国家というもの~読み手のカータ/テシー~

 毎日読みながら、長いなあ…と思っていたような記憶がある。一文毎に逃げ出したかったような、だるかったような記憶もある…だってどうしたらいいのだろう。Tagoreさんが書いたことは過去のこと、ワタシがまだここにはいなかった時のこと、言いにくかったかもしれない当時の趨勢への想いのはずだが、それが今、Tagoreさんはすでにいない世界で、ワタシが日々知る世界の動きと重なっての批判になって毎日一文づつ現れる。泣き言を言ってしまえば、Tagoreさんが指摘した効率=美徳という人類抑圧の体系が、原文当時よりも広く深く了承されて当たり前のようになっているのが今で、選択肢として並べられているものの中にはその体系の外にあるものはあまり多くない。ワタシも一人分でありながら、先に訪れるというTagoreさんの言った本当の自由の時代を、かけらか一粒に過ぎなくても想像できるのだけれど、その理想がいつ現実になるのか、どこからかやってくるのかそれともどこかへ行くのか…マートレイヤーをまたないといけないのかな?それならまあうんと先の話と聞くし…いやそうではなくて、そう時代が区切られるのならば、その一時代も文明化の過渡期かもしれず、今地球上のあちこちで長短あれども続いている戦闘状態を脱皮するように―悪い夢から覚めるようにー世界がそれを手段としなくなればいいなと毎日思う。今まではそう思うだけでも十分だったかもしれないが、心根の方は…現状を生み出しているその誤った心根のありかをじゃあどこにみいだすのか…という問題からめをそらせない。たとえばワタシの住む国は…ここに言われるような国家主義の手法を過去の敗北の時にきちんと脱ぎ捨てているだろうか?例えばワタシは国が過去のそれを引き継ぐと言い出したら反対できるだろうか?それをはっきりと見届けていないのに、お隣の国が戦争をしている今、100年前の過去のこと、他人事、としてこれらの文を読めないからきつかった。人の命が失われ生活が人生が損なわれるから、他の生き物も迷惑だろうから早く戦闘を止めて後のことは机上で時間をかけてきめておくれよー、と思うんだけれど、話題になるのは戦況や戦術として、あるいは株価と経済の動向への影響のことも多く…すごく単純に、戦争がいやじゃないのかな…と驚いてしまう。せっかく戦争しないよというルールを持っているのだからうちとこの国はそれをよりどころにしていい。ワタシでもできることがあるとすれば、徐々にでもいいから、あれら選択肢に手をのばすことではない生活-生きて活動しているーという時間を自分に増やしたい、私もそうしてはいるつもりだけれど、なかなか、100%そうはならない。一進一退。でも世界を変えるためのキャンペーンではなくて自分がどうこころよく空気をすえるかがということだから―やむことはないでしょう、なかなか実現しなくても。今回の随筆は特に原文の段落構成に、ことばに、道なき道を手探りでという手触りがあって、Varietyの回で添えた絵はいずれも読んでのそうした実感に通じています。トコロデ、

”nation” と ”Nation” と ”people” と ”peopels” と ”a people”  と  ”the people” をきちんと理解して書き分けられたかどうかが今もって気がかり。"man"=「人間」はまだしも”men"=「人間達」とした点は、ちょっと上から見ているような響きになるしでうーん、他の表現があればなあ…とおもいながらの選択です。一般には日本語では複数でも人間、とするのでしょうけれども…。また、私訳中の「駈り立てられ」は「駆り立てられ」とすべきところでした。"system” については以前一度出てきた…とても意外な所で…そこでは多分「系」と訳したはずですが同じ"system"の範疇の別のものとしてそれらがTagoreさんの中にあることがうかがえてとても興味深かったです。また高潔に感受する、とは印象深く、眼の前に居る人がそうであることを人はどれほど望んでいることか、と思いました、でも自分がそうでいることが先か…おもいださせてくれてありがとう!―つづきます。

読み手のカータ/テシーとは:読んだ内容について感じたことを、現在の精一杯のところで書き手に対して表明すること。そう読んだ責任はどこまでもこちらに持たせてもらうこと。表明後もあーでもないこーでもないと考え続けることも多いので新たな気付きがあって感想は変わるかもしれない、ので、明日には変わってしまうなら、ことこのことに関しては、それもよい事。