論文作法 公平

 今ままで、人が公平だった試しがあるか。弱冠19歳。世間知らずだとか青いだとか、無知だとか言われる歳の私は、公平ということがどうも桃源郷のように思えて仕方ない。いつだって公平は「期される」だけで、国のトップですら公平を「期して」選ばれる。誰も公平を「規した」ことがない。
 唯一、公平なのは死だ。そして、不公平の始まりはいつだって生だ。19歳の若造はこう思う。不公平レースのゴールは死、ここで人間はやっと貴賤優劣問わず、人種問わず、公平になるのだ。
 私たちはもうスタートラインから飛び出してしまった。スタートのピストルは勝手にならされて。ゴールラインは任意で引けたり、右足を出したすぐ先に急に現れたりして気まぐれで。途中リタイア逆走不可能、最悪の出来レース。しかも中には、全力ではしれ、なんてこと言う腑抜けた先達のレーサーがいたりして鬱陶しい。
しかし人は、すぐ近くにゴールラインが見えているとき、走る足がないとき、走らせるだけの余裕がないとき、走らせるはずじゃなかったとき、スタートラインをひかない選択をして、ウォーミングアップするレーサーを勝手に棄権させることができる。
 人は、突如出現したゴールラインをできるだけ遠くに引けるようになった。ゴールラインを割っても、ゴールテープを切る寸前で止まれるようになった。こうして、不公平レースは続く。続けることができる。
 仮死産でたまたまスタートラインが用意された私には、たまたま、走るための靴と足があった。極端に不利なアウトコースでもなかった。インコースでもなかったけれど。蘇生にたまたま致命的なほどの時間がかからなかっただけで。一度出走してみたら、他人を転ばせて走るやつとか、他人を無理やり「ゴール」させるやつとか、そんな奴ばかりいて。気づくと足元が泥だらけだったりずいぶんコースアウトしていたりして。「公平でなくては」先達はメガホンで怒鳴るが、メガホンの持ち主は、たまたま自分が「期され」なくても走れているだけ。全員初めから靴を履いた健脚をもっていて、全員同じ素材のトラックを走って、全員同時に同じスタートラインから走りだして、全員手をつないで同じみの仲良しゴールをするのか。そんなこと、我々は本当に「理想」とするのか。そんなわけないだろう。そんなの公平じゃない。平等は「規せても」公平は絶対に「規せない」。どんなに整地して線を引いても、アウトコースが不利なことに変わらない。誰かが、靴のないレーサーたちにに靴を与えても、もっといい靴を履いたレーサーが鮮やかに横を追い抜いて、その疾風に頬を叩かれる。
  私は、不公平だ。多分この先も、29歳の私も、39歳の私も、きっとずっと不公平の中で生きていく。だが、19歳の私は気づいた。これは「レース」ではない。我々は「レーサー」ではない。スピードや歩み方が違ってもおなじ「ランナー」だ。競う必要はないと。
スタートしたランナーたちへ、ごめんなさい。ゴールラインの先で待ってて。私もゴールラインの先で待ってるから。もしあなたと私がすれ違った時、私に二足目の靴があって、あなたがはだしだったら、靴をあげる。もし、あなたが息を切らしていたら、私の水を半分あげる。あなたが誰かを転ばせても、ゴールさせても、裁かれたあなたのことを祈る。あなたが私を赦してくれた時のように。私たち、装備もスピードもコースも何もかも不公平だけど、こんなランナー同士の愛はきっと、死よりも優しく公平を「規す」。確かに不公平に刃向かう、研ぎ澄まされた利器になる。私は、そう信じてる。29歳の私も、39歳の私も、ずっと不公平だけど、ずっとその愛を信じてる。


その100円で私が何買うかな、って想像するだけで入眠効率良くなると思うのでオススメです。