女性と家庭~読み手のカータ/テシー~

Varietyを終えたあと一昨日の私訳になるまで随分長い時間を要したのには、主に二つの理由があった。一番大きな点は、 ”womanliness” という英語で表現されたそれが、Tagoreさんの手元ではなんであって、どういう日本語で表わせばそれに最も近いのか、という原文の主題とも重なる疑問になかなか答えを出せなかったこと。”womanliness” と書かれているものを、「女らしい」と書き映すところまでが英語から日本語への翻訳であって、その日本語に何を読み取るのかは、それを読む人の責任かもしれない。けれど、『女性性の偽装』あるいは『偽装の女性性(こちらは奇しくも原文で触れられていたことに重なる)』がほんのわずかでも「おんならしさ」の中に含まれるなら、ワタシはこの文章に限ってはその日本語を充てたくなかったし、そう思い当たったときから、ずっと、この『-ness湖』の仲間のことが思われて、そこに棲む幾多の個性のうち、自分に親しみ深い ”is-ness"さんが
つまりはずいぶんときながに、その湖をのぞき込むワタシの問いかけるさまを岸辺で観ていてくれたわけだろう。「おんならしい」に限らず、「ーらしい」はすでに使い込まれてながく、とてもハイ・コンテクスト文化になじんだ接尾辞だろうと思う。発話者が詳細を語らなくても「ああ、あれね」と受け取り手が自分の経験と知識、人格でもって、了解するような…しかし、その「あれ」の中身はその両者でどのくらい同じものなのか、なかなか検証されないものだ。そうしてそのままその言葉は手あかのついた表現、というよりも、使い込まれる程に磨かれてつるつるになり、その本質の理解の手がかりがつかめないまま表面の感触のよさだけが知れる、といった、慣用の表現には通りがよければよいほどそんなところがあるように思う。一方 ”is-ness" はとても若いことばで、おそらくはこの言葉を必要から思いついた人の動機だけをまだ・そのまま意味してくれているーモリー先生が「それがあることのエセンス」と云いたかった時に産まれた言葉。それに ”-ness"があったから、”womanly-ness" は…と並べて考えた(今少し距離を置いてみれば接尾辞の "-ness"は ”necessary" に通じるような気がする。モチロン全部私の思い込みかもしれないし、”necessity" は暴君と原文が云った後にこう書くとちょっとドキドキしますが…)
womanlinessをこう日本語に表現しようと心が決まったとき嬉しかったので、その勢いで慌てて書き出したけれど、昨日読み返したら書き直したい箇所もちらほらあり…中身を理解して書き映すことはもちろん大事だけれど、包み紙を外してキャンディを渡すような親切は過剰だし、一般におせっかいとも言います…と反省しています。
 もう一つの理由は、仕事で必要から使っていた大量の紋切り型のことばとその脊髄反射の回路から離れるための時間が必要だったのでしたー自分の言葉を思い出すための、時間と、話し相手が、必要だったのでした―それがながいながいIntermissionでした。原文の高品位までを映せなかったかもしれない―Tagoreさんがこんな言い回ししないでしょ!という部分も多々あったはず、でもそれで意を汲めて自分に収めえたとしたら、それがよかったなと思う、ワタシの理想が低いのかもしれませんけれども(嫌味じゃないです。)例えば ”money-making” と敢えて言う時には、それなりの語気があるーので、普段ワタシも使わない言い方だけれど、選定してその語にしました。原文は私がそれまで知っていたTagoreさの詩の作品とはちがうー心のこもった美しいことばの次にいいものは心のこもった苦いことば―なんじゃなくて、そう思ったひとがそう云う言葉がそこに。

読み手のカータ/テシーとは:読んだ感想を現時点での精いっぱいのところで書き手に対して表明すること。そのように読んだ責任については読み手だけに持たせていただく、と宣言すること。そういったものの明日には変わっていたーとしても、新しく何かに気が付いたのなら、ことのこのことに関してはそれもよいこと。