなんだろうか。
(たまには急ぐが。)

急いで得た、大切では無い情報は、どこへ消えて行くのだろうか。

栃木の川。

それよか、
空を見上げたり、
風の音に耳を澄ませたり、
月を眺めたり、
ただ何もせず静かに居る時間を得ることが「しあわせ」に繋がっているのではないかしら。

意識せねばその時間を確保出来ない事が多い。
としたら「間」の中にある全てのものから遠ざかってしまわないか?

「間」の中には全てがあるのかもしれない、とこの頃思う。

音楽をしていると、一瞬の「間」に心奪われる時がある。
(たぶん日本の伝統的な芸能にはそれが多くあるんだと思う。)

「間」は時を止める。
止まった時間の中に静寂があり、静寂の中には神なるものが住む。

急ぐから、急ぎすぎて、時はどんどん加速して感じるのかもしれない。

そんなことを考える秋の夜。

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